謎めいた無人船のエピソード
時は1872年12月5日、白昼のこと──。
大西洋はビスケー湾沖合いに、一隻の帆船が日光に照らされ、静かに浮かんでいた。
当時としてはわりと大型の、二本のマストを使って推進する、それは比較的新しい外観をした船だった。これといって大きな損傷などはなく、丈夫そうな船体を海上にさらしていて、まったく異常はないように見える。
しかし──。
その辺りはここ数日晴れていて風速も航行にちょうどいい、穏やかな海そのものだった──にもかかわらず、その大型帆船はふらりふらりと、不安定に海面を漂っているのだ。少し横に傾いたり後退りしたり、風向きや潮の流れのままに、まるででたらめな動き、でたらめな進路だった。
誰か、運転している者がいるようにはとうてい思われない。それどころか、甲板の上にさえ誰ひとり、人の姿は見あたらなかった。
いかにだだっ広い大西洋上とはいえ、船上に見張りの人間ひとり置かないというのは、運航上考えられないことだった。
嵐にでも遭って、乗組員全員が逃げ出したのだろうか。だとしても、それにしてはあまりにも外観は綺麗な印象だった。
非常用ボートはすべて揃って縛りつけられたまま、ロープも破損なくしっかりとピンで留められている。何事もないように帆がぱたぱたと、潮の香りを含んだ風に時おりはためいているだけだった。
それ以外は人の声も、船の機動する音も、何ひとつ聴こえない。なんらかの信号や警笛などを発している様子もない。
ただ、静かすぎるほど静かに、その大型帆船は漂流しているのだ。
Mary Celeste. New York
ニューヨークのマリー・セレスト号──そう、船尾には書いてあった。
──船内はいっそう静まりかえっていた。
船首から船尾にいたるまで各船室すべて、通常どおり整理整頓された状態だった。どの場所も、埃ひとつ塵ひとつないほど綺麗に清掃され、整備されている。安全で清潔感に満ちた、だが生活感にも溢れた、ごくごくふつうの船の中の雰囲気だった。
乗組員たちの船室はそれぞれ多少雑然としてはいても、所持品はちゃんと箱にしまわれ、やはりきちんと整理されていた。枕元に恋人の写真が飾られたり各々の大切な品が置かれたり、それぞれのベッドの上はまさに人の寝た跡の形に、くっきり凹んで型になってもいる。
その水夫たちの部屋の前には、洗濯物がいくつも綱に掛けられ、ついさっき洗い、絞って干したばかりなのだろうか、一様にぽとぽと雫を滴らせ、甲板を濡らしていた。
しかし誰もいない。
船中の中央にあるメインハッチの蓋が半分ほど開いていた。だが暗く深く、覗く底のほうには、並べて荷物が収納されているだけだった。船倉は浸水していることもなく、主な積み荷らしいアルコールの入った樽も無事な様子できちんと並んでいる。
食料室に、充分な量の食材のストックはある。また、水槽内の飲料水も、まだまだたっぷりある。
炊事場には作って間もない、温かく、まだ湯気さえ立っていそうな食物まで、鍋の中にごっそり残っていた。
そこに、刃に短い髭の塊が付着した、料理人の物らしい使いかけの剃刀がひとつ、台の上にぽつんと放置されている。
しかし誰もいない。
船長室の食卓にも四人分ほどの朝食が残されていた。
テーブルの上に、コップに入った茹で卵が切って立てられており、子供用らしい小さなスプーンが無造作に、半分に減ったオートミールの皿へつっこんであった。食事のあと子供に飲ませようとでもしたのだろう、そのそばには咳止めの小さな薬ビンも置いてある。
通常、穏やかな波でも数時間もすれば船の細かな振動で滑って倒れてしまうはず──なのだが、テーブルの上に載った物はすべて、コップも皿も薬ビンも、変わらず立ったままだった。
しかし誰もいない。
その船長の寝室に一台のミシンがカヴァーをめくられ、放置されていた。そのミシンの上に、転がり落ちもせず、円形の指抜きが胴部分を下にしてちょこんと載っている。
まわりの床には、いくつか女の子のオモチャが散らばっており、子供の前掛けの袖をちょうど縫い付けているところで、ぴたりとミシンは針を止めていた。
しかし誰もいない。
船長室にも特別問題はないようだった。現金の入った箱に破壊された跡もなく、鍵はちゃんと掛けられていて、そのほかの貴重品類も、宗教と音楽関係の書籍が隙間なく並べられた本棚も、整然と所定の位置に収まっていた。
しかし誰もいない。
運転士の部屋も、ゼンマイの切れた懐中時計が卓上にあるだけで、別段大きく変わった様子もない。整頓された状態で、平凡な日用生活品があるだけだった。
しかし誰もいない。
室内に運転士の航海日誌があったが、それより十日前の11月24日までしごくありふれた内容の、しごく事務的な記述が続いたあとはなぜか、それ以降のページは白紙になっていた。
ただ、海図室の柱時計が静かに、正確に、刻々と時を刻んでいるだけだった。
しかし誰もいない──誰もいなかった…………。