智之、脱力と目的。■2014/01/10 08:02
一昨日は、何もできずに過ぎていった。
昨日は、何もせずに終わった。
書きかけのレポート用紙は、すでに喚び出したのと逆の要領で消し飛ばした。あんなものはあっても意味がない。
時間を無為に過ごすことの贅沢さも、一日と経たずに退屈に変わる。草原に寝そべり、虚ろな瞳で空に浮遊する雲と島々を眺める。決して楽しくはない。しかし他に何をすれば良いのだろう。いや、全ては水泡に帰するというのに、何をする必要があるというのだ。今の智之の姿は、気力という気力を大地に吸い取られてしまった生ける屍だった。
胸の奥で、小さな棘が疼く。それは千里のこと。
ここからでも影が見える。今も千里は机に向かっている。……オレがいなくとも、一人でも。
寝返りをうち、うつ伏せとなる。草の青々とした匂いが鼻腔をくすぐる。だがこれも心が見せるまやかしの感覚なのだろうか。
人の気配を感じた気がしたが、そんなわけはないと振り払う。こんな自分のところに来る用事のある人間などいるはずがないのだから。
千里に明日も勉強を見てやるからな、と最後に約束したのは七日。そしてあの八日の勉強は中断。昨日は千里と顔すら合わせなかった。毎日でも教えてやると勝手に宣言したくせにこの体たらく。千里を裏切り、自分をも裏切った。
オレは約束も守れないダメな人間だ。無限の時間の中に溶け込んで消えてしまいたい。オレなんて――。
「智之さん」
「ち、千里!?」
智之は反射的に上体を起こした。どうして来たんだ、などと聞くよりも早く罪悪感の方が形を持つ。
「……ごめん」
太陽を背にした千里は不思議なくらいに穏やかな表情をしていた。
「怒ってなんかないから謝らないで。ただ、心配になって来ただけだから。大丈夫?」
おう、と喉の奥から搾り出す。あからさまに空元気だった。
「わたしもあんなこと言われてどうしたらいいか分からなくなったけど。でも勉強しかすることがないなら、やれるだけやらなきゃかなって思ってる」
その前向きな姿勢が羨ましくて、憧れにも等しい感情が湧いてくる。それと反比例して自己肯定の思いが急落していく。
自信が底をつく寸前だった。
「智之さんの心の整理がついて、それでももし良かったらだけど……またわたしに、勉強を教えてくれない、かな?」
「え……?」
聞き間違いか? 千里がオレにまた勉強を、って。
「じゃあ、わたしはこれで……」
頭を下げ、千里は今来た道を戻っていく。彼女の背中がどんどん小さくなっていくのを、智之は呆然としながら眺めるしかできなかった。
大きな溜め息を一つ吐き、もう一度草を枕に敷く。
千里は一昨日も昨日も、自分を待ってくれていた。そしてこれからも待ってくれると言う。智之の心の中では自分が誰かに必要とされているという安心感が膨れ上がっていく。
だけどダメ人間のオレは、努力家の千里には釣り合わない。期待を裏切った申し訳なさと、不甲斐ない自分に対する怒りが混ざり合い、羞恥心へと変わる。こんなオレには千里に合わせる顔がない……。
狭間にいる限りまた千里と対面することになるだろう。だったらここから還って、完全に関係を断ち切ってしまおう。
すると、智之の身体が淡く輝き出した。両の手の平をかざして驚く智之だったが、周囲を光で囲まれはじめるとようやくその意味を理解した。智之の『還りたい』気持ちが女神に通じてしまったのだ。
途端に恐怖が込み上げる。やはりまだ還りたくはない。女神よ、迎えには来ないでくれ。焦ってそう祈ると、急速に光は収まっていった。
狭間には、残りたい意志があればどれだけでも残ることができる。彰太はそう言っていた。残りたい意志が弱まると、こうして迎えが来てしまう。多分このままだと、また気持ちが還る方へと揺らいでしまうそうだ。
残りたいならば新たに見つけ出さなければいけない。レポートをする意味を失ったオレが、それでも狭間に残る理由を。




