悲劇の家族旅行
簡単に背景の事情説明をすると、マリー・セレスト号はニューヨークからイタリアのジェノヴァへ、アルコールの入った樽を運ぶ大型の帆船だった。乗船していた人間は、ブリグス船長とその妻、それに愛娘ポーリンの家族三人、そして運転士二人を含む十二名の船員たち。
「ふうーん。乗客のいる船じゃあなかったんだ」
「まだ飛行機がない時代だから、商業も旅行も、ワールドワイドな交通の要は船、だったんだな」
「陸路よりも、海のほうが速いし量も運搬できるわよね、たしかに」
「だから運搬するといえば、当時はもっぱら船がメジャーだったろうな、物も人も」
「でも旅行でもないのに、奥さんと子供が一緒に乗ってたんでしょう?」
「そうなんだ。子供は、当時七歳の女の子だったらしいよ」
「うちのヤマトと同じ年頃ね」
妻が振り返って、背後のドアに視線を向けた。
大和は昼間にさんざん遊んで疲れたのか、夜ご飯を食べたらすぐ眠たくなったらしい。私は帰宅して早々に、となりの部屋で盛大な鼾をたてるあの子の寝姿を、ちらっと見せてもらっていた。
手足をだらりと伸ばした、横向きの無防備な格好を思い出して、ひとりニンマリする。
こちらに向き直って妻は、眉(といっても毛はないが)根の間に皺寄せ、
「なんでそんな、小さな子を船に乗せるの? 信じらんない。子供に何かあったらどうするのよ。ワタシなら、あの子にもしもなんかあったら気が狂っちゃうわよ、絶対」
「そりゃあそうだろ……だけど、いやだから、心配だからこそ一緒に連れて行ったんだろうな。今日、ヤマトを一緒に連れて行ったようにさ」
「うーん。そう言われたら、それはそうかもしれないけど……」
この連休中久しぶりに予定していた念願の家族旅行も、急遽休日出勤しなければならなくなったせいで、私は諦めざるをえなかった。
その、いわば悲劇の主人公たる私をあっさりほうって、「せっかくこの子と一緒に一泊旅行できたのに」「特別に泊まれるペンションを見つけたのに」と怒りを滲ませた、痛烈な皮肉のセリフを残すと、さっさと妻は自分で車を運転し、大和を連れて遊びに出て行ってしまった。
「で、その子も、奥さんも、ほかのみんなと一緒に消えてたってこと?」
「そうさ。みんな行方不明」
アメリカ政府は世界各国に大西洋沿岸地域の調査を依頼すると、海軍を動員し長い時間を掛け捜索した。が、誰ひとり、乗組員たちの消息は杳として知れなかったという。
「そっかあ……船からこつぜんと、人間だけが消えたんだ。それはたしかに、すっごいミステリアスな話ね」
妻は何度も頷いてみせながら、空いている右手をうちわにして顔をあおいでいる。つられて蒸し暑さを感じた私は、自室のクーラーの設定温度を下げた。
「な、面白いだろ? グロい屍体が見つかったわけでもないし、お化けや殺人鬼が出てくるわけでもないけどさ」
「うん、まあね。ちょっとフシギだし、ブキミ……っていうか、あなた、なんでまたこんな話なんかするの?」
「なんでって、家族サーヴィスになんか面白い話しろって言ったのは、いったいどこのどいつだよ」
世間がいっせいに連休を満喫している最中、ひとり休日返上で仕事している私に「バッカじゃあない」と出先から電話してきた妻は、
「家族よりも、仕事を選ぶのね」
いやみたらしく言い放った。
「そんなわけないだろ」
「ヤマトもすっごい楽しみにしてたのに」
妻がEメールで送ってきた、麦わら帽子をかぶってちょこんと坐る大和の写真──その可愛らしい姿を見て私が心底残念がり、宮仕えの我が身をなんだか愚かしく思ったのは事実。
さっそくその写メをスマホの待ち受け画面に設定してから、
「ヤマトは将来、海賊王になるかもしれないぞ」
親バカな発言をした私に妻は、
「なれるわけないでしょ。なに、マンガのワンピースでごまかそうとしてるの」
「悪かったよ。すまん」
「ワタシたち家族と仕事、どっちが大事なの?」
すぐこれだ。欧米的な性格の妻は怒ったとき、すぐ理不尽な二択を迫る。
「悪かったよ。ほんとうに悪かった」
「じゃあ、ちゃんとアナタには家族サーヴィスしてもらいます。今日うちに帰ったら、せめて話はしてもらいますから、たーっぷり」
それで今夜、帰宅した私はタイミング良く(ちょうどお風呂から上がったところだったらしく、防水カヴァーを被せたスマホを持っていた)妻にチャイムを鳴らして出てもらうと、ご機嫌を窺いつつ、マリー・セレスト号の話を一通り語り聞かせることとあいなったのだった。
「それから何年経っても、そして二十一世紀になった今日まで、乗組員みんな見つからないまま──どこへ消えたのか、なぜ消えたのか、まったく謎のままってわけさ」