覚、詰将棋と覚悟。■2014/01/07 23:05
……おれは遅咲きだったんだ。
覚は唇を噛み、そして飛車を裏返して逃げ場を失った哀れな敵玉の真隣に指した。これで詰みだ。
しかし対面には誰もいない。代わりに覚の左手には某九段の執筆した詰将棋の本がある。詰将棋とは、与えられた勝利目前の盤面から正しい手順と決められた手数で想像上の敵を負かす、将棋パズルである。初心者ならば三手詰でも戸惑うところを、覚が正答してみせたのはプロ棋士でさえも長時間頭を捻らねば解けない難問である十九手詰だった。
狭間に来た七年前では解けなかった、と成長した自分の実力を振り返る。だが、それでは遅い。この高みに辿り着くのに七年掛かるのでは。
幼少の頃から天才とか神童とかと呼ばれた者たちが全国から集まってしのぎを削り、プロ棋士になれるのは二割だけ――それが将棋の世界。覚にも周囲からちやほやされた記憶はある。おれはプロ棋士になる、と言って譲らずに奨励会に入会し、そしてずるずると年齢制限を迎えるに至った。おれではダメなのか。最後のリーグ戦を目前にしてノイローゼに陥った覚は、謎の声に誘われて異世界へと飛んだ。
心機一転、それから修練を積み重ねた覚が現実に戻ろうと考えたのは、狭間に来てから四年が経過した頃だった。いざ、と覚悟を固める間際になって、心に一抹の不安が過ぎった。その真偽を先生に問いかけると、予感は悪い方向に的中してしまったのだった。その残酷な『狭間の事実』を突きつけられた覚の決意と自信は中途から折れた。以来覚は『事実』に立ち向かえるくらいの自信をつけようと、更に己の腕に磨きを掛けた。
一昨日の対局で先生にも言われた。分かっている、今のおれならばきっと昇段できると。しかし、当時の自分にそれに足る実力がないことも自覚している。
「……勝ち越し、か」
呆然としながら呟いたのは、三段リーグにおける特例のことだ。最後のリーグで規定数以上の白星を持っていた場合、最長で満二十九歳まで奨励会への在籍を許されるのだ。
このことは狭間で飽きるほど繰り返し考えてきた。覚にとっては天国から垂れる蜘蛛の糸のような存在だから。だが、特例が適応されるには二十六歳のリーグで一定数勝つことが前提条件になる。弱い者にはチャンスは回ってこない。
ここまで考えて、いつも思うのだ。『狭間の事実』の恨めしさ、この上なし、と。
将棋で言えば千日手。互いにずっと同じ手を指す以外に良い手が浮かばない状況は、対局者のどちらかが打開しなければ引き分け、次戦に持ち越しとなるルール。それは、ぐるぐると同じ思考を巡るだけの覚に似ていた。
自分と自分の対局は何度やっても同じ局面を迎える。狭間に残ろうとする自分は、『夢敗れたときの恐怖』と『狭間の事実』の二段攻め。現実へ戻ろうとする自分は、それを『夢を叶える希望』で受ける。現実へ戻りたい自分はいつも二択で迷う。『希望』の駒を動かして王将を守るか、持ち駒である『事実に打ち克つ勇気』の駒を打って攻勢に転じるか。後者が正解のようにも思えるが、結局攻めあぐねて捻り潰されてしまうような筋しか自分には読むことができない。『勇気』を活かす自信がなくて、結局守勢に回ってしまう。そして相手の自分の攻撃を続けて受けて、逃げて追って逃げて千日手。
心の中でそんな対局を『事実』を知ったときから続けているが、未だ終わらない。
光明が見え始めたのはつい最近だ。三年前に崩れ去った自信を取り戻しつつある覚は、『勇気』の駒を打って逆転勝利する道をもうすぐで見つけられそうに思うのだ。何手詰かは分からないが、きっと詰将棋のような解答が隠れているに違いない。それを見い出すには実力に裏打ちされた自信が必要だ。
後は決心するだけ。明日は先生との三日に一度の対局日。そこで自分自身に決着をつけられるだろうか。
覚は詰将棋で使った駒を箱に仕舞い、それ以上考えることをせず布団に潜った。