一 予兆
阪元探偵社のエージェント、庄田直紀が主役の回です。
街の外れの丘にある教会で、祝賀の合唱曲が流れていた。穏やかな太陽がやや西に傾きながら地上を照らし、鐘の音が軽やかに響く。
白い衣装の若い男女が顔一杯に笑みを湛えて白い教会の建物から出てくるのを、招待客たちだけではなく、遠くから見守る人間たちもいた。
「オルガンの伴奏って、独特の切なさがあると思う。」
丘の上の小さな森からは、道路を挟んですこし下ったところに白い教会が、そして左手には裾を引くように広がる下界の街並みが見渡せる。
女性は男性より短いほどのショートカットの髪に、大きなイヤリングをし、よく整えられた身なりに丁寧な化粧をしていた。
「そうだね。」
長身の男性がやわらかい声で答える。やや長い髪は一番下は顎あたりまで届き、微風に揺れている。
「ねえ、仁志」
「ん?」
浅香仁志は女性のほうを見ずに、しかしやはり柔和な声で応答する。
「また、ときどき・・・会える?以前みたいに。」
「どうしてそんなことを聞くの?」
「だって私・・・犯罪者だもの。」
風が渡り、女性の長いフレアスカートをなびかせる。
浅香は顔を女性のほうへと向けた。そして、微笑し、女性の肩を抱いた。
「でも、ちゃんと罪は償った。」
「弁護士さんの言うとおりにしたら・・・・傷害致死ってなって、執行猶予までついたわ。」
「ああ。」
「でも、私、本当は・・・・」
「いいよ、言わなくて。」
気品のある顔立ちに、よく似合う控えめな微笑みを浮かべて、浅香は女性の体を自分のほうへと引き寄せた。
「仁志・・・・」
「長い長い裁判だった。やっと終わったんだから。もういいよ。」
「うん。」
女性を抱きしめた浅香の両手は、背中に回ると静かに右手が離れ、次の瞬間、その手に潜ませていた細く短い刃物が相手の後頭部に致命傷を負わせていた。
声もなく、女性はゆっくりと崩れ落ちた。
死体が通行人に発見されたのは半日も後のことだった。
河合茂は平日昼間勤めている会社の、自分の席で、就業ベルが鳴っても難しい顔をしたまま読み物をしていた。
「河合さん、今日は副業のほうはないんですか?」
「あ、いえ、あります・・・・」
隣の席のベテラン係長が尋ね、慌てて茂は顔をあげた。
「ワークライフバランス。育児がある人も、ほかの用事がある人も、平等にノー残業が基本です、遠慮しなくていいんですよ。大森パトロール社の河合警護員さん。」
「ありがとうございます。係長。ちょっとボーっとしてました。」
「顔が疲れてますね。三村さんとまたペアになったんで、大分こき使われてるんじゃないですか?」
「・・・・」
入社同期の三村英一とは一応友達ではあるし彼の良いところはたくさん知っているしむしろ無二の親友といえるのかもしれないが、しかし会社での英一はいつも才色兼備で傲慢で人使いが荒くていけ好かない奴だ。
だが、英一が自分をやはりある意味苦手としていることを知った上で、茂は今回、英一への罰ゲームのつもりで係長に頼んで自分と仕事でペアを組ませてもらったものの、ダメージは茂のほうが大きい模様だった。
「なにかおもしろい記事ありました?」
係長は茂の手元の新聞に目をやる。
「はい・・・○○市民の森公園で、女性の遺体が発見されたそうですが・・・刑事告訴されて確定判決が出たばかりだったそうで・・・・」
「ふんふん。たしか、そういう人って、ボディガードのお客さんになることが多いんでしたっけ。」
「はい。殺人事件で、死刑にならなかったり十分な量刑じゃないと一般的に思えるような場合、ご遺族からの報復が想定されるので。この記事、それだけでも重要な資料ですが、頭の後ろ・・・延髄のところを一撃でやられたようです。」
「へえー」
「なんか、プロっぽい感じがします。」
「さすが、河合さんもプロのボディガードだねえ。」
「い、いえいえいえ、まだまだ全然です。」
茂が鞄に新聞やら弁当箱やらを詰めて立ち上がろうとすると、いつの間にか席に戻っていた英一が、斜向かいの席からその漆黒の両目で茂の様子を面白そうに見ていた。
その厭になるほど整った顔立ちの、長身の美青年を、茂は鬱陶しそうに見返す。
「なんだよ三村。」
「いや、お前でも仕事のために何かデータを自主的に蓄積することがあるんだなと思って。」
「当然だよ。そろそろほんとにもう、新人じゃないって言われてるんだから。」
「お前に警護依頼をしていたら、その被害者は難に遭わずに済んだかもしれないな。」
「専門家の仕業って、思うか?お前も」
「ああ。」
茂はその絹糸のような茶髪に似合う透明度の高い琥珀色の目で、同僚の顔を見返す。
「どうしてそう思う?」
「ひとつめ。殺害場所をうまく選んでいる・・・不審者なんかいなさそうな森林公園で、でも人通りから死角になっていて、死体発見までかなりの時間がかかっている。ふたつめ。争った様子がないということは、一瞬の・・・一撃ってことだ。そしてもちろん第三には・・」
「被害者が友人に出していたメール、だね。『私はきっと、殺し屋に、殺される。』」
「なんでだろうな、そんなことを思うなんて。」
二人は顔を見合わせた。結論が同じだということが分かったが、いまいちそれを認めたくない感じがした。
ベテラン係長がにこにこしながら二人を交互に見て、言った。
「最近ますます、息ぴったりだよね、三村さんと河合さん。ペア、延長しようかね。」
「延長しないでください。」
二人は同時に係長を見て同時に言った。
街の中心にある古い高層ビルの事務所は、平日夜は遅くまで明かりが点いていることも多いが、奥のカンファレンスルームのドアの隙間からも、ずっと細い明かりが漏れ出していた。
カンファレンスルームの広い室内は、天井から床まである壁一杯のガラス窓のために余計に広々として見え、街の夜景を遠方まで見渡せる。
大きな舟形のテーブルに向かって椅子に座っているのは、身長百六十五センチほどの細身の青年である。ぬけるように色が白く、濃い茶色の短髪もほぼ黒髪に見えるほどである。その両目は切れが長く、涼しげだが、今は硬い憂鬱さを湛えている。
「失礼します」
声をかけ、ひとりのエージェントが入口で一礼し、部屋へ入った。
座ったまま、長身の部下の顔を見上げ、庄田直紀はその涼しげな両目から憂鬱さを払拭するように微かな笑みをつくり、右手で部下に座るよう促した。
「お疲れ様、浅香さん。」
「先にお送りした報告書のとおり、完了しました。」
「報道がなされた時点で、お客様にはご報告しておきました。御礼のお言葉がありました。」
「はい。」
庄田は伏せていた目を再び上げて、部下の繊細な容貌の顔へ向ける。
「つらかったでしょう。知人がターゲットというのは。」
「いえ、誰であろうと、仕事であればターゲットにするのが・・・・」
「ええ、我々阪元探偵社のルールです。」
その切れ長の目が部下の柔和な表情をじっととらえる。
「はい。・・・・庄田さん、」
「なんですか?」
「・・・いえ・・・」
庄田は両手で両肘を持つようにして、少しだけ顔を斜にして、表情を和らげた。
「わかっています。あなたは、ターゲットとの関係を全ては報告しなかった。」
「はい。」
「私のチームでは、ターゲットへの目標達成をより確実にするために、担当エージェントが自分とターゲットとの関係があれば報告することをお願いしています。」
「はい。」
「大学の同級生だとか、親戚だとか。」
「はい。」
「今回は・・・ターゲットはあなたの高校時代のクラスメート、ということでしたね。」
「そうです。それはもちろん事実です。が・・・」
「ええ。彼女は知人にメールを出していた。『殺し屋に、殺される』と。非常に近いところから、殺意を感じていたということかもしれません。」
「はい。」
「報告はこれで十分です。今日は帰って休みなさい。私は、エージェントに、自分のこと全てを報告することは求めていません。」
「・・・・」
「仕事を効率的に遂行するために必要なこと以上は、求めません。」
「・・・・はい。」
浅香は一礼し、部屋を出ていった。
部屋に残された庄田直紀は、部下が出て行った後もドア辺りをしばらく見つめるように、じっとしていた。
茂は夜の華やかな街の明かりを、海面が反射し窓越しに煌めく船内で、居心地悪げに豪華な座席に腰掛けていた。
「船酔いですか?茂さん」
隣に座る先輩警護員の葛城怜が心配そうに尋ねる。
葛城は茂と似た背格好の青年だが、肩まで伸ばした濃い栗色の髪が似合う、女性のように線の細い非常な美貌の持ち主である。そして葛城と一緒にどこへ行こうと、周囲の視線が自分と葛城に大量に注がれることは茂ももう慣れている。
しかし今回は、ロマンチックなクルーズ船のロマンチックな一階席のソファーのような豪華な座席で、おそらくありとあらゆる誤解を周囲から受けているだろうと思うと、茂はもしも今の自分が警護業務の下見中でなければ声を大にして周囲へ事実を説明したいと思ったが、論理矛盾していることに気がついた。
「あ、いえ・・・・。きっと周りの人々は、こんな絶世の美女を連れているこのぱっとしない若造って一体なんだろうとか思いながら、俺を見てるんだろうなと。」
「あははは。すみません、本番では伊達眼鏡を忘れないようにします。」
「よろしくお願いします。特に警護のときは葛城さんは離れたところに一人でおられますから、声をかけられないように顔をわかりにくくしておいてくださいね。」
「はい。」
「あ、すみません、俺なんか生意気な言い方・・・・」
「いえいえ、今回茂さんは二度目のメイン警護員です。私はサブ警護員なんですから、なんでも命じていいんですよ。」
「なんだか緊張してきました。・・・あまりいじめないでください・・・・。葛城さんは俺の指導育成のためについてくださってるんですから。」
「はははは、まあ、そうですね。」
桟橋が近づき、茂は席から立ち上がった。
「一時間のクルーズって、けっこうアッという間なんですね。ピアノ演奏とか花火とかもありますし。」
「はい。でも本番の日はお天気が悪そうですから、デッキに出られなくて少し退屈かもしれません。」
下船しながら携帯端末へ情報入力している茂に葛城が後ろから声をかける。
「端末をいじりながら歩くと危ないですよ。・・・・あっ!」
葛城が言い終わる前に、茂は下船デッキの段差に足を取られて転倒していた。
港町から事務所へ戻る車の運転席には、葛城がいた。
「す、すみません、葛城さん・・・・」
「いえいえ、足が腫れたりしたら言ってくださいね。事務所にも応急手当てのセットはありますし、契約病院も近いですから。捻挫でもしてたら大変です。」
「すみません。」
茂は足をさすりながら恐縮する。
高速道路を経て四十分ほどで事務所へ到着した時も、茂のぶつけた足は腫れあがることもなく、大丈夫そうだった。
大森パトロール社の事務所に二人が戻り、打ち合わせコーナーで警護計画の最終確認をしていると、茂の尊敬するもう一人の先輩警護員である高原晶生が事務室へ入ってきた。
「遅くまでお疲れさん、怜、河合。」
「高原さんもお仕事帰りですか?」
「うん、そうなんだけど、クライアントからお土産をもらったんで」
「え・・・・」
茂が警戒心を全身に満たして高原を見るのを、高原と葛城がおかしそうに笑いながら見る。
高原晶生はすらりと背が高く、さわやかな短髪に、眼鏡がよく似合う理知的かつ愛嬌のある表情の、好青年だ。そして、葛城以上に有能な、超一流の警護員である。しかし趣味は錠前の研究と宴会一発芸である。
「大丈夫、和菓子の大行列じゃないからさ。」
「ははは・・・・」
「そろそろお前たちが戻ってくるころだと思ったんだよな。よかったよかった。」
高原が差し出した紙袋を茂が開けると、大量のレモンが入っていた。
「おお!」
「純正国産レモンなんだって。クライアントのご実家で栽培されてるものだそうだ。」
「高原さんの分はもう取られましたか?」
「俺、すっぱい物ってちょっと苦手なんだ。」
「そうなんですね。葛城さん、いくつか持って帰られますよね?」
葛城は少し考え、首をふった。
「いえ、私は・・・」
「葛城さんも酸っぱいものがダメなんですか?」
「いえ、好きなんですが」
「・・・・?」
高原が笑いをこらえているのが分かり、茂は怪訝な顔になった。
葛城が少し頬を赤らめながら、言った。
「どう加工していいか・・よく分からないので・・・」
透明度の高い琥珀色の両目を少し丸くして、茂が葛城を見た。
「な、なるほど」
茂は文具コーナーからメモ用紙を持ち出し、簡単なメモをして、レモンと一緒に葛城に手渡した。
メモを見て感動した様子で葛城が笑顔になった。
「たくさんレモンがあるときは、こうすればいいんですね!・・・レモネード、レモンゼリー、レモン酒にレモンサワー・・・・・・作り方、わかりやすいです。これなら私にも大丈夫そうです。」
「ビタミンたくさん採ってくださいね、葛城さん。」
高原がついに耐えきれずに大笑いした。
「あっはっはっは、怜、料理の分野ではお前は永遠に河合の弟子にも入門できないな。」
「うるさい、晶生。」
葛城に睨まれ、一瞬ひるんだが高原はすぐに次の話に移った。
「・・・で、怜、河合。」
葛城は高原を見たまま、困ったような笑顔でため息をついた。
「ほんとはダメなんだからな」
「うんうん」
「・・・・茂さん、晶生に警護案件のこと話してもいいですか?」
「はい、もちろんです!」
「断ってもいいんですよ、メイン警護員の判断次第なんですから」
「大丈夫です!」
茂は高原のアドバイスが是非ほしかった。二度目とはいえメイン警護員を務めることはとても不安だ。
三人は麦茶のグラスとピッチャーの置かれた打ち合わせコーナーのテーブルを囲んで座った。
茂が携帯端末の画面を指しながら説明する。
「クライアントは有名企業の部長さんですが、つい先日引退されたばかりです。今度の警護は結婚記念日のご夫婦での観光旅行に同行します。警護時間は夜間のみで、金曜夜と、土曜夜です。奥様はまだ現役でお仕事をされてますが、これを機会に少し郊外の住まいへ移るので、都会の夜の食事やクルージングを、クライアントの現役中はなかなか一緒にゆっくりできなかったので堪能されたいとのことです。」
「犯行予告は?」
「あります。メールですが、引退された日に届きました。『あなたが楽しそうにしているとき、殺します』」
「犯人に心当たりは・・・?」
「あるそうです」
茂は正面の席の高原の顔を見た。
葛城は憂鬱さを少しだけ顔に出し、うつむき加減になった。
「もと、部下?」
「はい。おそらくそうではないかと。・・・・クライアントの現役時代、自殺をした部下が二人いました。」
「そうか。」
「特に、ふたりめのかたは、わずか半年前のことだそうです。」
「・・・そうか。」
しばらく沈黙が流れた。
庄田はカンファレンスルームの明かりを消して部屋を出たとき、奥の社長室から明かりが洩れていることに気がついた。
一度自席へ戻り、一瞬の逡巡の後、庄田は社長室の扉のほうへ向かって歩き始めた。
庄田がドアをノックするより早く、中から扉が開き、部屋の主が微笑して部下の顔を見た。
「コーヒー、飲む?」
「・・・頂きます。」
阪元航平が、社長と呼ばれるには若すぎる顔にさらに優しげな微笑を浮かべ、部下を部屋へ招き入れた。
個人の簡素な書斎のような社長室の、中央にある小さな円卓に向かう椅子に庄田を座らせ、阪元は奥のカウンターから繊細な磁器のコーヒーセットを持ち出した。
コーヒーを注いだ二つのカップのうちひとつを庄田へ渡し、自分も椅子に座った阪元の顔は、しかし微笑を絶やさないにも関わらず庄田の顔つきを次第に緊張させていた。
「浮かない顔だね、庄田。」
「・・・・」
「気遣いが過ぎる部下を持つと、かえって憂鬱なものかな?」
「・・・・そうかもしれません。」
「しかし恋というのは、すごいね。人知を超えた能力を人に与えるのかも。ターゲットは、理屈抜きの直感で感じたということだ。浅香の殺意を。」
「はい。」
「そしておそらく・・・」
「はい、たぶん、予測していたのでしょう。一番愛している人間に、殺されることを。」
「そうだね。」
「まさかこんなことで君にばれるとは思わなかったろうね、浅香は。・・・ターゲットが自分のもと恋人・・・いや、今も自分に恋している女性だということが。」
「はい。」
「そしてさらに・・・」
「社長」
庄田は少し強い口調で、しかし嘆願するように阪元の次の言葉を制した。
阪元は苦笑し、その明るい金茶色の髪に似合う深い緑色の両目を細め、それ以上は言わず話題を変えた。
「チームの仕事に立ち入りすぎたね。・・・でも、次の仕事についてこれは聞いていいかな?・・・君が直接手を下すと聞いたけれど、それは本当なの?」
「はい。」
「チームリーダーが直接活動することは、もちろん珍しいことではない・・・恭子さんなんか率先して一番多く事前準備はしている。でも、実行現場で最前線に立つチームリーダーはまだまだ少ない。」
「ご心配でしょうか。」
「そう思うかい?」
「私の足のことかと。」
「あははは。そうじゃない。自分の体調を考えてできるかできないか、そんなことが分からない元アサーシンはいない。」
「はい。」
笑顔を消して、阪元が部下の切れ長の目を見る。
「ターゲットを警護するのは大森パトロール社の、あの可愛い新人警護員だね。」
「もうそろそろ新人とはいえません。」
「相手にとって不足じゃない?」
「今の私の体力的な条件を考えると、そうでもありません。また、殺人案件を終えたばかりの浅香はサポートに回すほうが良いと考えました。逸希はボディガードのついた殺人案件で失敗したばかりですから、手本を見せる意味もあります。また・・・」
「わかったわかった。これも少し余計なことだったね。」
「・・・・」
阪元はコーヒーをようやく一口飲んだ。
「・・・浅香のことで、あとひとつだけ、細かいことを聞くよ。」
「はい。」
「殺人案件を受けるにあたって、ミーティングで彼は何と言っていた?」
「問題なく、受けるべきと言いました。知人の幼い子供を身勝手な動機で殺害し、しかし証拠不十分で殺人罪に問われなかった人間。しかもお客様の依頼は、純粋な報復ではなく・・・つまり、ターゲットの幼い子供を同様に殺せというものではなく、殺人犯本人を殺せというもの。理性的である、と。」
「そうか。」
阪元が小さく頷き、庄田は手元に目を落とした。冷めたコーヒーは、飲み干されることはなかった。
吉田恭子はそのセミロングの髪に包まれたおとなしい顔立ちを、さらに特徴のないものにしている鼈甲色の縁の眼鏡を少し持ち上げて、目の前の長身の部下の顔をまじまじと見上げた。
「酒井、あなたってそういう人だっけ」
「たぶん、そうやなかったと思います。」
緩やかな関西弁で、酒井凌介は上司の目を見ずに答えた。
昨夜、庄田が座っていた奥の席に、朝日を浴びて今朝はやはり自分のチームを率いる、しかし男性ではなく女性のエージェントが足を組んで座り、テーブルをはさんだ反対側にはチームの筆頭エージェントで元アサーシンの男性が居心地悪そうに立っている。
「どうしてそんなになってしまったのかしらね。」
意地悪な言葉と口調にあまりふさわしくなく、吉田の表情は微かに楽しげだった。
「やっぱり、だめですか?」
「酒井、それはずるい。」
「・・・・」
「だめと言えなくなってしまう。そう言われると。」
「はい。」
「ほかに誰が一緒に行くの?」
「板見を使わせてください。」
「わかった。深山は行きたがっていなかった?」
「ご明察のとおりですが、断りました。」
「最初に気がついた張本人なのに、悔しがっていたでしょう。」
「ええ。しかし元アサーシンには、現役のアサーシンではなくやはり元アサーシンのほうがええでしょう。」
「そういうもの?」
酒井は精悍な顔立ちを少し傾けて目の前の上司へ微笑を向けた。
「そういうもんです。それに・・・」
「・・・・」
「それに、祐耶に庄田さんを止める権利はないです。人のこと、全然いえませんからね。」
「まあ、そうね。」
吉田の眼鏡の奥の両目が僅かに曇ったように見え、酒井はやや後悔した様子で眼を逸らした。
平日昼過ぎのコーヒーショップはかなり混雑していた。
三村英一が店内を覗くと、後ろから声をかけられた。
英一と同じくらいに背の高い、眼鏡の似合う好青年が笑顔で立っていた。
「コーヒー、テイクアウトしました。混んでるんで。」
高原が、両手に持った紙のコーヒーカップを示した。
「ありがとうございます。」
二人は駅へ、そして駅から線路に沿って伸びる木のデッキの並木道を、雑談しながらゆっくりと歩いた。
「先日はうちの飲み会に参加してくださり、ありがとうございました。」
「こちらこそ、お誘いくださりありがとうございました。楽しかったです。到着が遅れてすみませんでした。」
「そういえば、私より一時間以上遅れたらお仕置きだったんですよね」
「・・・・」
「と、河合が言っていましたが。」
「・・・・はい。きちんと実行されました。しかもかなりの業績で、係長から賞賛が。」
「あははは。」
「昼間の会社で、河合と俺をペアにすることが、どうして俺への罰ゲームになると思ったのか、よくわかりませんね。河合のほうのダメージが大きかったんじゃないかと思います。」
「三村さん、すごく楽しそうですね。」
「そうですか?」
「はい。ただ、やはり私は・・・少し今も、心配しています。」
木のデッキと並木の間で高原が足を止め、英一も立ち止まった。
「あの探偵社は、これからどうするんでしょうね。高原さんは、どうお考えですか?」
「我々は警備会社ですからあまりこうした推測は得意ではないですが、なぜか彼らは我々が鬱陶しい。しかし同時に、何か逆のものもあるようです。ですから余計に鬱陶しい。」
「はい。」
「うちの警護員へリクルート活動をしたり、顧客を奪ってみたり、必要もないのに我々が警護しているときにターゲットを狙ったり。」
「・・・そして、私のことをよく把握した上で、殺さずにいたり。」
「ひとついえることがあります。彼らの動きのいつもその先に・・・河合がいる。」
「はい。」
「そしてこれは経験プラス勘ですが」
「・・・・・」
「奴らはたまらなく河合警護員を気に入っている。」
英一は、明示されたくなかった事実を目の前に見せつけられ追いつめられる者のような、表情をした。