表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
7/7

七 周回

「た、高原さん・・・・・!」

「晶生!」

 茂が立ちすくみ、そして道着姿の葛城と、普段着で見学していた山添が同時に高原のところへ走った。

 大森パトロール社の契約道場の稽古場は事務所にほど近いビルの地下にあるが、あまり広くない。この日もほかに数人の警護員が自主稽古をしているだけだった。

 茂の組手稽古の相手をしていた高原の左側頭部に、茂の右足蹴りがまともに決まり、そのまま高原が右膝を床につき動けなくなったのだった。

 高原を除いては武道に最も精通している山添崇が、高原の脇に跪いてその頭をそっと起こし、顔を覗き込みながら声をかける。

「晶生、目、見えてるか?声を出してみろ」

「う・・・・・」

 目を閉じたまましばらく顔をしかめていたが、やがて高原がゆっくりと目を開けて、軽く頭を振った。

「首は痛くないか?」

「ああ・・・大丈夫だ。ごめん、完全に・・・・」

「そうだな、完全に、別のことを考えていたな。」

 稽古をしていたほかの警護員たちも、驚いて遠巻きにしている。

「す、すみません、高原さん・・・・」

 見るも無残なほど動揺している茂に、葛城が近づき肩に手を置く。

「茂さんのせいじゃありませんよ。あの蹴りをまともに受けた晶生がおかしいです。型どおりですしそもそも晶生の実力なら・・・」

「・・・・・」

 高原が山添の肩を借りて立ち上がり、そのまま向き合った茂と互いに一礼し、そして四人は稽古場を後にした。

 葛城の私用の乗用車は、予定を変更して高原の自宅マンションへ向かって走りだした。

 運転席の葛城が、助手席の背もたれを倒して横になっている高原へ、厳しく声をかける。

「晶生。稽古中に集中できないなら、稽古なんかするな。」

「・・・・そうだな」

「葛城さん、あの、きっと高原さんは俺が警護案件でいまいちしっかりできていないので、それをきっと・・・」

「茂さんは黙っててください」

「はい」

 後部座席中央の茂は大人しく口をつぐみ、窓際の山添が苦笑しながら茂の顔を見て片目をつぶった。

 ため息をついた茂に、山添が小さな声で囁く。

「怜がああなったら、しばらく放っておくしかないですよ」

「は、はい」

「それにしても・・・・晶生を空手で倒した警護員は、大森パトロール社の歴史上、後にも先にもきっと今日の河合さんだけでしょうね。つまり河合さんのせいじゃないってことです。・・・晶生のことも、気にしないで。」

「・・・・」

 車は夜のあまり渋滞のない道路を滑るように走っていく。

 風が強くなり、葛城はスピードをやや落とした。

「で、気分が悪くなったりしてないよね?晶生」

「ああ。」

「やっぱり契約病院へ寄ったほうがいいんじゃないか?」

「大丈夫だよ」

 高原のマンションに着くと、助手席から降りた高原に茂が手を貸した。

「ありがとう。ごめんな、河合」

 四人は高原のマンションのリビングまで入り、そして葛城がおもむろに隣の寝室のクロゼットから毛布を持ち出し、ソファーへ置いた。

「寝ろ、晶生。」

「あ・・・・うん、わかった。」

「寝巻はどこ?」

「クロゼットの下の引き出しだよ」

「ありがとう」

 茂と山添が立ったまま見守る中、さっさと葛城は寝巻を二組持って戻ってきた。

 ソファーに座った高原がきょとんとした表情で葛城を見る。

「・・・怜?」

「今日は俺もここに泊まるから。」

「ええっ?」

「茂さん、崇、悪いけど電車で帰ってもらえるかな。」

「いいけど、寝るところないぞ、怜。」

 高原の部屋にはいまだにベッドがなく、ソファーがベッド代わりになっている。

「床で寝るから大丈夫。」

「あの、葛城さん・・・」

「なんですか?」

「お、俺が泊ります。」

「え?」

「原因者ですから。・・・頭を打ったとき、数時間後に容体が急変することがある。そのとき誰か傍にいないと危険だからですよね?であれば、俺がいますから。」

 茂の顔を見て、葛城はしばらくしてようやく微笑んだ。

「ありがとうございます、茂さん。それじゃ、一緒に泊ってしまいましょう。」

 高原は恐る恐る口を挟んだ。

「寝巻、ふたつしかないぞ。」

「俺は大丈夫です、このまま寝ますから。」

「じゃあ、俺も泊るよ。三人いれば交代で誰か起きてられるしね。」

「なるほど、山添さん賢いです」

 高原はあきらめて毛布を開いて寝る準備に入った。



 深夜になっても、浅香はベッドの足もとの椅子に座ったまま、じっと考え事をしていた。

 ベッドで目を閉じている庄田が、見かねたように声をかけた。

「浅香さん、寝てください。深山さんが色々用意をしてくださったんですから。」

 庄田が寝ているベッドの隣には、折りたたみ式の簡易ベッドがしつらえられ、浅香のための寝具や寝巻が畳んで置いてある。

「はい、ありがとうございます。もうすぐ、私も休ませて頂きます。」

「あなたも、疲れているはずですから。」

 しばらくの間、再び沈黙が流れたが、それほどの時間が経つ前に今度は庄田は眼を開けて、部下に声をかけた。

「・・・浅香さん」

「はい」

 浅香が椅子から立ち上がろうとし、庄田は右手を上げてそれを制した。

「そのままでいいです」

「はい」

「・・・・今後、ターゲットがあなたと特別な関係にある人物の場合は、やはり私に事前に教えてください」

「・・・・・」

「それは義務でもなんでもないですし、私にそれをあなたに強制する権限もありません」

「はい」

「ですからこれは、お願いにすぎません」

「庄田さん」

 掛け布団の上に出していた両手を、庄田は組み合わせて額へ置いた。

「申し訳なかったと、思っています。」

「庄田さん・・・」

「仕事をする上で関係のないはずの要素は、関係がない。それ以上のことを、考えないようにしていました。見たくないものを、見ないようにしていた・・・・」

「他の人間に殺されるより、自分の手で殺したいと思ったんです。」

「・・・・・」

「本当です。」

「そうかもしれないです。でも、そもそも我々が仕事を受けないという選択ができたかもしれません。」

「あの女性は殺すべきでした」

「そのとおりです。うちが断ったとしても、結局はどこか他のところが・・・うちの会社ではないところが、やったでしょう。それでも、うちはやらないという、選択肢があったかも知れません。」

「・・・・・」

「おかしいですね。私が、こんなことを言うなんて。」

「・・・・・」

「どう考えても理屈が通りませんね。我々は仕事を決めるときに、その仕事が行われるべきかどうかで、決める。ターゲットが誰であるかは、関係ない。しかし、具体的なケースひとつひとつにおいて、携わる我々一人ひとりが、その時本当にできることをできる範囲でやるということ・・・身の丈を考えた仕事をするということを、もっと普通に考えてもよいのかもしれない。」

「・・・・・」

「個別のことの合計が、全体の最初の前提と符合しない。矛盾する。・・・おかしい。確かにそうだとしても、矛盾を怖がるばかりに、本当に最適なことを見失うこともあるのかもしれない。」

「・・・・それは・・・」

「私は、あなたの苦しみを、容認するだけの度量がないんです。まだ。」

「庄田さん・・・・」

「そんなことの自覚もなしに、あなたを苦しめた。」

「いえ、それは・・・・・」

 庄田はその切れ長の両目を再び閉じた。

 浅香は椅子から立ち上がっていた。

「だから私を・・・許してほしい。浅香さん。」

「どうか、謝らないでください、庄田さん。これからは、ちゃんと、全部申し上げます。」

「・・・・・」

「本当のことを全部申し上げます。悩みや迷いも、隠さず申し上げます。ですから・・・」

「・・・・」

「ですから、それ以上、私に謝ったりなさらないでください。耐えられないです。」

「浅香さん」

「耐えられないです。自分より遥かに多く苦しんでいる人が・・・・苦しんできた人が、自分に詫びる、それは耐えられないです。」

「・・・・浅香さん、それでは聞きますが」

「・・・はい」

「あなたは、必要な仕事をきちんとやり遂げた。しかしその一方で、ひとりの人間としては、やはり厳然たる事実として、愛するひとを失ったんです。・・・あの後、あなたは、泣きましたか?」

「・・・・・」

「泣いていないでしょう?それはきっと、できないでしょう?」

「はい」

「詫びるのは、ではやめましょう。代わりに、お願いをします。」

「はい。」

「それがどれだけ先のことであっても、いつか、泣ける日が来たら、ちゃんと・・・きちんと、泣いてください。」

「・・・・」

「お願いできますか」

「・・・はい。」

「・・・浅香さん」

「はい」

「どうして私があんなことをしたのか、尋ねてもいいんですよ」

「・・・お尋ねしようと、思っていましたが・・・」

「?」

「しかし、もう、その答えはずいぶんわかったような、気がします。もう二度とあんなことをしないでくださいと、お願いをしようとも思っていましたが、それは、私には過ぎたことだとも思います。」

「そうですか」

 浅香はそのまま、頭を垂れた。

「私の今のお願いはこれだけです・・これからも、あなたのチームで、あなたのために働かせてください」

「・・・・・」

「それだけです」 



 窓から入る月明かりと街の灯、そして部屋の微かな常夜灯が、辛うじて同僚の表情を分からせていた。

 葛城は、毛布を被ってソファーに横たわる高原の足元辺りに座り、同僚の顔を改めて見つめる。

 高原が低い声で話を続ける。

「今回のクライアントは結局警護員が交代することで、確定だよね?」

「ああ。波多野さんがクライアントと話して決まったことだからね。もう少しベテランのメイン警護員と、そのペアとで担当する。俺と茂さんは、つまりこれで終了。」

「・・・殺されないといいね。」

「そうだね。・・・波多野さんに聞いたけど・・・・奥さんは、クライアントの自殺したもと部下のご遺族に、謝罪に行こうっておっしゃったらしい。」

「そうか。」

「でもクライアントは、その必要はないって言ったみたい。」

「・・・・・」

 向かいのソファーで茂が寝返りをうった。一枚の毛布を分け合って、頭を別々の方向へ置き、長椅子の上で山添と茂が眠っている。

「ねえ、晶生。ほっとしてるんじゃないか?お前」

「・・・そんなことないよ」

「茂さんが、この警護案件から外れたこと。」

「・・・・」

「で、ほっとしている自分に、さらに悩んでいる。そうだよね?」

「・・・そうかもしれない」

「わかるよ。俺もおんなじだから。」

「そうか。」

「バカだよね、・・・俺たちって。」

「そうだな」

「後輩警護員に、成長してほしいのに、ずっと新人のままでいてほしい。」

「ああ。」

「警護員の仕事にどれだけ茂さんが生きがいを感じているかわかってるのに、危ないことをしてほしくない。」

「そうだな。」

「危ないことを最小限にすることはできても、しないことは、警護員の仕事とそもそも矛盾するのに。」

「・・そうだよな。」

「そして、あの探偵社。茂さんに奇妙な興味を持ってる・・・阪元探偵社。」

「怜、俺は、かつて月ヶ瀬がやろうとしていたことが、成功してたらよかったのにって、ちょっと思ってる。」

「・・・・・」

「波多野さんには、絶対言えないけどさ。」

「俺も、ちょっとだけ、思ってるよ・・・・晶生。」

「それが、無理なことだと分かっていても、ね。」

「そうだね。」

「あの探偵社が関わるときは、絶対に河合が警護をしなくて済むなら、なんでもしてやりたいよ。」

「ああ・・・そうだね。」



 翌朝早朝、街の中心にある高層ビルの事務所へ、目の下にくまをつくって出勤してきた部下を吉田恭子はあきれた笑顔で出迎えた。

「おはようございます、吉田さん」

「あなたは朝は弱いと思ってたけど・・・深山。」

「弱いです。」

 吉田はふらふらと応接コーナーに座った深山祐耶のために、パントリーからコーヒーを持ってきてやった。

「ブラックでよかった?」

「はい。ありがとうございます。」

「酒井からメールが来た。だいたい状況はわかったけど、とりあえず深山、料理当番なのに朝食前に出てきたらまずいんじゃない?」

「大丈夫です。三人分用意して置いてきましたから」

「それは偉いわね。」

「兄さんが起きる前に出て行かないと、また何を命じられるか分かったもんじゃないですから。」

 吉田は可笑しそうに笑った。

「三人分ということは、社長の家に泊まったのは結局・・・」

「凌介は夜中に帰ってしまいました。僕のことを置いて。」

「しょうがないわね」

 祐耶はようやく、上司の顔が自分に負けないほど眠そうであることに気がついた。

「吉田さん、もしかしたら徹夜されたんですか?」

「ええ。次の案件の準備作業が佳境に入っているから。今度は和泉と板見が担当だからあなたと酒井は入らないけれどね。」

「ほんとによく働かれますね、吉田さんって。」

「ありがとう」

 祐耶はコーヒーカップを両手で持ち、ゆっくり飲んだ。

 向かいのソファーに座って足を組み、吉田は改めて部下に尋ねた。

「社長と庄田は、うまく話がついたのかしらね。」

 祐耶が、もう一口コーヒーを飲み、頷く。

「少しは、そんな感じでした。でも・・・・」

「でも?」

「結局なにかうまく整理できたのかとか、解決したのかとか、そういわれたら、そういうことはないかもしれないですし。」

「そうなのね。」

「僕にはわからないです・・・・庄田さんがこの先、今回みたいなことをもう二度としないのかどうか、それさえ。」

「そう。」

「ただ・・・・」

 深山祐耶はコーヒーの半分残っているカップを、両手で持ち見つめる。

「・・・ただ、何が問題なのかは、だいぶ分かってきたみたいです。」

「なるほどね」

 やがて祐耶は、微笑した。

 吉田が部下を面白そうに見る。

「嬉しそうね」

「はい。少なくとも、社長と庄田さんは、仲直りはできたと思います。」

「なら、よかったわね。」

「はい。たぶんですけど。・・・・吉田さん」

「何?」

「すごく、庄田さんと社長のことを、心配しておられたんですね」

「そう思う?」

「・・たぶんですけど、徹夜されてたのは、仕事があったからだけじゃないでしょう?」

「・・・・・」



 茂は朝食の後片付けを山添と一緒にしながら、リビングのほうを振り返った。

「高原さん、まだ葛城さんは・・・・」

「うん、まだ寝てる。」

「ははは・・・朝食も食べないで、大丈夫でしょうか。」

「食欲より、睡眠みたいだね。河合、お前昼間の会社は大丈夫なのか?」

「今日はもともと有給とってましたから。」

「そうか。」

 山添が食器を拭き終わり自分の手も拭きながら高原に声をかける。

「今日、久々に和人のとこへ行くけど、お前も来る?」

「ああ、そうだな。行くよ。怜が起きたら怜の車で行こう。」

「そうだね。」

 茂は山添に続いてリビングに戻る。

 葛城は毛布にくるまって気持ちよさそうに寝息をたてている。

「・・・・・」

「ごめんな、河合。もうちょっと待っててくれ」

「あ、いえ・・・・」

「ん?」

「いつだったか高原さんに聞いた、葛城さんの不幸のお話」

「ああ、あれか」

「ほんとなんだろうなって、あらためて思いました。」

「あははは」

「何?」

 山添が高原と茂の顔を交互に見た。

「いや、」

 高原が山添のほうを、笑いを止めようと努めながら見た。

「怜が、女性と一緒に朝を迎えると、必ずふられるっていう話さ。」

「どうして?」

 笑いが止められない高原の代わりに、茂が説明した。



 坂を上りきったところにある教会の裏から、二人の人影が午前中の柔らかい光を浴びながらゆっくりと歩いて、再び道路へと出てきた。

 路肩に停めてあった軽自動車に、長身の男性が運転席側に、そしてそれより背の低い細身の男性が助手席に、乗り込む。

 扉の開いている教会の中から、大勢の人の気配と、そして室内楽に伴奏された声楽の演奏が外へ漏れてきている。

 エンジンをかけながら、長身の青年が隣の細身の青年に声をかけた。

「体調は大丈夫ですか?庄田さん」

「はい。夕べよく眠りましたので、かなりよくなりました。ありがとうございます。」

「ここに来るのは、緊張しますな」

「神様の前だからですか?」

「いえ、あの警備会社のボディガードたちが今日あたり来そうな気がしますんで。」

「なるほど」

 車が静かに滑り出し、そしてしばらく走った後、一台の車とすれ違ったとき庄田はうつむいて苦笑した。

「・・・酒井さん」

「・・・・・」

「あなたのおっしゃったとおりでしたね。」

 酒井はアクセルを踏む足に心もち力を込めた。


 葛城の私用の乗用車が教会の正面を避けて停車したとき、教会からは大勢の人が外へと出てきたところだった。

 車から降りた茂が不思議そうに見ているのに気づいて山添が説明した。

「ときどき、無料の演奏会が開かれているんですよ、この教会。」

「そうなんですね。」

 教会の裏手へまわると、横に長く階段状になっている墓地に出る。

 奥の端の小さな墓碑の前で、茂は車から持ってきた白いユリの花束を高原に渡そうとした。

 高原は笑って茂を止めた。

「お前が供えてくれ。河合。いいだろう?」

「あ、・・・はい。」

 葛城も高原の隣で微笑み、山添も笑顔で茂を促した。そして先輩警護員達が場所を譲り、茂は朝比奈和人警護員の墓の前に跪いた。

 花を置く場所に少し迷い、申し訳なさそうに少し隣の墓にはみ出すようにして、花束を置いた。

 立ち上がり、少し下がり、そして三人の先輩警護員たちと共にしばらくの間、祈りを捧げた。

 葛城の車に戻り、ドアを閉め、シートベルトを締めながら茂が助手席で言った。

「どなたか、いらっしゃったんですね。先に。」

「そうですね。」

 後部座席から、山添が窓の外を見ながら言葉を挟む。

「命日が近いから・・・かな。」

 車が走り出す。

 高原が山添の隣で、後ろに遠ざかっていく教会を見ながら言った。

「すごくよく手入れされた樹の・・・白バラだったな。」

「そうだね。花屋で買ったものじゃないね。」

 葛城は片手で運転用のサングラスを取り出してかけた。


 高速道路に乗り、スピードを増す軽自動車の車内に、明るい太陽の光が差し込む。

「眩しくないですか?」

「大丈夫ですよ。ご心配ばかりかけてすみません、酒井さん。」

「いえいえ」

「・・・・・教会から流れていた曲、美しかったですね。」

「社長が好きそうな曲でしたな。」

「でもあれはミサ曲でも教会カンタータでもないですね。」

「知ってはります?」

 後ろの席から、噂をされていた人物の弟が口を挟んだ。

「あれはオペラの曲だよ。兄さんの家にCDがある。」

「なんという曲ですか?」

「ビバルディの、Vedro con mio diletto。」


 茂は遠慮がちに、後部座席の先輩警護員に尋ねてみた。

「高原さん」

「ん?」

「阪元探偵社のエージェントが、死ぬとしたら、なんのために、だったんでしょうか。」

「ずっと考えてたのか」

「はい。」

「忘れられないんだな。」

「・・・はい。」

 少しの沈黙があった。

 高原が両手を頭の後ろで組む。

「迷ったらさ、逆を考えてみるのも、ひとつの方法かもね。」

「逆ですか」

「死へ向かうのは、生きる意味を激しく求めているからかもしれないよ。」

「・・・・・」

「そして生きる意味を、渇望するのは、結局さ、しばしば・・・・」

「はい」

「それは愛がおかしなことになってるときじゃないかな」

「え?」

「足りなかったり余ってたり、行先がわからなくなってたり、ね。」

「・・・・・・」

 車内の空気が一気に変わった気がして、茂は戸惑った。

 山添が言葉を出す。

「で、挙句の果てには、自己を否定することでしか、愛を表現できないことも、あるのかもしれないね。」

「ねえ、晶生、崇。」

「なんだ?怜」

「お前たち、自分のことを言ってるようにしか聞こえないよ。」

「あはは・・・・・」

「反省が足りないと、またお仕置きされるよ。ね?茂さん」

「あ、はい、そうですよね、そうです。」


 深山祐耶は歌詞を暗唱した。

「Vedro con mio diletto. l'alma dell'alma mia, Il core del mio cor pien di contento. E se dal caro oggetto, lungi convien che sia. Sospirerò penando ogni momento.」

「イタリア語かいな。翻訳せい、翻訳。」

「シンプルな歌詞だよ。・・・・I will see you with delight, the soul of my soul. The core of of my heart full of content. And if I be far away from my dear, I will sigh, suffering every moment.」

「誰が英語に訳せっちゅうたんや。日本語にせい、日本語に。」

「欧州の言葉は英語に訳すほうがラクなんだもの。それになに言っているの、凌介。うちの会社の人間で、英語が分からない人はいないはずでしょ。」

「母国語じゃないとめんどくさいんや。」

 庄田は窓の外に目をやりながら、静かに微笑んだ。

「酒井さん、確かに、恥ずかしくなるような歌詞ですね。」

「・・・・まったくですな。」

「深山さん、社長にくれぐれもよろしくお伝えください。素晴らしいバラの花まで頂いてしまいましたし。」

「天候の割にはよく咲いたって兄さん言ってましたから。活用されて喜んでるんじゃないでしょうか。」

 太陽は南の空をあと少し上へと登りつつある。

 庄田はそのぬけるように白い肌をした手の甲で、こめかみを支えるように頬杖をつく。

「I see you with delight。・・・・会うそのときそのときが、大切な・・・時ですね。」

「そうですね」

「我々は、犯罪者です・・・。いつの日か、どこかで野垂れ死にするのが、まあ基本的な運命でしょう。」

「はい。」

「しかしそれまでの間は、愛とか幸せとか、人並みにそんな幻影も、追う。おもしろいものですね。」

「はい。そうですね。そう思いますよ・・・」

 酒井は前を見たまま、笑った。

「・・・心の、底の底からね。そう思いますよ。」

 軽自動車はスピードを上げ、街の中心へと向かった。

 空には低く、白い雲がかかっていた。


第十七話、いかがでしたでしょうか。

これからもよろしくお願いいたします。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ