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三 襲撃

 土曜の夜は予想通りかなり強い雨となったが、観光船は通常通り就航していた。

 雨天の場合は雨天なりに、デッキに出なくても楽しめるよう、船内でのショータイムが充実されるようだ。

 茂は葛城が笑いをこらえているのがわかったが、大真面目で高原に借りたサングラスをかけて、なるべく怖そうに見えるように努めながらクライアントのその妻の傍についていた。

 しっかりとした警護がついていることが、よく分かるようにしてほしいというのがクライアントのリクエストだった。

 警護上それが効果を高めるかどうかは微妙と思われたが、茂は自分が目立つことでいざというときに葛城が活動しやすくなるのではという、やや自虐的ではあるが一定の意味を見出していた。そしてなにより、警護がついているという、要人らしく自分たちを見せるというクライアントの虚栄心を満たすことになっているのだろうとも想像していた。

 結局、妻の希望で警護をつけたものの、クライアント本人は本気で襲撃があるなどととは思っていないのかもしれない。

 夜の桟橋を出発した二階建ての船は、一階部分では舞台でピアノの演奏が始まり、二階では天上まである窓から夜空と街の夜景を楽しむことができ、乗客たちは思い思いに場所を移動していた。

 クライアントとその妻はとりあえず二階席で夜景を楽しんでいる。茂は自分の要望どおりテーブルのない座席の最前列に座っているクライアントらの、すぐ後ろの席に陣取っている。

 葛城は少し距離を空けて後方にいるはずだ。高原に借りた警護用のサングラスは暗い船内でも周囲がよく見える。

 観光船は陸側の古い街と、埋立地に広がる新しい街とをつなぐ巨大な海上の橋を臨みながら、ゆっくりと進む。埋立地の、少し昔の映画に出てくる未来都市のような街並みの、明りが逆に妙に懐かしい温かさで煌めいている。

「茂さん、一階席一回りしてきました。不審な状況はありません。」

「ありがとうございます、葛城さん。」

 インカムで葛城と会話しながら、茂も周囲を定期的に軽く見渡す。一階も二階もそれぞれ収容客数は百五十人ほどだが、七~八割は埋まっている感じだ。客の年齢層は幅広いが、ほとんどがカップルである。葛城は一人でいることが不自然に見えないよう、一眼レフカメラを持ちフォトグラファー風につくっている。

 埋立地のほうから花火が上がり始めた。



「恭子さん、全体的に私が一番気になっているのは、君が非常に浮かない顔をしていることだよ。」

「・・・・・」

 社長室の中央にある小さな円卓に部下と向き合って座り、阪元航平はその深いエメラルドグリーンの両目に慈愛のこもった笑みをよぎらせた。

 机が置かれた壁の窓には、かなりの勢いで雨粒が当たっている。

「今日のコーヒーは近年でもまれにみる出来なんだけどな。」

「とてもおいしいです、社長。」

 吉田恭子はカップに残ったコーヒーを飲み干し、静かな微笑みをつくった。

「襲撃現場に援護部隊を忍ばせておくことは、珍しいことではない。場合によっては本体部隊に知らせずにそうすることも、ね。」

「はい。」

「もちろん、案件の性質如何によるけれど。」

「はい。」

「君がそれを提案してくれたことには・・・・十分な理由があるんだと思う。そしてそれが、君がそんな顔をしている理由でもあるんだね。」

「・・・・・」

 吉田は黙って、手元のコーヒーカップに目を落としている。

 阪元は先を急がず、部下の言葉を待つ。

 やがて、カップから右手を離し、顔を覆うセミロングの髪を少しかき上げて、吉田は上司のほうを見た。表情から感情は読み取りにくくなっていた。

「わたくしは、彼を羨ましいと思っているのかもしれません。」

「羨ましい?」

「それがどの方向であれ、なにかを徹底できる、彼のことが。わたくしは、それができません。」

「そうなの?」

「姉の遺志と、社長のご厚意・・・・そうしたものに導かれて、ここに今日までおります。しかしあの会社の人間たちと初めて仕事で対峙したときから、少しずつ自分の中に溜まっていく矛盾から、自由になるどころか、どんどん分からないことが増えてきています。」

 感情を抑えながらも、珍しく当惑を隠さない言葉を紡ぐ吉田を、阪元はじっと見つめる。

「あの愚かなボディガードたちと、接すれば接するほど、だよね。」

「はい。」

「でも君は、単に庄田が羨ましいんじゃない。単に心配しているだけでもない。それだけならあんな顔をして私のところには来ないでしょ。」

「・・・・」

「ふたつ、だね。ひとつはうちの会社全体について、懸念を抱いている。もうひとつは・・・庄田というひとりのエージェントの生き方が、見ていてあまりにも・・・・」

「・・・・はい。」

 阪元は立ち上がり、コーヒーポットに新しいコーヒーを淹れにカウンターへ向かった。

「当然と言えば当然なんだけど、色々な意味で・・・私のせいなんだよ、恭子さん。」

「・・・・」

「あらためて、そう思うよ。情けないことだけど。」

 コーヒーポットを持って戻り、テーブルの上のふたつのカップに中身を注ぎながら、やや低い声で阪元は続けた。

「恭子さん、殺人専門エージェント・・・・通称”アサーシン”達が、先輩から教えられる簡単な心得、知ってる?」

「・・・いいえ。」

「”なにものも愛するな。自分の仕事を除いて。”・・・だよ。」

「・・・・・」

 コーヒーカップから緩やかに湯気が立ち上る。

「アサーシンは、ひとたび命令が下ったならば、どんな人間も殺す。極論すれば、親であろうと。」

「はい。」

「情は仕事をする上で、まったく無用であるばかりか、単に邪魔なものに過ぎない。」

「はい。」

「でも、無理なんだよね。」

「・・・・・」

「仕事を愛する、それは自然なことだ。なぜなら・・・・我々はカネのためならなんでもやる、いわゆる殺し屋ではない。依頼人の話を聞き、事情を調べ、そこに義があると判断したときしか、仕事は受けない。」

「そうです。」

「義のありなしを考えることは、結局のところ、”情”から自由であるどころか、愛とか情とかにどっぷりなことなんだから。」

「はい。」

「そうした過程を経て決定された仕事は愛なしに決まったものではない。だからこそアサーシン達は自分の仕事だけは愛すると言う。」

「はい。」

「でもね」

 阪元は二杯目のコーヒーを、まだ熱いまま眉をしかめて飲み干した。

「・・・・」

「本当の意味で仕事を愛することができるアサーシンほど、ターゲットという人間に情を移さないことが非常に難しい。」

「・・・・わかります。」

「家族愛とか恋愛とかとは違う、もっと根源的な、人間というものへの愛というのは、そもそも相手を選ぶものじゃないからね。」

「はい。」

「アサーシンというのは、始めから矛盾をはらんだ、引き裂かれた存在なんだよ。他人のために人殺しになるほどのおせっかいさと、他人への同情心を断ち切って殺す冷酷さの、両方求められる。気が狂いそうだね。」

「社長は、さきほど、ご自分のせいだとおっしゃいました。庄田に、なにかほかのアサーシンと違う要素があったということでしょうか?それは社長の期待が大きすぎた、それが重圧となった、そういうことですか?」

 阪元は苦笑した。

「恭子さんは言葉遣いがストレートなところが、私の好きなところだよ。そういうことだ。」

「それだけでしょうか。」

「・・・・・」

「わたくしが口惜しいのは、庄田がきわめて有能なアサーシンだった、いえ、今もそうであるにも関わらず・・・・それが彼自身にとっても、そしてわが社にとっても、少しもプラスの方向に働いているように見えないことです。」

「なるほど」

 あらためて部下の顔を、少し表情を変えて阪元は見た。

「あの警備会社のボディガードたちが、我々にもたらす・・・つきつけるもの、そうしたものが、有能なエージェントほど大きなダメージになる・・・それはやはり、なにかをごまかそうとしているからなのではないでしょうか。」

「そうかもしれないね」

「社長はいつかおっしゃった。守るべきものを守りながら、先に進むためには、常に変わらなければならないし、その度になにかが一度壊れると。」

「そうだね。」

「庄田は元アサーシンだからむしろ簡単に言うのかもしれません・・・彼は浅香に、はっきりと言った。今度の案件で、河合警護員を殺害すると。それは非常に明快なひとつの解決策ではありましょうけれど、根本的なものではありません。」

「そうだね。そして逆もまたしかりなんだろうね。」

「そうです。」

 

   

 花火が終わると一階席へ客たちは集まり始めた。二度目のピアノ演奏が始まり、今度はヴォーカルも入ったショーになるようだ。

 茂もクライアントとその妻に従って二階席を後にし、一階席の、テーブルのある座席へと移った。葛城の声がインカムから入り、彼もすこし遅れて一階席後方についたことがわかる。

 ドリンクサービスの係員が座席を回り、クライアントがワイングラスをふたつ取りながら、茂のほうを振り返る。

「河合さん、どうです?一杯」

「・・・仕事中ですので・・・・」

「はっはっは、そうですね、ではこちらを。」

 茂のためにソフトドリンクをひとつ取り、クライアントはテーブルに置いた。

 クルーズの後半を飾る演奏は二十分ほど一階席舞台上で華やかに続く。ほぼすべての客が一階席に集まり、立ち見も出ていた。

 一階席後方の座席で葛城が異様な気配を背後に感じたのは、最後の曲が始まってすぐのことだった。

 気づいたタイミングは、僅かに遅すぎた。

「お久しぶりです。大森パトロール社の、葛城さん。」

 葛城は振り返ることも答えることもできなかった。既に、ピアノ線ほどの細いテグスのようなものが背後から葛城の首に回され、締め上げられていた。

「・・・・・!」

「両手を左右に、見えるように置いてください。お仲間に連絡されては困りますので。」

 葛城は指示通りにした。

「お会いするのは三度目ですね。しかし今回は、あまりご親切にしているゆとりがありません。ご承知おきください。」

 浅香は静かに葛城の耳元でささやき、そして葛城の首に回した細い紐にさらに少し力をこめた。

 そして片手を離し、その手で、葛城のインカム一式を奪い取った。

 演奏が終わり、大きな拍手が鳴り響いた。

 舞台に衣装を着けた演奏者や着ぐるみなどが集合し、客たちはそれを背景に思い思いに記念撮影を始めた。茂はクライアントにカメラを渡されそうになったが断り、しかたなくクライアントとその妻は交代で互いの撮影を始めた。そして周囲の誰かに撮影を頼もうと見回していた妻が、急に歓声をあげた。

「・・・よう子ぢゃん!よう子ちゃんじゃない?」

「美和ちゃん、ひさしぶり!」

 よう子と呼ばれた年配の女性が、クライアントの妻の名前を呼びながら歩み寄ってきた。

 よう子は茂を押しのけるようにクライアントの妻と茂との間に割って入り、二人は笑いあいながら抱き合った。

「どうしたのよ!」

「そっちこそ!」

「こんなとこで会うなんて!」

 茂は二人のせいでクライアントが視界から一瞬死角になったことに神経をとがらせ、周囲を一瞥してから素早く二人の脇をすり抜けて位置を変える。

 よう子が不審そうに茂のほうを見て、クライアントの妻に尋ねる。

「この人、なに・・・?」

「ああ、ボディガードさんなのよ。大丈夫よ。・・・河合さん、この人、小学校の友達なの。もう何年も会ってなかったんです。びっくり・・・」

「そうなんですね。」

 適当にクライアントの妻に相槌を打ちながら茂がクライアントのほうを見たとき、さらに予想外のことが起こっていた。

 クライアントが、観光船の係員ふたりに腕をつかまれ、向こうへ連れていかれようとしていた。

「なんですか、あなたは。」

「恐れ入ります、お客さま、ちょっとこちらへ。」

「理由を言いなさい、失礼な」

 構わず係員は舞台脇の従業員用入口へどんどんクライアントを引っ張っていく。

 後姿のクライアントは激しく抵抗しているが、係員ふたりの力に抗うことができない。

「・・・あなた!」

 妻もようやく事態に気がつき、追おうとする。

 茂は妻と旧友の騒ぎで一瞬出遅れていたが、クライアントを途中まで追って、ふと足を止めた。

「・・・・・・」

 そのまま茂は、クライアントの妻のほうを向いて、言った。

「奥様、ここにいてください。誰が来ても、絶対にここを離れないでください。」

「・・・はい、わかりました。」

 一階席はほぼすべての客たちが立ち上がり、記念撮影や歓談をしており、葛城の姿は視認することもできなかった。

 茂は中央のらせん階段を駆け上がり、二階席へと向かった。

 一階席とは打って変わってほぼ無人の二階席を後方まで走り、デッキへ出る扉を押すと、鍵が開いていた。

 雨が激しく降りしきる屋上デッキで、船尾側のフェンスに、クライアントが両手をついてこちらを見ていた。

 茂がドアを開けて出てきたのが分かったようだが、声が出ない。さるぐつわのようなものを噛まされている。両手も、フェンスに固定されて動かすことができないようだ。

 茂は周囲を慎重に見回す。しかしほぼその必要はなかった。

 右舷側のフェンスにもたれるようにして、ひとりの青年がこちらを見ながら立っていた。

 身長は百六十五センチくらいで、茂より少し低い。ぬけるように白い肌をした、細身の青年だ。雨を受けて滴が落ちる髪は、濃い茶色の短髪である。

 左手に杖を持っている。

 その青年と、茂と、そしてクライアントとの距離は、ちょうど同じくらいだった。 

「こんばんは、河合さん。大森パトロール社の、期待の新人警護員さん。」

「もう新人じゃありません。」

「そうですね。」

 庄田直紀は、その気品のある唇を少しだけほころばせて笑った。

「あなたは、どこの誰です?」

「・・・・これは、失礼しました。私は、阪元探偵社の、庄田と申します。」

「葛城さんに何をしたんです?」

「河合さん、よく、ここへ向かおうと思われましたね。」

「インカムで、葛城さんの応答がなくなった。そのケースで、なにかを仕掛けられたとき、基本的な対応は、誘われたことと逆の対応をすることです。あなた達は俺を舞台袖へ誘い込もうとした。つまり実際はまったく違う方向・・・恐らくは、立ち入り禁止になっている屋上デッキに、クライアントはいる。」

「なるほど」

「あの一瞬の隙をついて、クライアントそっくりに扮したエージェントがクライアントと入れ替わり、そして係員に連れ去られるふりをしたのでしょう?」

「そのとおりです。」

「葛城さんはどこです?」

「それより、クライアントの命をあなたが本当に守れるかどうかが、今の問題ですね。」

「・・・・!」

 庄田がゆっくりとクライアントのほうへ歩く。

 茂はそれより早く、二人の間に走りこもうとしたが、完全に必要な位置まで達するより早く、大きな金属音が響き茂の足が止まっていた。

 庄田の持っていた杖が、ひとふりで、茂の構えたスティールスティックを弾き飛ばして、デッキの端まで転がし海中へと落下させていた。

「なかなかの腕ですが、まだまだ新人さんですね。」

「・・・・」

 そのまま、顔を僅かに傾けて、茂のほうをその涼しげな両目で見つめたまま、庄田はもう一度笑顔をつくった。

 そして、左手の杖を、後方の海中へと投げ捨てた。

「河合さん、では、素手では、いかがでしょうね。」

「・・・・・」

「私も、貴方がたに敬意を表して、アンフェアなことはしません。ターゲットを殺すのは、あなたを倒してからにします。あなたにも、クライアントを守る最後の機会をちゃんと与えましょう。いいですね?」

 茂は身構えたが、次の瞬間には逆側のフェンスまで体を飛ばされていた。喉に激しい痛みを感じて立ち上がろうとした茂の、襟首をつかみ、庄田が茂の体を激しくフェンスのバーへと激突させた。

「武術はあまりお使いにならないようですね?有能なボディガードさんは、こんな乱闘場面は事前に十分に防止される。正しいことですね。」

 庄田の右手が振り下ろされ、茂の首の付け根に一撃を加え、茂は床へ叩きつけられた。

「・・・・っ!」


 葛城の体から力が抜け、ゆっくりと傾いた。

 浅香は葛城の首に回していたピアノ線のような紐を、一瞬緩め、葛城の体が倒れないよう支えるように、背もたれにまっすぐにもたれかけさせるようにした。

 そしてすぐに紐の先を背もたれ下に結び固定しようとしたが、その作業は完成できなかった。

 振りぬかれた葛城の右手から、身をかわした浅香の目に、前側で切られた紐が座席と床へと落ちていくのが見えた。

 葛城が立ち上がったとき、しかし既に浅香の姿は乗客たちの人混みに紛れ見えなくなっていた。


「しかしいざというときのために、もう少し鍛錬はなさっておいたほうが良いですよ。」

 茂がなんとか立ち上がるのを、冷ややかな目で見ながら、庄田は言葉を続ける。

「基本的に、あなたがたは、怠惰です。人を守ると言いながら、その仕事は受け身だ。そして法というゆりかごの中の、平和なお遊びです。」

「・・・・・」

「我々は、目的を達成するために全てのことをします。貴方達のことも、全て調べ、対応します。例えば、あの三村英一さん。」

「なっ・・・・」

「私の仕事をあなた達が妨害するのであれば、あなた達が仕事ができないよう、私はあらゆる対策をとります。あなたの会社に関係する人物の中で、殺害することが最もあなたの会社にとって影響が大きい人間が、彼であるらしいことが、先日よくわかりましたので。」

「貴様・・・!」

「このことも、今後最も有効な場面で、最大限活用するつもりです。もちろん・・・・」

 庄田は右足で茂の左わき腹へ強烈な蹴りを見舞い、茂は再び床へ倒れこんだ。

「・・・もちろん、今日ここであなたを無事殺すことができれば、あなたはそういう状況を見ることもなく、しあわせと言えますね。」

 茂の足払いが庄田を襲い、立ち上がった茂はバランスを失った庄田の襟首をつかんで、船尾側のフェンスへ押し付けた。

「・・・・ふざけるな!」

「・・・・・」

 屋上デッキに出た浅香が、クライアントに近づきナイフを向けた。

 庄田は茂に襟首をつかまれたまま、それを制した。

「いいです、浅香さん。」

「庄田さん!」

「降りなさい」

「しかし・・・」

「命令です」

 浅香はフェンスを乗り越え、海上へ向かい飛び降りた。暗い海面で、大型水上バイクが観光船に並走しているのが微かに見えた。

 茂の琥珀色の両目を、庄田の切れ長の両目がしっかりと見つめた。

 葛城が屋上デッキに出たとき、クライアントのすぐ脇でこちらに背を向けている茂と、その向こう側にいる庄田とがもみ合い、左舷側のフェンスへ今度は茂が海を背にし押し付けられた。

「茂さん!」

 葛城が加勢に入ろうとしたが、その必要はすぐになくなった。

 庄田の右手が大きく振り上げられたそのとき、屋上デッキへもう一人の人物が走り込み、庄田のその右手をつかんだ。

 黒髪を顎あたりまで伸ばした、長身のエージェントは、つかんだ庄田の手を背後に回し、あっという間に茂と庄田とを引き離した。

「えっ!」

 茂と葛城が状況を把握する間もなく、酒井は庄田のほうを見て、大声で言った。

「庄田さん、お戯れが過ぎます。今日はこのくらいで、ええでしょう?」

「・・・・・」

「ターゲットを殺す美味しい役目は、俺にぜひやらせてください・・・・そういう交渉も今日はしっかりせなあかんし、早う帰りましょう。今日は、ターゲットに、ご挨拶するだけなんですから。」

「ええ、そうですね。」

 酒井は庄田の右手をつかんだまま、茂を、続いて葛城のほうを見て、笑顔で一礼した。

「お疲れさんですな、大森パトロールさん。これでクライアントのおっさんも、少しはご自分の置かれた立場を理解されたでしょう。次回はホントに殺しますけど、まあせいぜい警護をがんばってください。」

 そのまま酒井と庄田はフェンスを越え、海上の水上バイクへと飛び降りた。

 茂と葛城はクライアントがようやく低いうめき声を発して助けを求めるまで、しばらくの間水上バイクの去って行った方を見たまま、動けずにいた。

 船が桟橋に着く衝撃とともに、異変に気付いた係員数名が屋上デッキへと上がってきた。

 雨は小降りになっていた。



 社長室で携帯電話で話していた阪元は、電話を切るとそのまま窓の外の、小降りになった雨をしばらく見つめていたが、やがて振り向いて、円卓に座っている部下のほうを見た。

「終わったよ。」

「はい。」

「浅香には、庄田に自分で説明させるよ。」

「そうですね。」

「・・・板見の車で浅香は自宅へ送り届けさせた。酒井には、庄田をここへ連れてくるように言ってある。」

「・・・・・・」

 吉田は上司の顔を見たまま、黙っている。

「そんな顔をしないで、恭子さん。」

「・・・・・」

「私を、可哀想だと思ってくれているんだよね?」

「・・・・・・」

「確かに、・・・君の予想が外れたらいいのにと、最後まで、思っていたよ。」

「・・・・・」

「でも、現実を見つめなければいけない。君には、なんとお礼を言っていいかわからない。」

「・・・・・」

「でもね・・・・」

 阪元は再び、窓の外へ目をやった。

「・・・・・」

「・・でもね、今も、間違いであってくれたらと、まだ思っている・・・・・」

 上司の語尾が少し震えた気がして、吉田はうつむいた。



 酒井は軽自動車の運転席で、アクセルを踏む足に力をこめながら、助手席の庄田が言葉を発するのを待っていた。

 雨は止んでいたが、路上の水がときどき激しい飛沫をあげている。

 高速道路へ乗ったとき、ついに酒井はしびれを切らして口火を切った。

「庄田さん。俺はアサーシンの面倒を見るのが仕事ではありませんよ。勘弁してほしいと思います。」

 助手席で窓の外を見ていた庄田は、そのままの姿勢で、応答した。

「私は今はアサーシンではない。今回はターゲットを殺害する案件ではありませんでしたから。」

「そういう問題じゃありません。」

 庄田が正面を見たのがわかった。

「社長の命令ですか」

「まあ、最終的にはそういうことになりますけど」

「・・・・吉田さんですか。」

「ご明察です。」

「いつからそんなにご親切になったんでしょうか。」

「ご親切・・・・・そう、親切なことです。アサーシンというのはどうしてそう簡単に自分を殺そうとするのか、吉田さんには理解できないということです。あなたは今も、生粋のアサーシンですな。」

「吉田さんはどうして今回のことに気づかれましたか?」

「ご存じのとおり、うちのチームのボケのアサーシンは、互いのチームで仕事をしあって浅香さんと今も仕事の情報は共有してますから。深山は計画を見てすぐに気がつきました。殺人専門エージェントにはありえない無駄な余白がある。ボディガード殺害目的ならばなおのこと。」

「・・・・・」

「たとえ万一のための想定とはいえ、警護員のお相手に手間暇かけすぎということです。」

「・・・・・」

「別の目的がある。もちろんそれは、河合警護員の殺傷でもない。そこまで時間をかけて何かするようなお客様の依頼事項はない。」

「はい。」

「残る可能性は、あなた自身の殺傷です。」

 庄田は正面を向いたまま、その涼しげな切れ長の目をやや厳しくした。


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