それでも、ルシフィは再び
ついさっきまで読書をしていた部屋に、ルシフィの姿が見えない。
部屋からは庭に直接出られるつくりになっていて、ヤムナークが屋敷の表まで出て探してみると、緑葉がやわらかく生い茂る木の下で、小鳥たちを相手に佇むルシフィがいた。
小さな邸宅が建てられる以前から立っているユメザクラという木で、ルシフィもヤムナークもまだ見たことはないが、春になれば鮮やかな白い花々を満開に咲かせるのだという。
ヤムナークがルシフィに足を向けると、小鳥たちはパッとユメザクラの枝まで逃げ去った。
『やあ、ヤムナーク』
小鳥たちが一斉に逃げたのを見て察したのだろう。鳥たちを見上げたままの姿勢でルシフィが言った。
『ルシフィ様、そんなとこにいらっしゃいましたか』
『……』
『ま、この辺境の地で読書と畑仕事ばかりだと、さすがに退屈してしまいますからな』
ルシフィはマダラという辺境の地に流されていた。
陸の孤島と呼ばれる土地で、周りは深い山や森に囲まれ、屋敷から十数キロ先に肩を寄せあうようにして暮らしている集落があるだけである。長い間、流刑地のひとつとして使われていた。
ルシフィは庭で野菜とジャガイモの穀物類、都から持ってきた花の苗を植え、晴耕雨読といった日々を過ごしている。ヤムナークは麻のシャツにこげ茶のベストにこげ茶のズボンと農夫らしい服装になっている。
ルシフィは相変わらずの羊飼いのような服装で、いつもとの違いは、今日は陽気に誘われて、上衣がノースリーブというくらいである。暮らしも落ち着き、最近、ようやくマダラの生活にも馴れはじめてきているといったところだった。
そんな折の出来事だった。
近づくにつれ 沈痛な面持ちのルシフィに気がつき、ヤムナークがいぶかしむ表情を浮かべた。不吉な予感が胸の内に過る。
『なにかございましたか』
『もしかしたら、父上が危ないかもしれない』
『ゼノキア様がですか?グリュンヒルデで戦うという話はチラリと耳にしましたが、あの方の身に危険が迫るなどとは……』
『あの子たちは、ケーナから逃げてきたんだって。よほど怖かったんだろうね。みんな、あんなに震えている』
逃げた小鳥たちは木の枝にとまって騒然としている。騒然と言っても、チュンチュンと小さな声で鳴き、たがいに毛づくろいしているだけだから、ヤムナークの目からすれば愛らしい光景にしか見えない。だが、鳥の声がわかるルシフィには、それが生き延びたことを喜び、いたわる時の仕種だと知っているから、気の毒そうに眺めていた。
『あの子たちが言ってた。“お空に巨大な芋虫がたくさん飛んできた。大きな蝶とたくさんの竜。人の姿に変えてグリュンヒルデの森の中に消えてった”て』
『竜族がグリュンヒルデに?』
『情報が断片的だし、時間の前後もよくわからないけど、大きな蝶というのはリュウヤさんだろうね。竜族というなら、クリューネさんもいるだろうし』
グリュンヒルデが魔王軍にとって守りの要であることはヤムナークでも知っている。芋虫が魔空艦のことだと推測はつくが、方向的にムルドゥバ軍のものだろう。そのグリュンヒルデに竜族が現れたということはヤムナークにとって衝撃だった。
あの誇り高い竜族が人間に協力した上に、正面から来ずに、人の姿となってグリュンヒルデに潜伏してきたことも。
『……僕、行ってくる。グリュンヒルデなら、そこまでの距離じゃない』
身を翻し部屋に向かうルシフィを、ヤムナークは慌てて追いかけてきた
『行くとはどちらに』
『父上のところに』
『ですが、刑を受けた身で勝手に離れれば、脱走と見なされ、今度こそ極刑は免れませんぞ』
『そうだけど、黙っておけないよ。リュウヤさんやクリューネさんは、そう簡単に勝てる相手じゃない』
部屋に戻ると、ルシフィは隅に立て掛けてある樫の杖を手にとって軽く振ってみた。ヤムナークに頼んで新しくつくってもらったものだ。
『いってきます』
『お、お待ちください!』
ルシフィは庭に戻ると、そのままグリュンヒルデに向かおうとする勢いだったので、慌てたヤムナークはルシフィの華奢な手を思わずつかんでいた。
『ヤムナーク……?』
『も、申し訳ありません!』
弾かれたようにヤムナークは手を離すと、急いで片膝をつき深々と頭をさげた。
『しかし、どうしても行くおつもりですか』
『ごめん。ヤムナークがいたら心強いけど、巻き込めないから』
ヤムナークはルシフィの強い眼差しに主の意思や覚悟を感じていたが、一方のゼノキアはどう思うだろうか。
これまでのことから、ただ『余計なことをした』と嘲り、一蹴するだけではないだろうか。いや間違いなくそうなるだろう。リュウヤとの戦闘で混乱した町を、タギルとともに治安回復に大いに貢献したのにゼノキアは一顧だにしなかったではないか。
ヤムナークがこれから起きることを想像するだけで、明らかに報われない孝子の行く末に、ヤムナークの中に強い憤りがわき起こってきた。
ヤムナークは顔を上げ、真っ直ぐな視線をルシフィに向けると、最早抑えがたい感情そのままに口を開いた。
『お言葉ですが、ゼノキア様はルシフィ様にたいして日頃から冷淡極まりなく、今回の件についても、あまりに無慈悲だと私は感じておりました。果たして、ルシフィ様が身命を懸けてまですることでしょうか。ルシフィ様が無能の働き者呼ばわりされたこと。私には今でも悔しくて仕方ありません』
『……』
『魔王軍が勝てばともかく、負ければ苦難もありましょうが監視も弱まり自由の身。ですが、今離れれば大功があっても罪に問われることは間違いありません。このまま静観が一番だと私は思います』
憤然とした口調でまくし立てるヤムナークに、ルシフィは驚いて目をぱちくりとさせていた。
『珍しいね。ヤムナークがそんなに怒るなんて』
『当たり前です。子を思わぬ親などありますか。しかも、誰の目にもわかる孝なる子を。私がゼノキア様の親なら、あの人を叱り飛ばして、ケツでもひっぱたいてやりたい』
そこまで言ってから、自分が言い過ぎたと気がついたのか、ヤムナークは慌てて深々と頭をさげた。
ヤムナークには妻がいたものの、子に恵まれなかった。その妻もルシフィが幼い頃に失ってしまっている。ヤムナークにとっては、ついに授かることが叶わなかった我が子と、ルシフィを重ねているところがあり、“家族”に対する思いもまた格別なものがあった。
『……度々、申し訳ありません。出過ぎた真似をいたしました』
『そんなことないよ。僕、すごく嬉しい』
ヤムナークが顔をあげると、ルシフィの秀麗な顔がすぐ目の前にあった。優しく微笑み、ヤムナークの肩にそっと手を置いた。
細い指にも関わらず、その指先には力が強くこめられ、ヤムナークの胸が熱くなるのを感じていた。
『僕にはヤムナークがいてくれて、本当に良かった。……ありがとう』
言葉が出てこなかった。
ルシフィは手が離れても、ヤムナークはそのまま頭を垂れてうなだれていた。 風がやわらかく舞い、穏やかな光がヤムナークを照らした時にようやく顔を上げると、澄みきった青空に十二枚の翼が羽ばたいていくのが滲んで映っていた。
『……ルシフィ様、どうかご無事で』
ヤムナークには、それを口にするだけしか力が残っていなかった。
※ ※ ※
兵士の死体をかき集めてつくられた死の巨人“デッドマン”が五体も出現し、魔空艦“マルス”魔装兵が漸く三体目を始末したと思ったのも束の間、突然の激震がマルスを襲い、レーダー係が悲鳴にも似た声をあげた。
『左舷後方から急接の反応有り。数はひとつ!かなり強大です!』
『このクソ忙しい時に。……おい、そこから確認できるか!』
シシバルはハンドセットを手にし、上部の見張り台に繋げると“奴です!”と張り上げる声がシシバルの耳に響いた。
“銀色のドレスに白い翼……、奴です。クソッタレのミスリードです!”
『やはり奴か』
デッドマン五体も一挙につくりあげられるのは、魔王ゼノキアを除いて魔王軍屈指の魔力を持つと言われるミスリードしかいない。副将時代の頃から魔力は折り紙つきだったが、気味の悪いドレス姿になってから、更に強大さが増している。
「私が行く」
静かな声に振り向くと、リリシアが立っていた。
「あの素早さだと、魔装兵や魔空艦の砲撃では手に余る。近接して戦うのが一番」
『しかし、アズライルまで近いぞ。両親の仇なんだろ』
「……それは兄さんと、シシバルに任せる。あなたにも、アズライルは因縁の相手なはず」
一瞬強い視線が交錯した後、シシバルはリリシアから視線を外すと、灼熱の光弾が飛び交う窓の外を見つめたまま『頼む』と小さな声で言った。やがて、遠くなっていく足音を耳にし、それが砲声や激震に紛れて聞こえなくなってしまうと艦長の傍に寄った。
少し前にレーダー係だった女性兵士で、停戦直前の戦闘時に務めた艦長代理が評価され、そのままマルスの艦長になっていた。
『リリシアが言った通りだ。ミスリードが船から離れた後、本艦はアズライルに向かう。それまで、外の魔装兵にリリシアを援護するよう伝えろ』
艦長はうなずいて立ち上がると、『各乗組員に伝達します』と凜とした声を張って各乗組員に指示を送った。
『艦長が板についてきたな』
シートにちょこんと腰掛けた艦長に声を掛けると、テヘへと艦長ははにかんで頬を掻いた。
正式に艦長を任せてからまだ間がないことや、指示や判断は的確な割にぎこちなさが残っている。そんなどことない頼りなさが他の乗組員に庇護めいた感情を芽生えさせるのか、自分が艦長していた時よりも乗組員は積極的に動いて活気があるとシシバルは感じていた。
――これも一種の才能かな。
現艦長は元々、エリンギアではシシバルの友人の屋敷で奉公していたのだが、戦災で路頭に迷っていたのをシシバルが人手不足だからと半ば強引に引っ張りこんだ。
当時、レーダー係だから状況も把握しやすいだろうと咄嗟の思いつきで代役に選んだのだが、人材はどこにいるかわからんもんだいう人の世の奇妙さに感心し、引き当てた自分の運の良さを実感していた。
彼女は幸運の象徴だろう。
『……頼むぞ、幸運の女神』
『え、何ですか?』
艦長が聞き返そうとすると、再びマルスを襲った激震が、艦長とシシバルのやりとりを封じた。衝撃は船を大きく揺るがし、『きゃあ!』という悲鳴とともに艦長は席からはね飛ばされた。しかし、床に衝突する寸前、シシバルが滑り込む格好で艦長を受けとめていた。
『あ、ありがとうございます』
『今ので怪我は無しか。やはり、俺は運が良い』
『え?』
きょとんとする艦長を立たせると、シシバルは悲鳴や怒号が飛び交い、混乱の極みにある艦橋に大声を張り上げた。
『落ち着け、お前ら!』
その声はいつもの威圧感のある怒声ではなく、どこか明るく陽気なところがあって、その変化に驚いて全乗組員の視線がシシバルに集まっていた。
『お前ら忘れているぞ。俺たちには幸運の女神がついている!そうでなければ、今ので撃墜されていた。船には大した被害はないはずだ!そうだろう!?』
シシバルの問いに、通信係が各部所に被害状況を確認させると、エネルギー波が表面を擦過させただけで、奇跡的にも被害はほとんどない。
『幸運の女神は、大したもんだな』
艦長の肩に手を置きながら、シシバルは微笑を浮かべていた。普段見せない指揮官の笑顔につられ、艦橋の乗組員には落ち着きを取り戻していた。
『シシバル長官、随分と余裕がありますね』
『この船には、勝利の女神もいるからな』
『……?』
怪訝な顔をする艦長を余所に、シシバルは艦橋の天井を見上げた。実際には天井を見ているのではなく、船の上にいるはずの女神。今の攻撃も、その女神が凌いでくれたのだろう。
『……頼むぞ、リリシア』
※ ※ ※
『ええい、まったくもう!また防がれたあ!』
ミスリードはムキーと拳を振り回して悔しさを露にしたが、頭の中では、このままの間合いを維持しようと平静な声が響いていた。
一撃目は距離が離れすぎていたが、二撃目三撃目は確実に当てられたはずだからだ。それを突然現れた魔法陣がミスリードの攻撃を弾き返した。
『あの“神盾”、ホント厄介よね』
ミスリードは、魔空艦の上で身構える小柄な女に苦笑いしていた。神盾自体はそう珍しい魔法ではないが、強大で変幻自在に操れる者はそうそういるわけではない。
『あの可愛らしい子、確かリリシアとかいったかしら』
ミスリードから見ても、なかなかの魔法の使い手だと思う。情報によれば何の職も任されておらず、一介のレジスタンス兵と聞いているが、魔王軍にいればもっと重宝されただろう。
『ま、どちらにしても人間じゃ無理だけどね!』
ミスリードは言うなり、雷槍を放った。稲妻を生じる閃光がリリシアに向かって突進する。しかし、閃光がリリシアに直撃する寸前、リリシアの掲げた両手から生じる巨大な魔法陣が雷槍を一瞬で四散させた。
リリシアは平然とした顔をしているが、ミスリードも攻撃が当たるとは思っていない。ミスリードにしてみれば挑発の意味が込められていた。
『所詮は守るだけ。受けているばかりなんて、いつまで持つかしらね』
死の巨人デッドマンはまだ二体も残っている。たとえ駆逐されても、この戦場なら材料には困らない。魔空艇に載る魔装兵は鈍いし、空も翔べないリリシアは、近づかなければどうということはない。
『空を飛ぶことできないなら、あなたの拳も届くわけないし。ま、長丁場になるほど、私に有利よね』
いずれにせよ勝利間違いなしと、内側から溢れる愉快な感情が抑えられず、おほほほほと高笑いするミスリードの前に、突然影が射した。
『……ほ?』
「ごちゃごちゃうるさい」
いつからそこにいたのか、ミスリードにはまったくわからなかった。
――紅い瞳?
影覗く紅い光を目にしたミスリードの脳裏に、ふと疑念が過った瞬間、轟と唸りをあげる音とともに、とてつもない重圧がミスリードにのしかかってきた。身を縮こまらせたのが効を奏したのか、直撃は免れたもものあまりの圧力にミスリードは身体を押し流され、風に舞う木の葉のように、天地をぐるぐると回転させながら地上に落下していった。
『くのっ!!』
ミスリードは身体を駒のように勢い回転せて、落下の速度ゆるめさせると、戦火で荒れ果てた大地に軽やかに着地してみせた。
『い、今のは……』
「残念。仕留め損なった」
上空から聞こえる声に、ミスリードははっと顔をあげた。大陽の光にまぎれて姿ははっきりと見えないが、体格はリリシアのものだ。だが、リリシアは人間。跳躍したらどうにかなる距離ではない。
リリシアには空を飛ぶ力はないはずだった。それとも飛行の魔法や道具でも使ったのだろうか。
ミスリードがリリシアの影を注視していると、ゆっくりと降下してくる姿にミスリードは愕然とした。
リリシアの黒い髪は銀色に変色し、瞳もルビーのようにキラキラとした紅い光を帯びている。加えて白い翼に銀色のドレス。
リリシアの姿は自分のそれとまったく同じだったからだ。
『ちょ、ちょっとちょっとちょっと!私がいくら綺麗だからって、ファッションまで真似しなくたっていいでしょ!』
「真似しているというなら、それはあなた」
『なんですって?』
「“ミラ”はまだいる?魔法生物“ミラ”あなたもその力で今の姿になったはず」
『……ミラ?もう魔力切れで動かないわ。気に入ってるからぬいぐるみは腰につけてあるけど』
「そう……」
自分のお尻を見せつけるようにして、ミスリードは腰に備え付けたうさぎのぬいぐるみをリリシアに見せた。
あれだけおしゃべりだったぬいぐるみは沈黙し、ミスリードの言う通り魔力も感じない。
リリシアは悲しそうに目を伏せ、小さくため息をついた。
「ミラなら、“元”の身体に、きちんと戻せる方法を知っているかもと思ったけれど」
『元の?きちんと?』
「私はリュウヤ様とクリューネと旅した時から、ある違和感があった」
鍛えるごとに急激に成長していく力や魔力。身体能力はリュウヤを凌ぎ、リュウヤとクリューネは天性の素質が開花だと誉めてくれたが、これは違うとリリシアはどこか心の隅で感じていた。
力の正体に確信したのは、エリシュナの率いる部隊とアメリカの砂漠で戦った時である。
「アイーシャが私を元に戻してくれたけれど、それは変身を解いたようなもの。ミラが私にしたことは、ただ心と身体を乗っ取るだけじゃなかった。魔族のあなたにはただのパワーアップにしか感じなかったようだけど」
『ま、まさか、あなた……』
「強大な力を得るために、ミラにされたこと。それは魔族の肉体につくり変えられたこと」
今は亡きサナダ・ゲンイチロウが魔法生物ミラに行わせたことは、遺伝子レベルから配合を組み換え、人工的に魔族の肉体をつくりだすことだった。その目的は最早不明だが、実験材料として自分に試したことは間違いないとリリシアは思っている。
人間でいられる状態は、時を経るごとに短くなっている。自分の心までが変わっていくわけではないが、取り巻く環境はそうはならないだろう。
身体の変化に誰にも言えなかった。
リュウヤにも兄のジルにも。
打ち明けられたのはシシバルだけだった。シシバルなら、自分の立場を理解してくれるだろうと思ったからだった。
「私は、もう人でも、魔族でもない。どちらからもあぶれた“エリギュナン”」
『……』
「だけど、私は生きる。私の未来のために」
突然、カッと激しい光がリリシアの身体から発せられ、その白い炎がリリシアの身体を包み込む白い翼が輝きを増した。
「そのために、あなたを倒す」
『……いいわねえ、面白い。リリシアちゃん面白いわよ』
しばらく睨みあった後、ミスリードは嘲笑するように口の端を歪めた。
刹那、ぼっとリリシアと同じ闘気による白い炎が、ミスリードの全身に燃え盛った。生じた強烈な衝撃波が大地を抉った。
『“変わり者”同士、全力でやれそうね!』