胡蝶乱舞
リュウヤ・ラングは鎧衣紡から数十メートルに及ぶ光の羽根を羽ばたかせながら、虚空を疾駆していた。鎧衣紡から生じるエネルギー波が、叩きつけてくる冷たい雨も嵐も緩和させている。
おかげで、リュウヤはムルドゥバを覆う結界に集中することができた。
視線は一点、魔空艦“マルス”が突破を試みて生じた大きな窪みに向けられている。
マルスの魔法陣によって損傷を受けた“降魔血界”の結界は、自己修復を始めているが、他から流れ込んだ魔力同士が荒波のように激しく衝突し、魔力の流れが安定していない様はリュウヤの目にもありありと映っていた。
その向こう側で、奮戦するリンドブルムと、バハムートに抱えられたアイーシャの姿がある。
なぜ、あそこに娘がいるのかと強い衝撃がリュウヤを襲った。
――落ち着け。集中しろ。
心の動揺を押さえつけるように、リュウヤは結界を睨み据えたまま息を長く吐いた。そして、弥勒をつかむ手に力をこめると、鎧衣紡の勢いを更に加速させた。
「……来る」
リリシアは鎧衣紡の羽根からこぼれ落ちる麟粉の量と、勢いが増したのを見るとリュウヤが結界を破るつもりだと覚って、急いでマイクに叫んだ。
「シシバル、船を結界の窪みから離れさせて!リュウヤ様の邪魔になる!」
“リュウヤ・ラングが来てるのか?邪魔てどういうことだ”
「この結界を破るつもりよ!」
“いや、無茶だ。いくらなんでも……”
「いいから早く!リュウヤ様を信じなさい!」
リリシアの怒鳴り声は艦橋のスタッフまで届いたらしく、シシバルが応答する前に船は窪みから逸れていった。
リリシアの上を閃光が駆け抜けたのは、それと同時だった。鎧衣紡が空に鱗粉をキラキラと撒き散らしながら、勢いよく窪みの真上へと飛翔していった。分厚い雲を背にして停止すると、リュウヤは腰の“弥勒”に手を当てたまま身構えるように佇み、刮目したまま結界を見下ろしている。
リリシアがリュウヤを見上げながら見張台の縁に立つのを見て、兵士が怪訝な顔をした。
「リリシアさん、どうするつもりです」
「リュウヤ様を追います」
「へ?」
兵士が問い返す前に、地上からの猛烈な爆発音がマルスまで響き、兵士は意識が地上に向いてしまって尋ねるタイミングを失ってしまっていた。
「クリューネ……」
目に飛び込んできた光景に、リリシアは唇を噛みしめた。
地上ではバハムートがアーク・デーモンの猛火を背中に浴びたらしく、背から焦げた煙を発しながら、身体を丸めるようにしてうずくまっていた。
リンドブルムもベルゼバブに組みついているが、体格に圧倒されて動けないでいる。ムルドゥバ軍の魔装兵は、他のアーク・デーモンから逃れるのに精一杯で救援どころではなかった。
十もの獰猛な光を帯びた紅い瞳がバハムートを囲み、ジリジリと悪魔たちが迫っていく。
「リュウヤ様……早く」
早く。
早く。
危機を感じているのはリュウヤも同じであることなど、リリシアにもわかっていた。しかし、自分の力ではどうすることもできない焦りや祈りといった感情が、そのままリリシアの言葉となって表れた。
「リュウヤ様――――!!!」
リリシアは天を仰ぐように空にいるリュウヤに向かって叫ぶと、リリシアの声に呼応するようにして鎧衣紡の羽根が燦然と輝き始めた。“弥勒”を抜いたリュウヤの身体は一気に突撃を仕掛け、鎧衣紡の力で大気を切り裂いていく。その衝撃で、爆発したような轟音が空に轟いた。
霞に構え、ただ一点に気を据える。
乱れて流れ集まる魔力の奔流に、リュウヤの目はもっとも弱い箇所を捉えていた。
――岩ニ沁ミル清水ガ如ク。其ノ流レヲ穿ツ。
リュウヤは無意識のうちに、真伝流奥居合心得を口の中で呟いていた。
“……?”
既に意識が朦朧となっていたバハムートは暗闇の中へと意識が引きずり込まれそうになっていたが、近づく異様なエネルギーの気配に意識をとられ、わずかに踏みとどまることができた。
傍でアイーシャの呼ぶ声がした。
「……お姉ちゃん、お姉ちゃん」
“……怪我はないか。アイーシャ”
激痛で目の前が真っ暗になっていたバハムートだったが、アイーシャの声を聞いて不思議と癒されるような気持ちになっていた。気力を奮い立たせて、目を開けると、アイーシャの大きな瞳とぶつかった。
“神竜のくせに、不甲斐なくてすまんな”
アイーシャの無事がわかっただけでも、十分だと思った。
自分が倒れても、何とかアイーシャだけは。
「大丈夫だよ。お父さんが、お父さんがここに来たから」
“リュウヤが?”
「ほら、あそこ」
アイーシャが指差す天をバハムートが見上げると、修復を始める結界の向こう側に、七色の光を放つ蝶の羽根が映る。色は異なるが、新型の鎧衣の話は以前から聞いている。
あの魔法の鎧を扱えるのは、この世で一人。
わざわざ竜眼を使って確かめなくても、誰であるかは一目でわかった。
“だが、いくらリュウヤでも、ただの剣で突破など……”
「お父さんなら、できるよ」
剣を構えて猛進するリュウヤの姿に瞳を輝かせながら、アイーシャは明るく力強く言った。
「だって、私のお父さんだもの」
アイーシャの言葉と同時に、“弥勒”の切っ先が一筋の閃光となって結界に放たれた。
パキンと乾いた音が虚空に鳴った。
バハムートやムルドゥバ軍、生き残った人々だけでなく、悪魔たちも音に驚き、戦いを忘れたように空を見上げていた。一瞬、奇妙な静寂の間が起きた。
切っ先は魔力の奔流の間隙へと吸い込まれていく。貫かれた衝撃で、弥勒の周囲か生じた亀裂は蜘蛛の巣のように、瞬く間に広がっていった。
“なに……?”
リュウヤとは長い付き合いであるバハムートも、驚愕のあまり痛みを忘れて立ち上がった。
ホーリーブレスでも破れなかった、あの結界を。
“バカな。あの結界を突き破るだと……”
「だから言ったじゃない。私のお父さんだって」
どこか得意気なアイーシャに対し、息を呑むバハムートの前で、“降魔血界”の結界が薄氷のように呆気なく砕けて散った。光塵に紛れてリュウヤが落下してくる。リュウヤは空中で身を捻って体勢を立て直すと、鎧衣紡のエネルギーを解放させてベルゼバブへと突進した。
「……汚ねえ化物が、ウロチョロしてんじゃねえ」
肩に弥勒の刃を水平に乗せて迫るリュウヤに、ベルゼバブはリンドブルムを放り捨てて咆哮した。
知性は無くとも闘争本能の塊である化物だけに、その反応は素早かったが、リュウヤの動きはそれ以上だった。
“消えた……?”
リンドブルムの視界からリュウヤが忽然と消え、光の残滓が映っていた。おそらくベルゼバブも同様の思いを抱いたに違いない。動きに一瞬、戸惑いが生じていた。
リュウヤはその一瞬で、ベルゼバブの首元まで詰めていた。
敵を凝視したまま、リュウヤはベルゼバブの首元に全神経を向けている。身体は燃えるように熱いのに、心は氷のように冷たく、清流のように澄んでいた。
幾度かの激戦で、何度か経験したこの感覚。
心気を極限まで練り上げた一刀を、リュウヤはベルゼバブの首元に向けて振り抜いた。
ヒュッと軽い音が耳に鳴った。
刃が風を斬ったのか、リュウヤの無声の気合かリュウヤ自身にもわからなかったが、とにかく鳴った。リュウヤはベルゼバブの横を駆け抜けると、そのまま倒れ伏すリンドブルムの傍に着地した。
――やれた。
手応えを感じた右手を一瞥し、リュウヤが残心をしめして振り向くと、ベルゼバブの身体は硬直したまま佇立していた。
やがて、ベルゼバブはぎこちない足取りでゆっくりとリュウヤに身体を向けたのだが、急にガクンと蝿の頭部が不自然な形で一段下がると、重量感のある音を立ててベルゼバブの頭部が地面に落下すると、残った身体は砂山が崩れ落ちるように膝から倒れていった。
――あの時より手応えあったな。
リュウヤは数年ほど前のムルドゥバで、“デッドマン”と呼ばれる巨人を倒した時の感覚と比較していた。
狙いも同じ首。当時はまだ紅竜ヴァルタスの力があった。
しかし、その手応えは当時と全く異なっていることに、リュウヤ自身が驚いていた。“デッドマン”を倒した当時の一刀は、まだ力任せだったのだとリュウヤは感じていた。
人の身体でも、ここまでやれる。
そして、もっといける。
“……リュウヤ・ラングさん?”
背後から、リンドブルムの声がした。リュウヤが振り返ると、血だらけの青い竜が、目を丸くしてリュウヤを見つめていた。
「ティア君……だよな。大丈夫か?」
“え、ええ、まあ……”
凄まじい剣技を見せた者とは思えない穏やかな声に戸惑い、リンドブルムは言葉に詰まってろくに返せないでいた。次いでリュウヤは呆然と佇むバハムートと、破顔するアイーシャに視線を向けた。
リュウヤが振り向いたのを見て、バハムートを取り囲んでいたアーク・デーモンたちは弾かれたように飛びさがっていった。リュウヤは素早くアーク・デーモンとの間合いを測ると、ようとバハムートとアイーシャに大声で呼び掛けた。
「待たせたな二人とも。それにしても、アイーシャがここにいるからビックリしたぞ」
「私、お姉ちゃんたちの力になりたくて」
「力を操れるようになったのか」
「少しだけ。……駄目だった?」
「いや、いいさ。お姉ちゃんたちを手伝ってくれてありがとな」
アイーシャの力を知ればアルド将軍が黙って見過ごすはずがない。だが、今はそれについて叱っている場合ではない。
あんなに小さな子どもが、身を挺してまで戦ってくれたのだ。労い報わなければ。
一方、アーク・デーモン側は主が一撃で倒されたことで、混乱の極みにあった。元々が単体個々で動いているだけだが、それでも充分な動揺を与えたらしい。甲高い奇声をあげながら、ぎゃあぎゃあと騒いでいる。
そのうちの一匹の頭上に、小さな魔法陣がのし掛かると、アーク・デーモンの頭部が身体の中にめり込んでいった。膨大なエネルギーが発生し、巨大な砂柱が屹立すると衝撃の波が周囲のアーク・デーモンをなぎ倒していった。
“な、なんだ?”
突然の事態にリンドブルムが喚いたが、傍らのリュウヤはじっと立ち込める砂塵を眺めている。それでも多少の驚きのがあったらしく、「あの高さから飛び降りてきたのかよ」と呆れたように呟くのが聞こえた。
もうもうと立ち込める砂塵に、小柄な女の影が映っていた。リュウヤは影に声を掛けた。
「お前、無茶するなあ」
「アーク・デーモンが、ちょうど緩衝材代わりになると思いましたので」
煙の中から小柄な女――リリシア――が埃を払いながら現れた。魔空艦から飛び降りたにも関わらず、平然とした顔でいる。
リュウヤとリリシアがバハムートの傍まで近づくと、バハムートは安堵の表情を浮かべたが、すぐに固い顔に戻って呻くように声を発した。
“せっかく来てくれたのに悪いが、奴らは闇の住人。倒してもまた再生して戻ってくる。そのベルゼバブもアーク・デーモンもまた復活する”
「倒せないてことか」
「いえ、月光を浴びせれば、結界もアーク・デーモンどもも消失します」
バハムートの代わりにリリシアが答えると、リュウヤは突破してきたばかりの結界を見上げた。
突破したといってもリュウヤが空けた穴は、すっかり修復されてしまい、膜のようなものが空を覆ってしまっている。
「結界を破り、バハムートの力で、雲を散らすつもりでした」
そういうことかとリュウヤは空を見上げながら頷いた。
「クリューネ……いや、バハムート」
“なんだ”
「そろそろ、ケリをつける時だな」
“だが、リュウヤが空けた穴はせいぜい数人程度の広さ。突破するには、この神竜が一気に突き破らないと”
リュウヤに結界に損傷を与えてもらっても、修復されて弾かれてしまう。仕掛けるなら、バハムートが一気に突破しなければならない。
「やれるさ、お前なら」
事も無げに言うリュウヤが無責任に思えて腹立たしく、バハムートは幾分反発する気持ちが湧いていた。
お前とは違うと、バハムートはリュウヤを睨んだが、見返してくるリュウヤの瞳の眩しさに思わずのけぞった。
「人間の俺でもやれたんだ。神竜のお前ならできる」
強い眼差しを向けてくるリュウヤの瞳は、「お父さんならできる」と言った時のアイーシャとそっくりだと思った。