黙っていれば
クリューネは魔導書を手にしながら、リュウヤの枕元で椅子に座りこみ、自分の身体の半分近くはありそうな巨大な書物を広げていた。
部屋の外の広い軒下では、リリシアが火を焚いて鍋を煮込んでいる。薬湯だという茶色く濁った液体は、鍋から滲みるような臭いを漂わせていた。
外では雨が降っている。
大地の熱気に誘われたのか、山の隙間から雨雲が入り込み、雨がアギーレだった地を濡らしていた。
雨といっても霧のような小雨だが、凍えるような冷たい雨で、テントが吹き飛ばされてしまった今となっては、こんな廃屋でもありがたい。
リュウヤの光弾によって、アギーレの半分が焼失し、クリューネが育った家も半壊状態だった。
ただ、寝室の部分は形らしきものはかろうじて残っていたので、リュウヤはかつてクリューネが眠っていたベッドのなかで寝息を立てている。
何年も使っていないベッドで埃だらけではあったが、テントも中に置いていた魔法の鞄も吹き飛んでしまった今、無いよりはマシだった。
リュウヤの怪我も、回復魔法で表面上は完治したものの、満身創痍でおびただしい出血やこれまでの疲労などもあって、安静が必要な状態が必要となっている。
「……」
森閑とした空気に耐えかねたように、魔導書を眺めているクリューネのまぶたは垂れ、頭が不安定に揺れる。
一度は椅子から転がり落ちそうになり、慌てて体勢を立て直した。
「いかんいかん。また眠るとこだった」
クリューネはピシャリと自分の頬を叩いて魔導書に目を向けるも、またもや同じく頭が舟を漕ぎ始める。
そして、またハッと覚醒するのだ。
――この本には何か睡眠魔法でも、掛けられておるのではあるまいな。
などと、しょうもないことを考えながら、クリューネは眠気を堪えて、再び魔導書を眺め始めた。
リュウヤが眠っている間、クリューネは目的だった魔導書をついに手に入れていた。
これまでの失敗をバネにして、全ての竜言語魔法を会得しようと、またはするべきと意気込んででみたものの、慣れない古い詩のような文言が、クリューネの脳には受け入れがたいものであった。
何が書いてあるのかわかりはするが、読み進めるうちに頭がくらくらする。
わかりにくい文言は読んでいても味気なく、ちっとも頭に入ってこない。そのうち、強烈な眠気が襲いかかってきて、ウトウトと頭が揺れ動き始めるのだった。
「……」
何度目かの居眠りに、バサリと魔導書は重い音を立てて床に落ちると、クリューネの身体は、前のめりにダイブするように椅子から転げ落ちた。
はたと目を覚ますと、そこにはリュウヤの顔が眼前に迫っている。
ズゴンッ。
重く鈍い音がクリューネとリュウヤの衝突した額から響き、突如暗くなった視界に、無数の星が飛んだ。
「ふぎゃあ!」
絶叫しながら後退したクリューネは、魔導書に足をとられて尻餅をついた。
額をさすりながら、まぶたを開けると、ベッドの上で額を抑えて苦悶するリュウヤの姿があった。
「……いってえな、お前。ここ、怪我してたんだからよ」
文句を言うリュウヤのしゃべり方は、まさしくいつものリュウヤだった。額の痛みを堪えてクリューネもおう、と言った。
あまりの痛さに、声が震えているのが自分でもわかった。
「め、目が覚めたか、リュウヤよ……」
「目覚めたも何も、頭突きが目覚まし代わりかよ。どうやったら、そこから頭突きする位置になるんだよ」
「いやあ、椅子が良い位置にあったんだの。不思議なもんじゃ」
「ふっざけんな……」
「しかし、お主、頭硬いのう。頭の中だけじゃなく、外も石で出来とるんか」
「余計なお世話だっつうの」
額をさするクリューネの横から、騒ぎに気がついたリリシアが慌ただしく駆け込んでくる。
「リュウヤ様!お目覚めですか!」
リュウヤが返事をする間も与えず、やにわにリュウヤに抱きつくと、胸元で嗚咽を洩らし始めた。
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
「いきなり、何を謝ってんの」
「そんなに泣くなって」
「私、役に立てなくて……、ごめんなさい」
「そんなことないよ。心配かけたな。ごめんな」
「リリシア、お主はくっつきすぎじゃぞ。リュウヤが困っとろうが」
だが、リリシアはクリューネの言葉など無視して、しがみつくだけだったし、リュウヤも慰めるようにリリシアの頭を優しく撫でている。
――なんだ、こいつら。
急に声色が変わるリュウヤといい、恋人みたいにイチャイチャしすぎだと、クリューネが憮然とする中、リュウヤはリリシアの優しく頭を撫でていた。少しするとリュウヤは鼻を鳴らし、臭いを追って軒下を見た。
「リリシア。今、薬湯つくっているのか」
「は、はい……」
「放っとくと、鍋が焦げちゃうぞ」
リュウヤが言うと、リリシアはあっと声を挙げて、涙を拭きながら外へと駆け出していった。
「なんじゃあいつ。リュウヤもリリシアには、随分と甘いんだの。ベタベタして恋人みたいに」
「あ、いや、恋人じゃなくて……」
「なんじゃ?」
これから結婚するんだといのも妙に気恥ずかしく、リュウヤは頭を掻いて小さく笑ってみせた。
クリューネはそんなリュウヤを怪訝そうに見つめてくる。そろそろ話そうかなと思った時、流れ込んできた冷気に思わず震え、リュウヤは大きなくしゃみを二つ三つと続けてした。
そして、自分が裸だと気がつくと、慌ててシーツ身体にまとった。
「……寒いと思ったら、何で俺、裸なんだよ」
「自分で放った攻撃でなったんだろうが。自業自得じゃ。廃墟とはいえ、町を滅茶苦茶にしおって」
「ああ、そうだっけ……」
リュウヤは寒さとは別の理由で苦い顔をして、不意に口をつぐんだ。そして、クリューネが手にしているぶ厚い本に目を落とした。
「魔導書、見つかったんだな」
「うむ。ここの床下に隠しといたんじゃが、魔王軍にも見つからなかったし、あの爆発でも吹き飛ばされずに無事じゃった」
「爆発か……」
リュウヤは改めて周囲を見渡し、暗闇に包まれた外に目を凝らした。
クリューネの寝室だったこの部屋も、ここに到着した時はボロボロだったが、まだ邸宅としての外観は保たれていた。しかし、今は見る影もない。外の町も同様だった。
「ひでえ有り様だな」
「リュウヤ、自分がしたことを覚えておらんのか?」
「……」
リュウヤの言いぐさが他人事に聞こえ、反感を覚えて咎めるようにクリューネが言うと、リュウヤは渋い顔をして外を眺めている。
「覚えてはいる。でも、全部が夢みたいで、自分のことじゃないみたいだった」
「ルシフィとの戦いもか」
うん、とリュウヤは子どものように頷いた。
「よく勝ったな。一度は倒されたから、どうなるかと思ったぞ」
「あいつが本気じゃなかったからな」
言葉の意味がわからず、クリューネは無言で首を捻った。
「ルシフィは俺たちを捕まえるつもりで戦っていた。もし、あいつが殺すつもりで真剣を使っていたら、俺は三回ほど死んでいる」
「ルシフィは強かったか」
「ああ」
「お前よりも?」
「かもなあ」
リュウヤは宙を睨みながら言った。
慣れない徒手による戦闘とはいえ、技の多彩さではルシフィが上だと実感していた。剣で戦ってもはっきりと勝てると言える自信がない。
「暴れ狂ってアイツを倒したみたいだけど、勝ったという実感がないんだ。どうしようもない怒りや悲しみみたいな感情が溢れてきて、別の誰かになった気がする。似たようなことは前にも一度あったが、今回はもっと極端な感じだ」
「前ってのは、エリンギアのことか」
「ああ、知ってるのか」
「リリシアから聞いた」
そうかとリュウヤは腕を組んだ。
リュウヤはヴァルタスの力ばかりでなく、記憶も受け継いでいる。
ヴァルタスの記憶と自分の記憶が混ざり、感情が昂って力が暴走していることも考えられたが、だからといって、人格が変わるほどに異常な力を発揮するものだろうか。
「今回は何とか勝ったけど、次はどうだろうな」
「……次は、ということは、ルシフィは生きてるということか?」
「光弾を放つ瞬間、奴の身体が光に覆われて、突然消えた」
発光源は胸元のペンダントだったかな、とリュウヤはぼんやり思い出している。
「私も見た。やっぱり、そうか!生きとるか!」
思わず声が弾むクリューネをリュウヤはじっと見つめていた。
「嬉しそうだな」
「いや……、スマン。ルシフィは敵なのに」
「いいよ。クリューネの気持ちはわかる。敵だけど、あいつは良い奴だもの」
リュウヤはふっと小さく笑ったが、その笑顔は寂しげに映った。
倒すべき魔族。仇である魔族。しかも国の王子。
だが、リュウヤもクリューネもルシフィに抱いた、好意に似た感情を否定できないでいた。
「……リュウヤ様、薬湯ができました」
リリシアが薬湯を満たしたコップを、お盆に載せてを運んできた。薬湯の臭気にリュウヤとクリューネの思考は遮断され、クリューネは臭いのうと顔をしかめてみせる。
「レモン味とか、ミントの香りだとかないのか。こういう薬湯には」
「……嫌ならさっさと外に行けばいい」
「誰が行くか。それに寒いから、私はリュウヤの隣で寝るぞ」
リリシアを慌てさせるつもりで、わざと言ってみたのだが、リリシアは目を細めただけで無反応だし、リュウヤは気まずそうに頭を掻いている。
「なんじゃお主ら。さっきから」
「あの……、クリューネ」
リュウヤは真顔になりクリューネを見つめた。リュウヤの頬が紅潮している。
「俺とリリシア、この旅が終わったら結婚するつもりなんだ」
「……え?」
クリューネは何の冗談かと思い、失笑を漏らしてしまったが、リュウヤは真顔のままだし、リリシアも幸せに満ちた表情でうつ向いている。
「この旅をしている間に、リリシアとの距離が近くなって、いつの間にか存在が大きくなっていた」
「……」
「お前に会えたら最初に報告したかったけど、色々あっただろ?タイミングがさ……」
「ちょ、ちょ、ちょっと待て!」
呆然としたまま、クリューネはリリシアを見た。表情はさほど変わらないが、目付きは明らかに勝ち誇った顔つきでいる。
リュウヤを手にいれた。
今のリリシアの心境は、競争相手に勝った喜びに満ちているに違いない。
だが、クリューネが焦っていることは別のことだった。
「セリナは……、アイーシャはどうするんだ」
「なんでお前は、その名前を……」
「生きとるぞ」
「え?」
今度はリュウヤとリリシアが、呆気にとられる番だった。
「二人は聖霊の神殿で世話になっている。セリナは記憶を失っているが、元気にやっとる。栗色の髪にナギに似て、穏やかそうな女だ。娘は三歳。笑った目がお主とそっくりだった。どうだ。心当たりはないか?人違いか?」
「……」
それから三人は言葉を失っていた。降りしきる雨も、凍えるような寒さも忘れていた。
疲れも眠けも、どこかに消えていた。
重い沈黙が三人にのし掛かり、金縛りにあったように誰も身動きできないでいた。
特にリリシアは、先ほどの勝ち誇った笑みはどこかに消え去ってしまい、この世の望みを全て失った表情をして、ガタガタと震えながら床にへたりこんでいた。
それから、果てしなく長い沈黙が、三人の間に続いた。




