二 思考停止
英一が高原の顔を見て言った。
「では、根本的な解決策は、河合が阪元探偵社に転職することですね。」
英一は言った次の瞬間後悔した。
高原は英一の顔を見つめたまま表情を凍りつかせて固まっていた。
「・・・・・」
「冗談です、高原さん。」
「・・・・」
「・・・すみません。」
ようやく金縛りから解けたように高原が力なく笑った。
「いえ、余りにも核心をついていたので」
「俺が余計なことを言って高原さんを困らせるのは、少なくともこれが二度目ですね。すみません。」
「三村さん、謝らないでください。割と、重要なことなんです。たぶん。」
「・・・・?」
高原は木のデッキの端のフェンスにもたれるようにして、足下の車道に目をやった。
「我々大森パトロール社の前進というか・・・母体は、もと警察官だった人間が二人で立ち上げた会社でした。」
「はい。」
「彼女たちは無二の親友でしたが、途中で考え方が合わなくなり、決裂をしました。その片割れが我々なんです。」
「つまりもう片方が、阪元探偵社だと?」
「はい。誰もそのことは口にしませんが・・・。」
英一が端正なその両目に疑問の色を一杯にした。
「タブーなんですか?」
「うちは探偵社ではないので、基本的に他社や他人を調査したりしません。よその会社のことを、ましてや立ち入った経緯とかそういうことを、知っているはずはない・・・というような、妙な建前があるんだと思います。」
「なるほど。」
「実際、我々警護員は誰も、特にこれ以上のことを阪元探偵社について知っているわけではありません。社長も、そして波多野さんも、何も言いませんし、警護員たちも尋ねません。」
「警護の仕事とは関係のないことですからね。」
「そうです。ただし、そうした経緯を持つためか、うちの会社はかなり徹底したポリシーを持っている。これにずっとついていける警護員は、実はあまり多くないと思います。」
「大森パトロール社の創業の精神を守れるような警護員は、希少な存在になりつつあるということですね?」
「はい。」
「つまりその希少なひとりに、・・・河合は、なれそうなわけですか?」
「そう思っています。」
英一はふと気づいたように、高原の顔をあらためて見た。
「高原さん、もしも阪元探偵社が河合を気に入っている面があるとするならば、それは彼らの破綻のはじまりとも言えるわけですよね。」
「・・・・・」
「袂を分けたはずの相手の、根本的な考え方を一番純粋に守れるような人間が気に入ってしまうというのは、自己否定ですから。」
「そうかもしれません。逆に、取りこんで自分たちの価値観に塗り替えてしまいたいのかもしれませんが・・・・」
「まあ、そうですが、しかし”気に入っている”感じが正しいなら、やはりそれだけではちょっと説明できませんね。」
「おっしゃるとおりです。彼らにも、普通に矛盾とか悩みとかがあるということかもしれません。怜は、それでもぶれないところが怖いとも言っていましたが。・・・我々とは違って、とでも言うべきかもしれません。」
「ぶれない、ということの意味も様々ありえましょうが・・・極端な意味でのそれは、逆にラクなことでもあるんじゃないですか。」
「はい。」
「ただし・・・逆に大きな犠牲を伴うこともある。」
「・・・・・」
「”極端”は、ラクだけど、そのためにはなにか非常に大事なものを捨てることになる・・・そんな矛盾を生むものではありませんか。」
「・・・・・」
高原は黙ってしばらく考え込んでいた。
金茶色の緩く波打つ髪を肩近くまで伸ばした、細身の青年が背後でうろうろしているのを、酒井は無視して煙草を弄んでいた。
「凌介」
「・・・・・」
「凌介。」
「・・・・・」
「・・・凌介!」
めんどくさそうに酒井がようやく振り向くと、深山祐耶はその異国的な顔立ちを最高レベルの不機嫌な表情で満たして、こちらを睨みつけている。
「なんや、そこにおったんか。気がつかんかったわ。」
「嘘をつけ、嘘を。気配を消さない人間が近づいたらお前は三十メートル地点で気がつく。」
「お前のことは三キロ先で気がついて退避したいとこやな。」
「恭子さんに直訴したけど、だめって言われた。」
「そりゃそうやろ。あと、恭子さんやなくて吉田さんと言え。」
事務所は人が出払ってふたりを除いて無人で室内の照明は落とされているが、応接コーナーには昼過ぎの明りがテーブルに反射し、背後の事務室スペースまで明るく照らしている。
「アサーシンにはアサーシン、じゃないの?」
「庄田さんは現役やないで。」
「現役みたいなものだよ。今でもときどき現場の実行部隊として出てるって聞いた。」
「まあな。ただしサポート役が基本や。」
「今回は正真正銘、殺人を担当するんだよ。僕に行かせてくれてもいいじゃない。」
「俺の腕を信用せい。」
「そういう問題じゃない。」
祐耶はテーブルの反対側へまわり、酒井と向かい合うソファーに腰を下ろした。
「お前の気持ちは分からんでもないけどな。」
「ほんとにわかってる?」
「自分の手で守りたいんやろ?アサーシンたちの、カリスマみたいなあの人を。」
「そうだよ。」
酒井は両手を頭の後ろで組み、ソファーの背にもたれた。
「でもまあ、俺たち余計な心配はせんでもええんかもしれんな。」
「なんだよ、凌介。」
「・・・・祐耶お前、あの人の”伝説”、いくつくらい知ってる?」
「両手に余るくらいは知ってる。」
「伝説というより事実やけどな。俺たちがどうのこうの言うなんぞ、おこがましいような、プロやで、あの人は。」
「そうだけど。」
「時効を迎えた殺人犯のじいさんを、殺しに行ったあるエージェントが、しそんじたことがあった。ターゲットが命乞いしたんや。自分は末期の癌で余命いくばくもない。若いころに殺してしまった人を弔って、あと僅かな人生を償いに捧げたいってね。」
「知っているよ。」
「それは事実やった。そして庄田さんはそのエージェントに替わって、顔色ひとつ変えずにターゲットの喉を掻き切った。」
「うん。庄田さんはしそんじたことがない。・・・・ただの一度を除いては。」
「そうやな。基本的な腕前が人間離れしているのに、さらに手間暇も惜しまず、目的を達成する・・・。殺害不可能と言われたひとりのターゲットに一年かけたこともあった。半年は事前調査と準備やったけど、残りの半年は、本当にぴったりとターゲットをマークした。僅かな隙が、できるのを、ひたすら待った。ちょっと異常なくらいの執念。」
「そして、どんな危険を冒しても、必ずターゲットを殺す。言葉にすればこれだけのことだけど、これを本当にやった人。・・・特に、ペアで仕事をするとき・・・」
「そう、これもやや常軌を逸した挺身といえるわな。やっかいな有能なボディガードがぴったりついたターゲットを狙ったとき、あの人は自分がボディガードと刺し違えて、もう一人の刺客にターゲットを殺させた。まあ、庄田さんもボディガードも死にはせんかったけどな。」
「瀕死の重傷だよ。もっとすごい話も聞いたことがあるよ。」
「自分とターゲットを重ねて串刺しにした話やろ。」
「うん。後ろから羽交い絞めにしてきたターゲットを、自分と一緒にステッキ型サーベルで一突きにした。」
「後ろ向きでよく相手の心臓が狙えたもんやな。斜め上に向けて突き刺して一撃で仕留めた。」
「それよりそういうことを思いつくこと自体が、普通じゃないよ。」
いつの間にか太陽は薄い雲の向こうでやや光を弱めていた。
酒井は天井を見て軽くため息をついた。
「・・・もちろん、大部分の案件は、庄田さんはかすり傷ひとつ負わず、楽々とやってのけた・・・・何件も何件も。アサーシンが医療従事者みたいに人間の体の構造を熟知してるのは当然のことやけど、あの人は外から人体を透視してるって言われたもんな。すれ違いざまに〇コンマ一秒で必要な血管一本だけ切断できたっていうのはもちろんほんまに伝説やろうけど。そういえば、異常に捨て身な感じのやり方が増えたのは・・・現役を退く少し前の時期に集中してるな。」
「そうだね。そして最後が・・・・」
「ああ。車ごとターゲットを山道から殺して落としたあの事件で、二度と普通のアサーシンとして仕事ができないような後遺症が残る、怪我をしはった。」
祐耶が黙り込んだ。
酒井はその理由がわかったが触れなかった。しかし祐耶が自分で言った。
「たった一回、失敗した事件の後だよね。やっぱり。」
「そうやな。あまり皆口にせえへんけど、あの事件は知る人ぞ知る、らしいな。正直俺は詳細は最近まで知らんかったけど。」
「・・・大森パトロール社の、朝比奈警護員との案件。・・自分の腕への自信が初めて揺らいだってことなのかな。」
「俺もそう思った。けど、それも少し違う気がするな。」
「そう?」
「お前、自分に置き換えて考えてみい。」
「・・・・・」
「あの高原さんに思いっきり仕事邪魔された後、自分の腕に自信喪失してるか?」
「そんなことはないね、確かに。むしろ技術的には、嬉しいくらいだよ。あんなすごいボディガードがいたなんて。」
「つまり揺らいだのは、腕前に対する自信やないんやな。」
「・・・・そうだね・・・・・」
「おんなじかもな?基本的に」
「そうかもしれない・・・・ちょっとだけ、想像つく気がする・・・・・揺らいだとしたら、自分が今までやってきたこと、そのものについて、かな。」
「でもお前は俺に説教されて反省したから今がある。」
「うるさいなあ。でもそうだよ。感謝してる。」
「庄田さんはどうしはったんやろな。」
再び、短い沈黙が流れた。
酒井は、奥の社長室の扉のほうに目をやった。
「阪元社長は庄田さんをものすごく買ってはったし、今もそうや。」
「うん。そういう上司の期待に応えたいという思いが、強かったのかな。」
「そうかもしれへんな。」
そしてすぐに祐耶はぎょっとした表情になった。
「それなら、凌介・・・・」
「ああ」
「今回のことは、どう説明すればいいの?」
「社長でももうダメやってことやないのか?」
「・・・・・」
酒井が右手でずっと弄んでいた煙草を口に咥え、立ち上がった。
「まああまり悩むな、祐耶。全部俺たちの考えすぎかも知れへんし。」
「・・・・・・」
「大きな問題は、浅香さんがなんもそれらしい指示を受けてへん様子なことやけどな。」
「そうだね。」
祐耶は絶望的な表情になり、ソファーに体を預けた。
木曜の夜、茂が大森パトロール社の事務所に顔を出すと、高原が事務所の自席で作業をしていた。
「こんばんは、高原さん」
「河合、今日は最終打ち合わせか。怜はちょっと外に出てるけどすぐ戻ると思うよ。」
「はい。もうやらなくても良いくらいなんですが念のため・・・」
「二度目とはいえ、メイン警護員は緊張するだろ」
「はい。」
高原が立ち上がり、茂が座った共用事務机の向かい側の席に座った。
「クライアントを狙っているのが素人なら、問題はないんだけどね」
「・・・・」
「そうじゃない場合は、いかに怜がサポートについているとはいえ、確かに危険だ。」
「はい。」
「特に、あいつらが襲撃してくるときはね。」
「はい。」
高原は少しの間黙っていたが、再びそのメガネの奥の知的な両目に、あまり愛嬌のないストレートな鋭さをよぎらせ、後輩の顔を見た。
「クライアントは、どんな様子だ?」
「・・・狙われていることもそれが誰の関係者なのかもよくご承知ですが・・・・・なぜ狙われるのか、その理由はまったく理解できないとおっしゃっています。」
「警護に非協力的な要素はありそうか?」
「ないとは思いますが・・・」
茂が言葉を選んでいるのを高原は優しく微笑みながら待つ。
「・・・・」
「ただの脅しの可能性もかなりある、とは、思っておられるようです。」
「そうか。」
葛城と一緒に自宅を訪ねたときの、クライアントの様子を茂は思い出していた。
大企業をリタイアした元部長さん、ということから想像していた貫禄ある話しぶりの人物とはまったく違う、軽やかな印象を受ける男性だった。痩せていてフットワークのよさそうな体型、眼鏡の似合うエリートサラリーマン色ただよう容貌、神経質そうなまなざし。健康上の問題で早めの引退となったが、そうでなければ役員になったであろうとのことだった。
脅迫と告発の内容が書かれたメールの写しを、葛城と茂に見せてくれた。既に波多野営業部長を通じて内容は聞いていたが、読みながら茂は汗が出てきた。が、顔を上げてクライアントを見るとその表情は冷静そのものだった。
「書かれていることは本当ですよ。」
「・・・・」
「社の重要な企画をつくるときは、当然期日までにすべての必要な作業をするために、その日にすべきことが終わるまで仕事をする。当然のことです。私は妥協はしません。」
何週間もの間、深夜までの作業。細かい部分まで部長の指示するレベルまで詰めることを部下へ指示をして、部長が深夜二時や三時にタクシーで会社を後にし、その後翌朝九時に出社してきて部下たちに「できたか?」と訊ねる。そうした毎日。
午前零時を過ぎ、少し時間が空いたので気持ちを切り替えようと外へ夜食を食べに行った社員が、食事が出てきたとたんに携帯電話で呼び出され、戻ると部長が激怒していた。いつ部長から呼ばれてもすぐに対応できるようにしておけと厳しく叱責された。片時も神経を緩めることができない環境。
「仕事は、時間じゃないんです。結果が全てです。一日八時間の労働時間いっぱいがんばった結果がこれです、これ以上は時間切れでした、などということは、プロの言うことではない。」
「・・・・・」
「八時間でだめなら十六時間、それでもだめなら二十四時間、やるしかないでしょう。なにか、間違っていますか?」
茂は葛城が「何も言わなくていいです」と目で言っているのがわかったが、尋ねてしまう。
「・・・でも、寝ないと余計に効率が落ちますし、人間、体力の限界というものも・・・・。もっと人の数を増やすとか、そういうことは・・・・」
「だめですよ。会社も人員はぎりぎりでやっている。それからもうひとつ。人数は多ければいいってもんじゃないんです。有能な人間五人が二週間休みなしで一日二十時間仕事したほうが、同じ合計時間を二倍の人数で割って分散してやるよりも、効率がいいんです。内容も、そして・・・人件費もね。」
「・・・・・・」
「この部署で、これで自殺したのはたったひとりです。かわいそうだが、弱い人間だったということです。私だって会社人生で、死にたいと思ったことなんか数えきれません。そして大部分の人間たちは、よく耐えてがんばってくれた。それがプロというものです。」
葛城が止めるまでもなく、その時点で茂は黙り込んでいた。
クライアントとの会話を思い出しながら表情をこわばらせている茂に、高原が麦茶の入ったグラスを差し出した。
「河合」
「・・・・・」
「河合、大丈夫か?」
「あ・・・はい、すみません、ちょっと頭が飛んでました・・・・」
高原からグラスを受け取り、茂は一気に半分ほどを飲み干した。
メガネの奥の目を少し細め、高原が複雑な笑みを浮かべる。
「この部長さんが社会に出たころは、ブラック企業なんていう言葉もなかっただろうしね。それにこの人も、会社も、ただ一所懸命仕事をしてきただけなんだろうね、実際。」
「・・・はい。俺は昼間勤めている会社で、残業がないように配慮してもらっていますが、なんだか甘えているのかも知れないと思いました。」
「その分の負担が誰かに不当にかかっているならそうだけど、でもお前の上司の係長さんは、皆が残業がないように考えてくれてるんだろう?」
「はい。」
「それなら問題ないんじゃないか?」
「・・・・はい・・・でもボディガードの仕事は、やっぱり勤務時間はある意味無制限で・・・・先輩たちも、僅かな仮眠だけで三日くらいぶっ通しで仕事したりすることもありますよね。」
「まあね。」
「俺の中で、なんだか分裂してしまって・・・。直感的にどう考えてもクライアントは間違ったことをされたと感じます。その一方で、クライアントのおっしゃることも一理あるような気もしてしまいます。だんだん分からなくなってきます。」
高原は椅子の背にもたれ、腕を組んで茂の顔を、変わらぬ優しいまなざしで見た。
「物事をひとつの理屈ですっきりと片づける、というのは、なかなかできないものだね。それはそうだ。ただ、仕事の成果と部下の持続可能な労働条件、そのふたつのうち、どちらかをすっぱり捨てる、というのは思考停止であり怠慢だと思う。」
「はい。」
「相矛盾することだとしても、厳密には両立不可能なことだとしても、なんとかその道を探ろうと、悩み、考え、努力を続けるべきだと思う。おこがましい言い方だけど。」
「はい。」
「どんな人間も誰かを傷つけている。でも殺したいほど恨まれることばかりじゃない。」
「はい・・・」
「部下に責任ある立場にある人間が、部下について悩み考えるということ、それをしないこと、それどころか、しないことに疑問さえ感じないこと・・・・それが、他人の根本的な恨みを買うこととかに、つながったんじゃないかね。」
「・・・はい。」
高原は麦茶を自分も飲み干した。
「おこがましい言い方では、あるけどさ。」
茂は高原のグラスにピッチャーから麦茶を注ぎ足し、すこし微笑んだ。
「俺も、そう思います、高原さん。」
「じゃあ、そろそろクライアントのことで悩むのはこの辺にしておこう。警護員の、役目は、限られているからね。」
「はい。」
「いくつか・・・注意すべきことを言っておくよ。今回の警護にあたって。いや、ひとつというべきかな。」
「お願いします。」
高原の短いアドバイスを聞き終わるとほぼ同時に、葛城が外出先から戻ってきた。
「お帰り、怜。」
事務室に入ってきた葛城は少し疲れた顔をしていた。
「晶生、もしかして茂さんに何か説教してた?」
「そんなことないけどさ。長時間労働は良くないという話。」
「?」
「お前もちょっと働きすぎだぞ、怜。河合の昼間の会社の係長を見習うべきかもな、俺たち。」
「・・・?」
「ワークライフバランスだよ。」
「俺は、警護の仕事以外に、したいことって特にないけどな。」
「・・・・・・」
高原はあきれて同僚の美しい顔をまじまじと見た。