野に咲く花のように
リュウヤたちが見守る中、アイーシャは大きく深呼吸しようとしたが、途中でうっと呻いて息を詰めた。
「どうした」
急に呻いたアイーシャを、リュウヤが覗きこんできた。
事態がある程度落ち着き、張り詰めていた緊張が解けると、アイーシャは今さらになって、グリュンヒルデに漂う不快な臭いに気づかされていた。金属や肉、木々に何かの燃料などの焼けた臭いが入り混じり、胃の底にまで刺激してくるようだった。
「なんでもない」
アイーシャは首を振ると、改めて呼吸を整えた。
ジルたちを助けると言い切った手前、弱音や泣き言など言ってられない。幼心にも意地に似た感情がある。
――それに、こんな景色をつくった責任は、わたしにもあるから。
贖罪。
刺すよう胸が痛む感情に対し、不意にその二文字が脳裏に浮かんで、何故そんな難しい言葉を知っているのかアイーシャ自身が驚いていた。今まで知りもしなかったのに。
だが、考えている場合ではないと思い直し、静かに魔力を集中させた。
目を閉じるアイーシャの身体を金色の光が発し、ふわりと空に浮かんでいく。
みるみる内にアイーシャは空を上昇し、やがてグリュンヒルデを一望する高さにまで昇ると、静かに目を開けて地上を見下ろした。眼下には見上げるリュウヤたちに囲まれたジルの姿がある。
「お願い、鎧衣紡。力を貸して」
アイーシャが鎧衣紡のを名を告げると、アイーシャの魔力に反応して周囲をミスリルプレートが取り囲んだ。そしてアイーシャが念じ始めると、ミスリルプレートに蓄えられた魔力が共鳴しあい、凄まじい勢いで魔力を膨れ上がらせていく。
「ジル……、グリュンヒルデにいるみんな、聞こえる?」
金色の光は太陽よりも眩しく輝き、アイーシャの姿も光に紛れて見えなくなっていく。
「みんなが帰りを待ってるよ」
金色の光が天に満ち、青い波のようなものがアイーシャから解き放たれたと思った瞬間、突然、ゴウゴウと重々しい風がグリュンヒルデの大地に鳴り響いた。
「うわっ!!」
目が開けられないほどの強い風がリュウヤたちに吹き付け、ゴウゴウと唸る風に耐えていたがやがて静かになった頃、おそるおそる目を開けた。
「……?」
どこか景色が変わっている。何だろうと訝しげに周りを見渡していると、ルシフィが『花が咲いてる』と驚く声がした。言われて目を凝らしてみると、確かに焼け野原となった荒野に小さな草花が点々と芽吹いていた。
森林があった山々に、砲撃で掘り起こされた灼けた大地に、息を吹き返した命がそこにあった。“聖霊の神殿”で起きた現象と同じものだ。赤黒い地面が目立ち、数もまばらなのは、それだけ戦火で焼失した草花も多いのだろう。
しかし、それでも命は帰ってきた。足下からてんとう虫や蜂が目の前を飛んでいった。ルシフィは鳥たちが歓喜を上げて鳴くのを聞いた。倒れた馬やベヒーモスがきょとんと辺りを見渡し、次第に冷たくなる兵士たちの身体には温もりが戻っていった。
「兄さん……!」
リリシアの叫ぶような声に一同は我に返り、横たわるジルの顔を覗きこんだ。蒼白だった顔に赤みが差し、乾ききった皮膚にも潤いが戻ってきたのをリュウヤは見た。
ジルの傍らで、名も知らぬ桃色の小さな花がジルを頬をくすぐっていた。花びらの柔らかさに誘われたのか、少しして「う……」とジルの口の端から呻く声が洩れた。
「兄さん、しっかり!」
リリシアがすがりつくようにジルの身体を揺らすと、うっすらとジルの瞼が開いていった。
「ここは天国か……?」
「違うわよ。お帰りジル」
リリシアの隣にテトラが並び、ジルはぼんやりとテトラを見上げていたが、やがて、へへと軽い笑い声をあげた。
「なんだ、天使がいる。やっぱり天国じゃないか」
「何言ってるの。バカね」
思わぬ一言に、顔を真っ赤にして照れ笑いするテトラとは反対に、リリシアは顔をくしゃくしゃにしながら涙を流していた。ジルの胸元に顔を伏せ、わんわんと喚くように泣いた。熱いものがジルの胸に広がっていった。
「でも、俺……よく生きてたな」
「アイーシャがね、あなたを助けてくれたの」
「アイーシャが……?」
テトラの説明でジルは視線をさ迷わせると、ふわりふわりと金色の光が地上に降りてくるのが映った。どこか頭の中がぼんやりしてその姿まではわからなかったが、アイーシャらしい光だと思えた。
「アイーシャ!」
リュウヤは両手を空に向かって、目一杯伸ばしていた。
鎧衣紡は元のペンダントに戻り、力を使った影響でアイーシャを包む光は朧気で、ひどく頼りないものになっている。風が吹けばそちらに飛ばされてしまいそうで、リュウヤはタンポポの種に似ていると思った。
絶対に離さない。
リュウヤはゆっくりと降りてくるアイーシャを慎重に受け止めると、忽然と金色の光が消えて全体重がリュウヤに掛かってきた。だが、掛かってきたと言っても気にならないような軽さだ。離してしまわぬようぎゅっと抱き締めていると、耳元にアイーシャの疲れきった声が聞こえた。
「グリュンヒルデ全部はできなかった。ゴメンね。これがわたしの精一杯……」
「ジルを助けてくれたのに、何言ってんだよ。よくやった。ありがとう」
「よかったあ……」
そこまで言って、アイーシャの声が急に途切れた。声のかわりに寝息がリュウヤの耳をくすぐってくる。
「本当にありがとうな」
他に言葉が見つからず、リュウヤは寝入ったアイーシャに何度もありがとうと繰り返していた。
ルシフィはそんな二人を静かに見守っていたが、ある気配に気がついて振り向くと、アズライルとミスリードが変化した周囲の光景に目を見張りながら歩いてくる。ルシフィはリュウヤたちからそっと離れ、アズライルのところへと向かっていった。
やあと軽く手を挙げた。
『二人とも元気そうでなにより』
『ルシフィ様、いったい何が起きたんですか』
罪人とはいえルシフィは王族であり、王族に対しては礼を失さずが魔王軍の礼法だったが、アズライルとミスリードは起きている現象に驚いて、目上に対する挨拶も忘れていた。
ルシフィは気にしない性格だから、嬉しそうに周りを見渡している。自分のことのように、いささか興奮気味に言った。
『奇跡だよ』
※ ※ ※
「お前には心配掛けたな」
ジルは泣き伏すリリシアを慰めようと、利き腕の右手をあげようとしたが、ピクリと肉の塊がわずかに震えただけだった。ジルは右手と右足を交互に見比べていたが、やがて天を仰ぐように大地に身体を預けた。
生きたい。
死に瀕してジルが願ったことではあったが、不自由な身体でこれからどう生きていくのかという焦りや不安が胸の内に溢れてきていた。現金なものだと自分を叱りたいくらいだったが、ジルの精神は現実に堪えられるほど、まだ回復していなかった。
「……テトラ」
力のない声でジルはテトラを呼んだ。
「お前は目の前が真っ暗になって、不安や絶望はなかったのか」
不躾とも言えるジルの質問だったが、テトラにはジルの気持ちはわかっている。テトラは気にした様子もなく、世間話でもするような口ぶり答えた。
「目をやられた時は闘いの最中だったからねえ。不安や絶望なんてものじゃなかったよ」
「……」
「でも、死を覚悟したらそのうち恐怖もなくなって、段々と気持ちが静かになってた。なんかこう、洞窟の中みたいに静かでさ、何も考えてなかった。リュウヤ君がよく言っていたけど“無心”てやつ?何とか相手を倒せたんだけど、そこからかな。暗闇の世界にいても、怖くなくなったのは」
「すげえなあ」
ジルは感心しながら呟くと、今度は神妙な面持ちになって、空を流れる雲を見つめていた。
レジスタンスの仲間にも不具となった者は多い。今まで当たり前のようにあったものが突然失い、それを克服するなど大変なことだと頭ではわかっているつもりだった。しかし、似たような境遇に置かれ、改めて仲間の辛さやテトラという女の凄味を知った気がした。
自分がその辛さに堪えられるだろうか。
ジルの気持ちを察したのか、心配しないでとテトラの励ます声がした。
「ハーツ君が義肢をつくろうとしているんでしょ。前みたいに生活できるわよ」
「そうかな……」
「そうよ」
ハーツ・メイカは“機神”や鎧衣紡の技術を応用して、自分の意思で動かせる義肢の研究開発をしていた。といっても、試作品だけでも二、三年は掛かるというのがハーツの見込みで、実用化までは目処が立っていなかった。しかし、テトラに言われれば明日にでも完成するようで、不思議と気が軽くなる。テトラ・カイムという存在が、自分にとってかけがえのないものなのだろうと、混濁した闇の世界で聞いた声を思い出していた。
「こうして生きているのは、テトラが呼び掛けてくれたからなのかな」
「え?」
「お前の声が聞こえたから、寸前で留まることができたと思うんだ」
「……」
テトラは返答に窮した。
話の様子からジルにはリリシアがつきっきりだったはずで、その時リュウヤと行動して、ジルが重傷を負ったことすら知らないでいたのだ。声が聞こえるはずもない。
「いえ、それは……」
「そう。テトラがずっと兄さんを呼んでくれていた」
テトラが正直に打ち明けようとした時、遮るようにリリシアが言った。
「繋ぎ止めてくれたのはテトラのおかげ」
「リリシア……」
口を開きかけるテトラにリリシアから強い視線を感じた。お願いと言っているのが視線から伝わってくる。テトラは混濁する意識の中、ジルがテトラの名を呼んでいたのを知らない。そのため、リリシアの意を解しかねていたが、リリシアの視線に圧されて「うん」と答えざるを得なかった。
「……そうか」
と、ジルは弱々しくはにかんだ。
「お前がいてくれたおかげなんだな」
「そんなことないよ」
無理して笑ってみせたが、騙しているような後ろめたさで、頬に強張りを感じていた。どんな表情をしているのか、テトラにも自分の表情がわからないでいた。そんなテトラの手をぎゅっと握りしめる感触があった。
「……ありがとう、テトラ」
たとえ幻であっても、それが生きようとする力となっていたことには間違いない。リリシアが感謝の気持ちをその手に籠めると、テトラは「ちょっと強すぎ」と苦笑いをしていた。