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牧逸馬とWikipedia

「だいたいさあ、話をしろとは言ったけど誰も、怖い話をしろとは言ってないでしょう」

 妻がしかめっつらを近づけ、私を叩くように右手を振り上げたので、

「だからお化けも屍体も出てこないし、べつに怖くはないだろ?」

 素早く私は言い訳しながら、反射的に躰を後ろに退いた。妻は怪談の類いが大の苦手なのだ。

 しかしいわゆる実話系ものは大好物のようで、海外の実録体験談を再現ドラマ化したテレビ番組などはよく観ていた。それなら、と以前、私が本で読んで知った有名な下山事件や帝銀事件などの話をしたら、内容がまずかったのか、ずいぶん顰蹙ひんしゅくを買ってしまったが。

「もう。ワタシは念のため、今日一日のことを聞きたかっただけなのに」

「念のためってなんだよ」

「それは……それはそう、一応あなたが心配だからよ」

「何が『あなたが心配だから』だよ、もう充分知ってるだろ。いつもどおり、いつもと変わらない平和な日本の日常だよ」

「なにを大げさな、人の気も知らないで。なにが『平和な日本の日常』よ。そんなことはワタシも充分、知ってます」

「マレーシア航空機の消失とか、韓国のセウォル号沈没とかあったし、こっちはこっちで心配だったんだよ。それに、ふだん日常の細々したことは話してるし、たまにはこんな話でもと思って」

「あっそう。それならそれでべつにいいけど。で、その無人船のことが実話だとして、なんでまたそんな話、あなたが知ってるのよ?」

 妻が振り上げていた右手を下ろし、持ち替えた左腕で頬杖をつく。

「ああ。それは子供の頃、たぶん小学三年か四年生のときだったかな……昔、お祖父さんに語り聞かされたことがあってさ」

「へえ」

「本好きの、いろいろ物知りなお祖父さんでさ。ちょうどいま時分かな、夏休みの時期に田舎へ遊びにだったときだったと思う」

「だいぶ昔のことなのに、よく覚えてるわね」

「まあな。昔、お祖父さんにこの話を聞いたとき、あまりに不思議で、凄く強烈なインパクトがあったってのもあるけど、もともとは祖父さんがそらで話してくれた話じゃあなかったからさ」

「“そら”じゃあない?」

「読み聞かせてくれたんだよ。牧逸馬まきいつまという人が書いたノンフィクションの小説を」

「マキイツマ? じゃあ、もとはその人が書いた話なの?」

「そうなんだ。知らないだろうけど、年配の日本人なら誰でも知ってる『丹下左膳』って、昔流行った時代劇があってさ」

 のちにテレビシリーズ化され、さらに人気を博すことにもなる『丹下左膳』を書いたのは、「林不忘」というペンネームの、大正時代にデビューした作家だった。その小説家が「牧逸馬」という別名義で昭和初期に連載し始めたのが、「世界怪奇実話」というノンフィクションのシリーズになる。

「へえ。だったらさあ、無人船の話も、ただの作り話じゃあないの?」

「いやいや。牧逸馬は単身、アメリカ大陸を何年も放浪してたくらい凄い英語が堪能で、当時は珍しい、海外に詳しい“進んだ”人間だったから──」

 ロンドンに一年以上滞在していたとき、街で最も大きな古書店に通いつめ、ヨーロッパ中の怪奇事件資料を大量に買い占めたという。

 帰国後、収集した膨大な資料をもとに執筆したのが、マリー・セレスト号のエピソードを挿入した短編『海妖』も含む、世界中の実録談を集めたノンフィクションシリーズだった。

 かの有名な、1888年にイギリス・ロンドンで起こった「切り裂きジャック」事件の詳細を書き記してその顛末を日本人に広く喧伝したのは、その世界怪奇実話の牧逸馬が最初だったといわれる。

「ジャック・ザ・リッパーってやつね。あの未解決事件ね、知ってる知ってる。だったら無人船の話も、たしかにノンフィクションの実話に間違いなさそう」

「そうさ。牧逸馬は当代きっての海外情報通だったから、執筆にあたってはしっかり資料を吟味したはず。有名な事件や事故なら新聞や雑誌によく取材され、詳しく記事にもなっただろうから、情報にも困らなかったろうし」

「ジャック・ザ・リッパーも超有名だもんね」

「マリー・セレスト号のことも世界中、大勢の人が知ってるように、牧逸馬のおかげで日本人にもいまだ有名な話なんだよ」

「そうなの? じゃあ、ウィキにも載ってる?」

「ウィキペディア? もちろん載ってるだろ」

 論より証拠、私はそれを実証するため、デスクトップを起動させるとすぐにネットで検索し、トップに挙がったWikipediaのマリー・セレスト号のページをクリックして妻に見せた。

「ほんとだ。ウィキにちゃんと載ってる」

「だろ。読み聞かせてもらったあと気になって、自分でも牧逸馬の本を何度か読んだから、けっこう内容は覚えてたんだよな」

「あれ? ちょっと、もうちょっとちゃんと見せて」

 見やすいようにスマホをできる限り近い位置に私が持っていくと、妻はモニター画面を確認して、

「これ、船の名前がマリー・セレスト号じゃあなくて、“メアリー”・セレスト号になってるわよ」

「ああ。これね」

 妻の疑問は、私も初めいだいた違和感だった。

「これは、たんなる表記の違いだろうな。日本語には、外来語由来の、独自のカタカナ表記があるから。ほら、最近は学校でフランシスコ・ザビエルのことを『シャヴィエル』って教えるって聞いたことがあるだろ」

「シャヴィエルって、ワタシたちからしたらちょっとヘンよね」

 “radio”を「レイディオ」とネイティヴな英語発音に近い表記ではなく、「ラジオ」と日本人がいまだに言うのと同じだ。

 牧逸馬は実話小説の中で“Mary Celeste”と英語表記でもわざわざ書いていたから、マリー・セレスト号と訳したのは意図してのことだろう。ブリグス船長も、Wikipediaでは「ブリッグズ」と表記されている。

「そういえば今日、昼間ヤマトが外で一緒に遊んだお隣さんの犬も、名前がメアリーだったのよ」

「おっ。仲良くなったのか」

「もちろん。おたがいワンちゃんラヴだから、その飼い主の奥さんととても気が合っちゃって、しばらく公園でお喋り。ヤマトもすっごくはしゃいでね、メアリーちゃんと一緒に散歩してあげたりなんかして」

「それは良かった。そのワンちゃんの種類は?」

「それがなんと、可愛い女の子の柴犬」

 大の犬好きの妻が、満面の笑みでこちらに話しかける。私に向かっては、本日初めて見せた笑顔ではないだろうか。

「それはともかく。それでその無人船の謎の、かんじんの真相は? マキイツマはどんなふうに書いてたの」

「それが、分からずじまいなんだよ。話をミステリアスなまま、謎は謎のままにして、終わり。当時、世間で噂されてた憶測を一通り列挙したり、否定的に一般論を取り上げたりはしてたけどさ」

「ええっ。そうなの。気になるなあ、真相。じゃあさあ、ウィキには?」

「ん? ああ。あるある。いくつか、仮説ならあるようだよ。一番有力なのだと……この、アルコール蒸気発火説、かな」

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