四 謎
「茂さん、そうなんですか・・・?」
隣に座る葛城が、茂に尋ねた。
「はい。」
三人のほかには誰もいない夜の事務室の打ち合わせコーナーで、茂は、正面に座っている高原と隣の葛城に挟まれたまま、机の上に視線を落としもう一度記憶を蘇らせていた。
高原は左手で頬杖をついたまま、考え込んでいる。
「今思えば・・・・。・・・あのエージェント、あれだけの腕の持ち主で、俺にろくな攻撃もさせる隙もなかったのに、その割には・・・」
「確かに、骨の一本も折れてなかったですね。」
顔や体に絆創膏や湿布をしている茂の、体を改めて葛城が見る。
高原が頬杖を解いて両手を組み額へつけた。
「波多野さんが戻られるまでに、少し整理しよう。怜を足止めし、河合を一度は欺いてターゲットを確保した奴らは、河合が気づいて追ってきたとき、ターゲットをほぼ無視するかたちで河合に素手での勝負を求めた。」
「はい。」
「この時点でもう明らかなのは、今回のあいつらの目的が、ターゲットの殺害ではなかったということだね。」
「はい。」
「例えば、ボディガードがついていようと我々はいつでもお前を殺せる、というメッセージと恐怖をターゲットに与えることが主目的だったかもしれない。しかし、その後がわからない・・・。河合を・・大森パトロールの河合警護員をどうしたかったのか、が」
高原は茂のほうを見て、ため息をつき、そしてふと言った。
「河合お前さ、もしもあのとき、三人目のエージェント・・・酒井が現れていなかったら、どうなってたと思う?」
茂はゆっくりと高原の眼鏡の奥の目を見返し、きっぱりと言った。
「あのとき俺は、怒りですごく動転していました。そしてまともに戦って勝てる相手じゃなことも明らかでした。クライアントを守るために、なんとか隙をついて海へ突き落してしまうしかないと思っていました。」
「そうだよな。俺がお前でもそうしていただろうな。」
「でも、落ち着いて考えたら、妙なことばかりです。そもそもどうして奴は、武器を捨てたのか。ターゲットの前で、ボディガードの非力さを見せつけるため?でも一撃たりとも今思えば、そう、本気の攻撃じゃなかったです。」
「だとすると、お前を挑発して、自分を攻撃させることが目的だったとしか、考えられないな。・・・一体なんだっていうんだ。意味が分からない。」
葛城が高原と茂を交互に見ながら、言った。
「茂さんに、英一さんのことを言ったんですよね?奴は。そして、私を足止めし、奴に加勢しようとしたエージェントは、以前英一さんを拉致して睡眠薬で眠らせて、殺害したと茂さんを騙した人間です。名前は浅香・・・。あいつらは、茂さんとその周囲の人間のことをよく調べて、なんとか対処したいと模索しているように見えますよね。何に対処したいのかはよく分からないですが。」
「奴は俺に殺されようとしたんでしょうか・・・・・」
「そうかもしれないな。そしてそれが、奴が至った結論なのかね。河合をめぐる、何かへの、対処方法の。」
「・・・・・・・」
茂は顔を覆うように両肘をついた。顔面蒼白になっていた。
「茂さん・・・大丈夫ですか?」
「・・・・はい・・・・」
「無理もないよな、ここまでわけの分からない状況に置かれてるんだもんな。」
「・・・・心配です・・・・」
「これからの奴らの動きが、ですよね・・・?」
「いえ・・・・」
「三村さんのことだよな?」
「それもありますが、あのエージェントです・・・・」
庄田が入っていった社長室の扉が閉まると、酒井は事務室の自席に座った、
今日ほどさっさと事務所を後にしたいと思ったことはなかったが、帰ることは許されなかった。
「酒井さん・・・・」
コーヒーカップをふたつ持ってパントリーから出てきた板見が、心配そうに先輩の顔を見ている。
「なんちゅう顔しとんねん、板見。若いねんから希望を持て、希望を。」
「酒井さんだって十分若いじゃないですか。」
「・・・浅香さんの様子はどうやった?」
「特に、何もおっしゃっていませんでしたし、外見からはよく分かりませんでした。」
「まあ、そうやろうな。なんにせよ、お疲れやったな、板見。」
「ありがとうございます。」
カップを酒井の机に置き、板見も自席に戻る。
「話が終わるまで、ここで待つように、との社長のご指示なんですね。」
「そうや。中で乱闘が始まったら止めに入るのが我々の役目かもな。」
「・・・・・。」
「冗談や、と言いたいとこやけど、今日はほんまにしゃれにならんかも。」
「・・・・・」
部屋に入ってきた庄田が扉を閉め、小さな円卓の前で立ち止まると、阪元はハンカチで包んだものを手に、ゆっくりと自席を離れ、円卓を挟んで部下と向き合って立った。
「君は現役のアサーシンではないはずだね。」
「はい」
阪元は美しい翡翠色の石のようなものが連なったブレスレットを、庄田の目の前に差し出した。
「酒井があのとき君の右腕をつかんだ、そのとき君の腕から抜き取ったものだ。」
「・・・・・」
「君のチームは薬品の使い方が上手いけれど、それは補助的な役目としての睡眠薬や催涙薬であり、殺害のためではない。我々は、殺害には薬品は使わないのが原則だ。」
「はい」
「では、これは何のためのものですか?」
庄田は答えない。
ブレスレットの、石のように見える翡翠色の玉のひとつを、阪元は親指と人差し指で強くつぶした。玉は弾力があり、やがて破裂して青い液体が滴り落ちた。
「経口の毒薬だ。これを身につけている人種は一種類しかない。アサーシンだ。」
「・・・・」
「服用すれば数秒で心臓が停止する。アサーシンたちは、これを含め通常三種類の、自殺用の道具を肌身離さず持っている。自殺は義務ではないが、ミッションが失敗し自分の身に危険が迫ったときの、選択肢として許されている。」
「はい。」
「なぜこれが君に必要なの?」
阪元の両目をまっすぐに見返しながら、庄田は返答をしない。
「君はターゲットの殺害ではなく脅迫が目的だった今回の案件で、河合警護員が一定以上の妨害をした場合は威嚇または殺傷すると決めていた。私の許可も得て。」
「はい」
「お客様のご了解も得ていた。浅香も当然そのつもりでいた。」
「はい。」
「しかし君のとった行動は、こうだった。・・・・酒井が一部始終を見ている・・・。・・おかしい点は、三つ。まず君は河合警護員を、自分と素手で対峙するよう誘った上、明らかに彼に、致命的な打撃を与えなかった。」
「・・・・・」
「そして、とっさに加勢した浅香を制止し先に船から降ろした。」
「はい」
「最後に、河合に対して、無用な挑発をした。・・・彼の友人のことを持ち出して。」
庄田は眼を逸らさず上司の両目を見つめている。
「あのまま酒井が止めなかったら、河合に反撃されて君は海へ転落した。そうだね?」
庄田は唇を固く結んだまま、しかし一瞬も上司から視線を外さずじっと立って阪元を見上げている。
「溺死する前に助け上げられてしまう可能性も考えて、毒薬まで準備した。・・・・心臓麻痺でも装おうということだね。」
阪元は部下を見つめる。
「・・・なにか、私の言ったことで間違いがあったら、言いなさい。」
庄田は何も言わなかった。
「え?」
葛城が聞き返し、茂は続けた。
「あのときは、怒りで頭が一杯で、分かりませんでした。でもやはりこれも今、すごくわかりました。俺を挑発して攻撃させたあのエージェントは、ずっと、俺のことを見ながら・・・・全てが終わったような、哀しそうな顔を、してたんです。」
「・・・・・」
「なんというか、たとえば・・・墜落していく飛行機の中で家族宛に遺言書を書いている人って、きっとこんな顔をするんじゃないかって、思えるような・・・・」
「そうか」
「あの人、絶対、死ぬ気です。それも、昨日今日決めたことじゃない。すごく長い時間をかけて、たどりついた結論、という感じです。」
高原と葛城は言葉を失って茂を見つめた。
やがて、ふたりの先輩警護員は、それぞれ小さくため息をつきながら、少し微笑む。
高原が再び口を開いた。
「お前の言うとおりなんだと思う。一番近いところで、お前が感じたことはたぶん正しい。そして俺たちが今まで見てきたあいつらの行動からも、あいつらが何かに悩んで、出口を探していることは、よくわかる。」
「はい。」
「通る道のりは違っていても、死という同じ結論になることは、ときどきあるね。」
「・・・・・」
「月ケ瀬も、そして山添も・・・崇も、そうだった。」
「・・・・・」
「人を愛さないために、月ヶ瀬にとって自分の命は何より軽いものだった。崇は・・・親友とその弟を愛するがゆえに、彼のために死のうとした。」
「・・・・はい。」
「でも、どれもやっぱり、間違ってる。おかしいよな。」
「はい。」
「河合、お前はとんでもない人間たちに囲まれて、ほんとに大変だと思うけどさ。でも、無理な願いだけど、頼む。あまり、落ち込まないでくれ。」
「・・・・・」
高原が頬笑み、そして葛城が茂の肩を抱いた。
「茂さん。ちゃんと波多野さんがお仕置きしてくれましたから。私たちは、ばかなことは二度としません。」
「そうだぞ、河合。」
茂は唇を噛み両目を閉じ、そして再び開くと、先輩たちを見て半ば信じがたいというような、しかし半ば安堵した表情で、微笑んだ。
そして改めて高原のほうを見て、頭を下げた。
「高原さん、警護の前にアドバイスをくださり、ありがとうございました。」
「ああ、あのことか。別にいいのさ、大したことじゃないからね。」
「いいえ、まさにぴったり当てはまりました。」
葛城が高原と茂を見比べながら、首をかしげていたが、ふと気がついたように頷いた。
「俺になにかあったときどうするか、茂さんに助言してたんだね?晶生。」
「あいつらは芸が細かいことを仕掛けてくるからね。」
「確かに・・・。あの後、クライアントの奥様にお尋ねしたら、幼馴染のよう子さんはクライアントから『妻へ結婚記念日のサプライズにしたいから』とメールで頼まれて、当日現れたそうだ。でもクライアント本人には覚えのないことだった。」
「ほんとに芸が細かいよな。クライアントと偽物とが入れ替わる機会をつくる、それだけのためにね。」
「葛城さんになにかあったときは、罠が張り巡らされたということだから、奴らの誘いと逆の対応をすべし。そう高原さんがおっしゃった、そのとおりにしました。」
葛城も頭を下げた。
「ありがとう、晶生。」
「どういたしまして。」
高原は少し視線を先へと伸ばした。
「・・・・誰のために、死のうとしたんだろうね。あのエージェントは。」
「誰のため。・・・・あるいは、何のため、というべきなのかな。」
「そうだな。そして・・・したんだろうね、というより、してるんだろうね、というべきなんだろうな。阪元探偵社の、庄田という、エージェント。」
茂も葛城も、高原も、答えのわからない質問から、しかも現在進行形の質問から、逃れられない自分たちをよく自覚した。
阪元はずいぶん長い間黙っていたが、やがて初めて部下から視線を外し、そしてゆっくりと椅子の背を引き、腰を下ろした。
庄田はまだずっと阪元を見つめたまま、微動だにせず立っている。
部下をもう一度、今度は座った位置から見上げるように見つめて、さらに少しの沈黙の後、阪元社長が言った。
「・・・今日はもうよろしい。帰って休みなさい。」
「・・・・・」
「処分は追って通知します。しかし業務に支障を及ぼした訳ではない。それほど厳しいものにはならないから、心配しないように。」
「・・・・・」
「行きなさい。」
「・・・・はい。」
酒井と板見は、社長室の扉を開けて庄田が出てきたのを見て、逆に驚愕した。
思わず立ち上がった酒井の、脇まで歩いてきた庄田は、同僚の顔を見上げ、そして会釈した。
「・・・すみませんでした・・・酒井さん。夜遅くまで・・・」
「社長、大丈夫でしたか?」
「はい。」
「それはほんとに良かったですが、ほんとに意外です。」
「・・・私もです。」
酒井の脇を通り過ぎ、自席へ向かおうとした庄田は、しかし立ち止まった。
再び、酒井のほうを、振り向いた。
「酒井さん。」
「はい。」
「・・・怒られないというのは・・・・恐ろしい、ことですね・・・・・」
「・・・・・・・」
庄田はそのまま自席へ向かい、帰り支度をする。
板見は閉まったままの社長室の扉を振り返った。なんの気配も感じられなかった。
事務所出口まで行った庄田は、同僚に呼び止められ、振り返らなかったが立ち止まった。
「庄田さん。」
「・・・・」
酒井は、やや声を強めて、言った。
「面倒をかけられたことは、お許しします。」
「・・・・・」
「しかし、こんな時間まで付き合わされた俺に、ひとつくらい、あなたにお願いする資格はありましょうな。」
「・・・・はい」
「理由を、教えてください。」
「・・・・・」
「今日でなくても、かまいません。」
庄田はしばらく黙っていたが、後ろを向いたまま、やがて答えた。
「・・・・・わかりました。」
そのまま、元アサーシンは静かにガラスの扉から出て行った。