リュウヤ・ラング対ルシフィ再び
『……良い匂い。殺意が渦巻き、戦場独特の香りがするわねえ』
絨毯のように広がる分厚い雲を下にして、一隻の魔空艦が空を航行していた。魔空艦といっても、魔王軍が所有しているイモムシのような型とは異なり、船舶のような形をしている。初期に建造された旧型の魔空艦だった。
その甲板上の艦首側に女が豪奢な椅子に座り、匂いがするという魔空艦の前方を陶然と眺めている。
女といってもかなりの小柄で黒地に紅模様の装飾が施されたドレスを着ている。知らない者が見れば、長い銀髪の彼女を少女と見間違える人もいるかもしれない。
彼女の周りには従者が控えている。屈強な男二人で、それぞれ黒と青の士官服に身をつつんでおり、他には顔体格が瓜二つなローブ姿の姉妹が、女の後でひざまずいている。
『ゼノキアまでどれくらいかかるのかしら?』
女は手にした日傘を正面に向けながら言った。黒の士官服の男が立ち上がっていった。
『あと、数十分は掛かるかと。エリシュナ様』
『まだ数十分か。新型の魔空艦なら、既に到着していたろうに』
『仕方ありません。“深淵の森”は魔族の故郷。質実剛健たる気風を失わぬように文明をもたらさないとは魔王様のお言葉ですから』
『ま、そんな辺境の森にも魔空艦が配備されるようになったのだから、これも時代だわねえ』
エリシュナと呼ばれた女は小気味良さそうにほっほと笑ってみせた。
『……それにしても、相変わらず』
エリシュナは目を細めると、日傘を手にとって自分の小さな手のひらをぽんと叩いた。殺気うずまくゼノキアに、台風の目のようにぽっかりと穴が空いて澄んでいる箇所がある。それはあいつに違いない。
『ルシフィだけは良い子ちゃんぶる。相変わらず、面白くない子だわね』
※ ※ ※
華奢な身体からは想像もつかない力がリュウヤを押してくる。力というよりも上手く力をいなされ、リュウヤの力が抑え込まれているといった方が近いのかもしれない。
『こんなの悲し過ぎます。こんな……、こんなやり方』
「ごちゃごちゃうるせえな。てめえらに言われる筋合いはねえよ」
リュウヤはせせら笑ってみせたが、ルシフィをどうしても力で押し込めず、内心焦っていた。ルシフィ自身に大した力はない。外見通りの膂力しかない。だが、力の使い方やいなし方が異常なレベルにあった。
――このままじゃラチがあかない。
狭い魔空艦の上である。横にも捌けず、ルシフィから逃れるには真っ直ぐ下がるしかないが、そうなればルシフィの追撃を受けやすくなる。リュウヤは不利になるのを覚悟で鎧衣を使い、艦橋の真上まで一気にさがって逃れた。しかし、ルシフィは追っては来ず、目を伏せたまま静かに佇んだままでいる。
「どうした。追ってこないのか」
『来る途中、マルキネスさんの遺体と、リディアさんにに介抱されるネプラス将軍の姿が見えました。無惨な姿で倒れている兵士や破壊された宮殿も……』
「それが闘いてもんだろう。何を言ってやがる」
『そうですよ。そうですけど!』
顔をあげたルシフィの両目から一筋の涙が光って流れ落ちた。風に乗って、キラキラと星のように輝きながら、涙の滴は散っていった。
『僕はリュウヤさんたちとは……、闘いたくない』
「そりゃ、ありがたいな。できれば俺も闘いたくない。セリナとアイーシャが戻れば済む」
ルシフィ自身、くだらないことを口にしていると思っている。しかし、胸の内にわいてくるどうしようもなくやるせない感情が、そのまま言葉や涙となって溢れでてくるのをルシフィは止められないでいた。
リュウヤはそんなルシフィを見据えたまま、脇構えに構えて、慎重に足を前に運んでいく。正面のルシフィばかりに気を取られていると、背後からの突風に煽られてバランスを崩しかねない。いつもより爪先に力がこもっていた。
「だが、そうはいかないんだろ」
『それが、魔族の王子として僕の役目ですから……』
「なら、くだらねえことをヌカすんじゃねえよ!」
先に仕掛けたのは、吼えたリュウヤからだった。
ルシフィに突進し、見張り台を踏み台にして跳躍すると、鎧衣を発動させて一気に加速した。鎧衣の推進力に追い風の力が加わって、脇構えからの袈裟懸けに繰り出した斬撃には勢いがあった。ルシフィは杖で弾いたものの、リュウヤは踏みとどまって、次の攻撃を仕掛けてきた。リュウヤの勢いにルシフィも後退せざるをえず、十二詩編協奏曲で空まで逃れたが、リュウヤも鎧衣で追撃し休む間を与えない。
『くっ……』
しかし、毛ほどに生じたわずかな隙を突き、ルシフィが杖を逆手にして反撃すると、そこからは互角打ち合いとなっていた。
一合一雷、激火放縦。水晶の刃と神木の杖が交わる度に、生じた波動が大気を鳴らした。背に生やす蝶の羽根と天使の翼から、それぞれ光の粒子を空に撒き散らす。
眼下の魔空艦はこの隙に戦闘から逃れようと何度も旋回するが、リュウヤが離さず船の行く手を遮る。
猛獣と猛獣が互いの牙や爪で斬り裂き、咬み砕こうとする凄まじい闘いぶりに、見る者はいつしか魅入ってしまっていた。
『ルシフィ様は、あんなに強い方だったのか』
兵士のひとりから感嘆して呟く声がクリューネの耳に届いた。
その兵士のように、噂では聞いていても、ルシフィの闘う姿を初めて見る者も多かったに違いない。地上の誰もが自分たちの闘いを忘れて、ルシフィとリュウヤの闘いに固唾を呑んで見守っていた。
『えいっ!』
ひどく頼りない気合とは裏腹に、鉄の柱が唸って迫るようなルシフィの攻撃をリュウヤは寸前にかわして魔空艦まで着地した。何故か鎧衣を解除したのを不審に思ったが、魔空艦を背にしたことで、ルシフィは魔法で追撃を断念しなければならなかった。
――やっぱり、全然違うな。
ルシフィはバルハムントで闘った時を思い出している。あの時、ルシフィが一度勝ったとはいえ、リュウヤは素手だったのだ。それでもキックボクシングをベースにしたリュウヤは難敵で苦戦を強いられたものだが、剣を手にしたリュウヤは技の精緻を極め、気の休まる暇を与えない。まるで別人のようだった。
『やっぱり、リュウヤさんは強い』
ルシフィも魔空艦に降り立つと、正面突きの構えに直してリュウヤと向き合った。華奢な身体だが堂々とした威圧感があり、背中に生える十二枚の翼が押し包んでくるような感覚に襲われている。
落ち着け、と深く息をつき、リュウヤは正眼に構えてルシフィを注視した。強大な魔力に重厚な杖術。おまけに空中。鎧衣があるとはいえ、長期戦になれば不利だというリュウヤには自覚がある。だが、焦って仕掛ければルシフィに悟られ状況はますます不利になるだろう。
リュウヤは白鷺という運歩で、鳥の白鷺が足を運ぶような歩き方をしながら、慎重に間合いを詰めていった。ルシフィも合わせてにじり寄っていく。時間にしてみれば数分にも満たない時間だったが、ふたりには途方もなく長い対峙のように感じられた。
リュウヤがわずかに剣先を揺らしたその時、ルシフィが突然向かってきた。
――かかった。
リュウヤも前に走り、構えが八双に変化する。わざとつくった隙に焦れたルシフィが飛び込んできた。鋭く繰り出してくるルシフィの突きを受け流すと、自分の勢いに引きずられる形でルシフィの体勢が崩れた。リュウヤは身を転じ、踏み込んで袈裟から剣を振るった。
刃が一閃したあと、無数の羽根が眼前に散った。しかし、手応えもルシフィの姿もなく、見上げると既に上空に退避していた。
「鎧衣!」
リュウヤは叫ぶと。ルシフィはリュウヤの周りに漂うミスリル製のプレートに、蒼白い稲光が奔るのを見た。凄まじいエネルギーが蓄積され、それがリュウヤの刃に集まっていく。
『この力にこの距離……、まずい!』
――無事でいてくれよ。俺の身体。
身を締め付ける圧力に耐えながら、咆哮して剣を振りかぶった。
「だあありゃあああああーーー!!!」
――“天翔竜雷”。
リュウヤの衝撃波を目の当たりにし、魔王軍のある一兵士がそう表現したエネルギーの奔流。
ルナシウスの刃によって何十倍も増幅された高エネルギーは、蒼い巨大な炎が一匹の竜と化してルシフィへと向かっていった。クリューネの臥神翔鍛を遥かに凌駕するエネルギー波に、ルシフィの全身が粟立つのを感じた。
避けられない。
ルシフィが覚ったのと、次の行動をとったのは同時だった。
『十二詩編協奏曲……!』
ルシフィの翼は輝きを増し、十二枚の翼がルシフィの身体を覆っていった。炎の竜はルシフィを呑み込み、空へと駆け抜けていく。
「やった……?」
リリシアが声をあげる傍らで、クリューネは無言のまま“竜眼”を使って空を見上げていた。これで戦いに決着がつけばという期待と、一方で無事であって欲しいという複雑な想いが胸のうちに交錯している。
出来れば戦意を失う程度に無事であって欲しい、と都合の良い願望を抱いている自分に気がつき、邪念を振り払うように首を振った。
今は命をやり取りをしている闘いの最中なのだ。
――これでルシフィが倒れるなら仕方がない。だが、何ともないなら……。
見据える先で、リュウヤが放った炎の竜は雲を消失させ空へと消えていった。後には光の残滓と、熱波によって生じた水蒸気による霧が濃い煙のように漂っていた。それらもやがて消え去ると、クリューネやリリシアも、周りの兵士も驚愕してどよめきを起こした。
それを見て、やにわにクリューネはリリシアに振り向いて怒鳴った。
「リリシア、リュウヤを追うぞ!」
クリューネの身体が金色の光が覆う。みるみる内に肉体は変化し、神竜バハムートの姿になると、周りの兵士たちは夢から覚めたように騒然となった。一度は消えていた殺気が辺りに満ちた。
“少し予定より早いが、最後のジョーカーを切る。リュウヤを援護するぞ”
「う、うん……」
リリシアは急いでバハムートの背に飛び乗ると、群がる兵士をホーリーブレスで吹き飛ばすと、巨大な翼を扇いで飛翔した。
「化け物だな」
『失礼だよ。お互い様でしょ』
「んなことない。俺はこの世界に来たとき、闘えたのはオーク三匹までだったからな」
ルシフィの言葉にリュウヤが片頬を歪めると、ルシフィもクスリと笑った。
だが、それも一瞬のやり取りで、次には張りつめた空気が二人を支配し、笑みなどどこかに消えていた。
「だが、お前から殺気らしいものを相変わらず感じねえな」
『……』
「殺気もなくて命のやり取りなんてロクに出来ないはずだが、何がお前を闘いに向かわせる」
『わかりません』
ルシフィは静かに首を振った。
確かに生きるか死ぬかの攻防があったにも関わらず、ルシフィはリュウヤに敵意を抱けないでいる。
リュウヤだけではなかった。 ルシフィは翼を大きく羽ばたかせると、魔空艦の上へふわりと降りた。
ルシフィはリュウヤに敵意を抱けないでいる。リュウヤだけではなかった。これまで生きてきて、一時的に怒りはすることはあっても敵意といった感情まで抱いたことはない。マルキネスの死や破壊された王宮を目にして抱いた感情も、寂しさや悲しさといったものだった。
ルシフィにある種の感情が欠落していると言えば、そうかもしれなかった。
『僕は自分がやるべきことをやらなきゃと思うだけです』
「……わかったよ。それで充分だ」
不意に、リュウヤの後方で爆発音と獣の雄叫びが轟いた。ちらりと一瞥すると、護衛艦の一隻がバハムートと交戦を始めている。
「そろそろ決着か……」
瞬間、リュウヤの殺気が膨らみ、ルシフィが杖を握り直した次の瞬間、二人は同時に駆け出していた。
再び、激しい闘いが始まろうとしていた。