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竜に喚ばれた男  作者: 下総 一二三
第14章「血のムルドゥバ」
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銀の竜の背に乗って

 ボコボコッと煮えたぎった溶岩のような音がし、リュウヤたちが目を向けると、切断したベルゼバブの首から無数の泡が沸き立っていた。頭部の首元からも湧水のように血が溢れだし、右へ左へ或いは転進しながら流れていく。

 リュウヤたちの目には、その液体が意思を持った生き物のように思えた。実際に不死と言える身体には体液にも再生のための力が備わっているのだろう。互いの身体を探しているのかとリュウヤは唸って、血の流れる様を見つめていた。

 早くも意識を回復させたらしく、小さな呻き声を発し、蝿の手足が蠢き始めている。


「意外と再生が早いな。呑気に雑談している場合じゃなさそうだ」


 ベルゼバブの再生を阻止すべく、リュウヤは“弥勒”を抜きベルゼバブの死骸へと疾駆しようとすると、三つの影がリュウヤの周囲に躍りかかった。

 白い彫刻のようなゴツゴツと巨体に、紅く瞬く禍々しい丸い瞳が光る。一度は退いていたアーク・デーモンだったが、主が再生する姿を見て勇奮し、今度は反撃に転じてきた。


「邪魔だ!」


 リュウヤが咆哮するとともに鱗粉が舞い、キラ、キラと閃光が宙を駆けた。リュウヤは鎧衣紡(プロメティア・ヴァイス)のエネルギーを瞬間的に爆発させ、剣を振るいながらアーク・デーモンの巨体をすり抜けていた。正眼に構えながら振り返ると、三匹のアーク・デーモンは胸や脇腹から鮮血を噴き出し、重い音を響かせながら膝から崩れ落ちていった。


「リュウヤ様、後ろです!」


 リリシアの声がすると同時に重い気配が二つ、リュウヤの背後から迫ってくる。目で確認しなくてもアーク・デーモンだとわかっていた。

 剣を下段に変化させ、足を運んで転身させると、リュウヤの反撃よりも先にリリシアがアーク・デーモンに攻撃を仕掛けていた。


「だりゃあああああ!!!!」


 叫ぶ神盾(ガウォール)による連撃が一匹のアーク・デーモンを薙ぎ倒すと、連撃の反動で身を空中で転じながらリリシアは、もう一匹のアーク・デーモンに突進した。

 馬鹿な奴と言わんばかりにアーク・デーモンは嘲笑うように丸い目を細め、ニンマリと浮かべた邪悪な口に灼熱の炎が溜め込まれるのをリンドブルムは目にした。

 だが、リリシアの表情は微動だにしない。


「バカ!君、死ぬ気なの!?」


 人化したティアと背丈体型が変わらないこともあって、おそらく同い年の子だろうと、勝手に思い込みながらリンドブルムはリリシアに向かって叫んでいた。

 リリシア・カーランドと、リンドブルムが名前も知らない女の子の無謀な戦いに心を痛めていたが、次に映った光景にリンドブルムは驚愕して表情が凍りついた。

 アーク・デーモンはリリシアに向けて猛火を勢い良く放ったが、リリシアは冷静だった。神盾(ガウォール)で受け流すと、反対に炎の勢いを利用して一息にアーク・デーモンの眼前まで飛び込んでいった。一瞬の動きで、リンドブルムの目にも信じがたい動きだった。


「……喰らえ、私の一撃」


 ヒュンと小さな乾いた音とともに、アーク・デーモンの眉間を正拳突きが貫いたかと思うと、直後に凄まじい衝撃波が巻き起こり、一撃で悪魔の頭部を吹き飛ばしていた。


“本当に人間……?”


 リンドブルムは、リュウヤとリリシアの戦いに息を呑んでいた。

 人とはか弱く脆い存在だと父からは聞かされ、狩った獲物を売りに訪れた村やムルドゥバまでの旅の道中に人と接してみて、確かにそうだという認識があった。

 だが、目の前で瞬時に悪魔を打ち倒すリュウヤたちは、リンドブルムの目から見ても怪物のように映っていた。

 驚愕するリンドブルムを他所に、片刃の剣を手にした怪物の一人はチッと舌打ちをした。その向けた方向に巨大な黒い影が浮かび上がっている。


「もうベルゼバブの御復活か。これじゃ、いくらバハムートでも相手にしきれねえな」

「バハムートだからこそ、ここまで持ちこたえたのだと思います」

「確かにそうだな」


 リュウヤとリリシアが見据える先には、アーク・デーモンとの戦いの間に、再生を終えたベルゼバブが立っている。

 落ち着きなく自身の蝿の顔を拭い、手を擦りペチャペチャと不快な音を立てながら自分の手を舐め回していた。


「いくぞ、鎧衣紡(プロメティア・ヴァイス)!」


 リュウヤは背中に光の羽根を広げ、ベルゼバブの頭上まで飛び上がると、推進する勢いを使って、剣を上段から振りおろした。弥勒の切っ先は眉間から胸部まで駆け抜け、どす黒い血が噴き出し地面を黒く染めた。手応えはあったとベルゼバブに向き直ったリュウヤだったが、その表情が強張った。ベルゼバブは絶叫こそあげたものの、よろめきながらも生きていた。斬られた箇所からアブクが立ち、傷がみるみる癒えていく。

 貪欲な本能を持つベルゼバブは、先の一撃でリュウヤとの間合いを学び、わずかに致命傷を免れたようだった。感情を抑える術を知らないベルゼバブは、悲鳴をあげながら建物だろうと仲間のアーク・デーモンだろうて、手につくものをことごとく破壊した。


「リュウヤ様、このままでは……!」

「わあってるよ」


 仕方ねえなとリュウヤが低い声で呟くと、ベルゼバブの喚声に負けじとバハムートに視線だけ向けて声を張り上げた。


「バハムート、結界を頼む」

“ま、待て、リュウヤ。さっきもお前は簡単に言ったが、あんな結界を私にどうやって破れと”

「お前の“竜眼”なら魔力の流れも見極められるはず。それにバハムートの力が加われば一気にぶち破れる。それに俺が突破しても、その後が問題だ。俺の鎧衣紡(プロメティア・ヴァイス)でも、あのクソッタレな雲を払えない」

“無茶だ。私はお前じゃないんだぞ”


 ホーリーブレスすら通用せず、他の手立ても思い浮かばなかったのに、ここに来て急にリュウヤの真似事などできるはずもない。


「お前は俺よりも、自分が思っているよりも、もっとずっと強い力があるんだ。自分の力を信じろ」

“……”

「せめて一緒にいて、結界の隙間を見つけてやりたがったが、ベルゼバブのあの様子じゃそれも難しい」

“……”

「お前の竜化の制限時間も迫っている。頼むクリューネ」


 振り向くリュウヤの訴えかけるような視線が痛く、堪えきれずにバハムートは思わず視線を逸らさずにはいられなかった。だが、一旦逸らした視線の先に飛び込んできた光景を目にすると、すぐにリュウヤに顔を戻した。


“……わかった。やってみる”


 炎に包まれた街。

 破壊された街、街、街。

 死んだ母の身体を揺する子ども。子どもの名を呼びながら泣き叫ぶ母親。恋人らしき二人が手を繋いだまま潰された死体は、片付けられずそのまま残されていた。雑貨屋の老夫婦は炎に焼かれ、瓦礫から突き出た手足はミイラのように炭化していた。

 主をリュウヤに斬られた衝撃で、警戒して後退したとはいえ、街を破壊した白い悪魔はまだ多く残っている。

 セリナたちがいるはずの寺院宿舎にも、火の手が迫っている。

 戦いはいまだに終わらず時間と命が消費されていく。悩んでいる余裕などないはずだった。


“……我を誰だと思っている。神竜バハムートだぞ。これしきのこと”


 明らかに強がってるのが見え見えだったが、リュウヤはそこには触れず、微笑して肩をすくめてみせるだけだった。


「もうひとつ頼みがあるんだが、いいか」

“なんだ”

「アイーシャを連れていってくれ。ベルゼバブ相手に抱えながら戦うのは、俺にはちょっと無理だ」

“全く、幾ら神の竜とはいえ、頼み事をしすぎだぞ”

「困った時の神頼みと言ってな。ここぞで頼りになるのは、クリューネなんだよ」


 内心に吹き荒れる極度の緊張と不安、加えてリュウヤの励ましの一言に、バハムートは涙が出そうになっていた。しかし、神竜の姿で情けない姿が見られたくなく、バハムートはキッと空を睨み上げた。


「アイーシャ、クリューネの邪魔にならないように、良い子にしてるんだぞ」

「うん……はい。」

「良い返事だ」


 リュウヤが小さく笑うと、表情を引き締めてベルゼバブに視線を戻した。ベルゼバブは既に身体を再生させて、四本の手をだらりと下げてリュウヤたちを見下ろしていた。

 バハムートとのやりとりの間、攻撃を仕掛けてこなかったのは、リリシアが壁となって付け入る隙を与えなかったからである。

 すまねえなと言いながら、リュウヤが脇構えに構えた。


「話は終わりましたか」

「ああ。後はクリューネ……いや、バハムートに任せる」

「リュウヤ様も無理してバハムートなんて呼ぶ必要ないはず、私みたいにクリューネと良いのに」

「あいつは、そう呼ばれたがっているんだよ」

「相変わらず、おやさしいです……ね!」


 リリシアは語尾を強めると同時に、手には雷槍(ザンライド)の雷撃を強襲してきたアーク・デーモンに放っていた。リュウヤも雷槍(ザンライド)の稲妻を縫うようにして駆け、合わせて仕掛けてきた二匹のアーク・デーモンを、それぞれ一太刀で即死させていた。


「お見事です。リュウヤ様」


 リリシアが賛辞の言葉を述べたが、リュウヤは口の端をわずかに歪めただけだった。

 ベルゼバブはじっと佇んで動かない。下手に動けば殺られると本能でわかっているのだろう。今は自分たちの動きを観察しているのだとリュウヤは思った。

 視線は後方のバハムートにも、向けられているように感じられた。


 ――てめえの相手はこっちだ。


 リュウヤはベルゼバブを睨みながら、弥勒の柄に力を籠め直した。


  ※  ※  ※


“アイーシャ、首の後ろのたて髪に捕まって私の髪と身体を結べ。そこなら風も来ないが万が一だ。吹き飛ばされずに済む”


 バハムートはアイーシャを肩に乗せ、疲れたアイーシャの身体でも落ちないように身を屈めた。アイーシャは白く長いバハムートのたて髪を腰に結んでいたが、何かが指先を冷たく濡らした。その手を見ると、バハムートの血が付着している。

 見渡すと、到る箇所に痛々しい火傷や出血が視界に飛び込んでくる。


「……」

“どうした?”


 バハムートの問いに、アイーシャは「いいよ」とだけ言ってバハムートに身体を預けた。


“翔ぶぞ、アイーシャ”

「うん!」


 バハムートは巨大な翼を広げてひと羽ばたきすると、身体は宙に浮き次の羽ばたきで結界目指して猛進していった。飛翔するバハムートの姿に悪魔たちは色めき立ち、ベルゼバブが唾を飛ばしながら激しく雄叫びをあげた。

 主の声に、全てのアーク・デーモンの目が一斉にバハムートに注がれるのをリュウヤは感じた。

 魔法陣が壊されても闇の世界に帰るだけなのだが、虚無の世界は闇の住人にも堪え難い世界なのだろう。怒りと恐怖を示した不気味な紅い瞳が強さを増し、ベルゼバブを先頭に塊となってバハムートへと向かっていった。


「クリューネが……」


 リリシアがそこまで言った時、背筋に冷たいものが流れた。凄まじい殺気に鳥肌が立ち、身体が震えていた。強烈な殺気はすぐ傍からリリシアを突き刺してくる。

 殺気の元をたどると、目を見開いたリュウヤが一点、ベルゼバブたちを睨んでいる。


「行かせるかよ!」


 次の瞬間には蝶の羽根が大きく開き、リリシアの目にも捉えられないほどの速さでベルゼバブに先回りをし、弥勒を下げたまま佇んでいた。


「……アイーシャはお姉ちゃんになる」


 リュウヤが呟いた。


「子どもが出来たんだ。俺に新しい家族ができる。みんなで幸せに暮らす。それを邪魔させるか……!」


 鎧衣紡(プロメティア・ヴァイス)のミスリルプレートから発せられるプラズマ粒子が、互いに共鳴するように更に強さを増した。スッと上段に構えた弥勒の刃にプラズマが集中し、強大なエネルギー波が刃に滞留する。


「……行くぞ」


 誰が呼んだか知らないが、魔王軍ではリュウヤが剣から放つ衝撃波がそう呼ばれていると、最近シシバルから聞いた。


 ――その名に応えるぞ。知らぬ人。


 天翔竜雷(アマカケルリュウノイカズチ)

 リュウヤは空で足を踏み込みながら、思いきり上段から振り下ろすと、刃から解き放たれた気の塊が、竜を模した嵐となってベルゼバブら悪魔の大群へとばく進していく。

 極限まで練り上げた気の奔流は、ベルゼバブらを呑み込み、塵と化して消滅させていく。リュウヤ自身もまだ気がついていないが、ホーリーブレス並の力を持つまでに至った高エネルギー波は、一瞬で悪魔の大群を消し去った。

 しかし、そのエネルギー波も結界の壁に衝突すると、激震を起こすもあっけなく拡散していってしまう。


「ただの強い力をぶつけただけでは、通用しないてことか」


 リュウヤはバハムートを視界に入れながら、再び魔法陣から吐き出されるベルゼバブらに向けて、剣を構え直した。


「クリューネ、頼むぞ」


 それだけを口にして、リュウヤは鎧衣紡(プロメティア・ヴァイス)の羽根を羽ばたかせた。

 一方、リュウヤの天翔竜雷(アマカケルリュウノイカズチ)が空を駆け抜けても、バハムートは一顧だにせず結界へと猛進していた。

“竜眼”を向けるバハムートには正面の結界だけで他は何も聞こえない。爆音や喚声も遠退き、奇妙な静けさが辺りを包んだ。背中に伝う人の温もりが、バハムートをより極限の世界へと誘っていく。

 ただ一点、結界を見据える。

 バハムートの行く手を阻止せんと、アーク・デーモンの群れが次々に襲い掛かる。だが、その度にリュウヤの天翔竜雷(アマカケルリュウノイカズチ)が、リリシアの神盾(ガウォール)の連撃が大群を駆逐していく。その中をバハムート正面を見据えて突進していた。


 ――お前なら出来る。


 リュウヤの言葉を反芻させながら、バハムートは結界に意識を集中させていた。

 バハムートの“竜眼”にほのかに揺らめくものが映った。

 結界を作り出した使い手の魔力が、濁流のように激しく流れて複雑に絡み合う。その中で濁流同士がぶつかり合うと、魔力の空白ができる。わずかな隙間が生じるのがバハムートの眼に飛び込んできた。


“あれか!”

「お姉ちゃん、横……!」


 背中から、アイーシャの息を呑むような声がした。

 バハムートが爪を立てる側面から、ベルゼバブが迫っていた。口から鼻の曲がるような臭気と、唾液を垂らしながらアイーシャに巨大な口を開いていた。


「……」


 凍りつくアイーシャの目の前に光がはしり、その刹那、ベルゼバブの眼に刃を突き立てる人の影を見た。


「行かせるかよ!」

「……お父さん!?」

 

 アイーシャの前に、鬼のような形相をし、剣に力を籠めるリュウヤ・ラングがそこにいた。


「うらああああああっっっ!!」


 リュウヤは叫びながら鎧衣紡(プロメティア・ヴァイス)の力を開放させると、光の蝶はそのまま地面まで推進してベルゼバブを押し込んでいった。

 地面に衝突したベルゼバブは轟音と土煙を立てて、地中に埋もれて動かなくなるのを一瞥して確認すると、リリシアを襲い掛かろうとしたアーク・デーモンに瞬転して斬り倒した。

 続けて、三度目の天翔竜雷(アマカケルリュウノイカズチ)でバハムートに向かったアーク・デーモンの群れを焼き払った。

 獅子奮迅、縦横無尽を体現したような動きで、超高位魔法“降魔血界(ワクテカ)”によって召喚された闇の世界の住人でさえも、リュウヤ・ラングを誰も止められないでいる。

 もはや、バハムートを遮るものは何もない。

 バハムートは右手の指を揃え、手刀を形成していた。


「行けえクリューネ!」


“おうっ!!!!”


 リュウヤが叫ぶと同時には、ズシンと腹の底まで響く音がなった。バハムート手刀が結界に突き刺さり、そこから亀裂が広がっていくのが見えた。リュウヤのようなひと数人程度ではなく、亀裂は結界全体へと広がっていった。


“ぬああああああっ!!”


 バハムートは絶叫するような雄叫びをあげると、翼に勢いを増して突進していく。亀裂はますます細かい網目状のものとなり、結界はヒビで白く埋め尽くされていった。

 一瞬の間の後だった。パリンと小気味の良い音を立てて、結界が砕け散っていた。


「お姉ちゃんやった……!」

“まだ仕事は終わっとらん”


 バハムートはそのまま猛進すると、ムルドゥバの空を覆う雲間へと突入した。


“アイーシャ!私にしっかり捕まっていろよ!”

「うん!」


 バハムートは翼を思いっきり広げると、始めは大きくゆっくりと、次第に翼の速さは加速していき、横に回転していく。バハムートを中心に風の柱が形成され、それは範囲を広げて重い雲を押し退けていった。


“だああああああっっっっっ!!!”


 バハムートは無我夢中になって翼を羽ばたかせていた。巻き起こる嵐の轟音がバハムートの聴覚を遮り、何も考えられず視界は真っ暗だった。

 ただひたすら翼を羽ばたかせて扇ぐ、扇ぐ、扇ぐ。

 不意に辺りが静かになった。

 ひんやりとした空気がバハムートの身体を包み込み、下に引っ張られていく。

 バハムートの変身が解けて、地上へ落下していくのだとぼんやりと覚った。

 事の成否、周りの様子を知りたくもあったが、今は疲れて目を開けるのも億劫だった。それに、クリューネはとじた(まぶた)にほのかに染み込んでくる明かりと、地上から届く悪魔の鳴き声が小さくなって消えていくのを聞けば、それだけで充分だと思った。

 不意に落下が止まった。

 もう地上に着いたのかとクリューネは思ったが、あの高さから落ちては人間の身体だとひとたまりもないことに気がつき苦笑いした。

 温かい。

 たくましい腕がクリューネの身体を包み込んでいる。顔に接する分厚い胸板がこの上もなく頼もしく感じた。


「よくやった、クリューネ」


 ささやくような男の声が、クリューネの耳元でした。聞きなれた声にクリューネは安堵し、微笑をたたえながらその身を埋めた。緊張がとけて力が一気に抜けていく。


「お前のおかげだ。やっぱり頼みはお前だ」

「何のこれしき……」


 リュウヤに応えてやろうと、残った力を振り絞って笑ってやろうとしたが、ある思いが過ると、それは重苦しく胸を締め付けてきた。怯えたように身をすくめ、身体が小刻みに震え始めた。目頭が急に熱くなった。

 クリューネの異変に、リュウヤがどうしたと訝しげに訊ねた。


「駄目じゃな。私は」

「どうした」


 悔しいと発したクリューネの声は、掠れていた。


「もっと早くに私が気がついていれば、もっと多くの命が救えたはずじゃ」

「……」

「それが情けなくて、悔しくて……」

「そんなことねえよ」


 リュウヤが静かに低い声で言った。腕の力が増し、リュウヤとより密着することで、リュウヤの体温がクリューネの身体へ存分に伝わってくる。


「お前は自分の全力でみんなを守ろうとしたんだ。もしも、クリューネを詰る奴がいるなら、俺はそいつをぶん殴ってやる」

「……」


 嬉しくたのもしくて、返す言葉が見つからなかった。できる反応と言えば、リュウヤの胸元に顔を伏せるくらいだった。


「そうだよ。お姉ちゃん」


 傍でアイーシャの声がした。クリューネの手には小さな手の感触がある。いつの間にかアイーシャの手を握りしめていたと、初めて気がついた。

 

「お父さんの言い方はランボーだけど、お姉ちゃんは頑張ってた。一番頑張ったの、お姉ちゃんだもん」


 クリューネはうっすらと目を開けた。

 表情をくしゃくしゃにさせる、アイーシャの泣き顔がそこにあった。泣き声になりながらも励まそうとしてくれるアイーシャに感動して、ありがとうと言い掛けたが、何となくこれでは相応しくない気がして、言葉を飲み込んだ。


「……もう大丈夫じゃ。私を誰だと思っておる」

「神竜バハムートでしょ?」

「違うな。私はクリューネ・バルハムントじゃぞ。いつまでも、へこんでいられるか」


 小さく笑うと、アイーシャも笑い返してくる。見ろよとリュウヤが感慨深げな声がした。


「月がこんなに明るくて綺麗だと思ったのは、生まれて初めてだ」


 リュウヤの感想に釣られて、クリューネとアイーシャはゆっくりと目を転じた。

 ムルドゥバを覆った暗く重い雲は既に無く、クリューネの前には澄んだ夜の空に、敷き詰められたようにして満天の星々が美しい煌めきを放っていた。

 その中で一際大きく、燦然と強く輝く星がある。


「綺麗……」


 クリューネが思わず呟いた。

 夜空に浮かぶ満月の清浄な光が、リュウヤたちを祝福するように煌々と照らしていた。

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