彰太、未来に惑う。■2014/01/05 16:36
「ふむ……流石は常世ならざる場所。これも神の思し召しか」
深刻げな表情の彰太とは対照的に、先生は笑みを作っていた。しかしそれは彰太を馬鹿にするためのものではないと彰太は分かっている。奇妙な巡り合わせの話を聞いて好奇心が疼いてしまっているのだ。
「して、本題は」
先生が続きを促す。
「俺は」一瞬躊躇い、「ここに残るべきでしょうか」
すると先生は今度こそ彰太を虚仮にするように鼻を鳴らした。
「誰しもいつかは還ることになる。それをいつにするかは、彰太の自由だ」
「そんなことを聞いているのでは」
ない、と言いかけて、先生の顔がいつの間にか真剣味を帯びていることに気付かされて口を噤む。迫力と言い換えてもいい。先生から発せられるそれは、まさに長い時を生きてきた者のみが持つ厳かな空気そのものだった。
「分かるよ。彼女への想いを思い出したのだろう」
「……はい」
彰太は観念したかのように、ポツリポツリと心情を語りだした。
「俺がここで二十年間過ごしてきたのはなんだったんだろうなって、思ってしまったんです。狭間に来たとき、俺はそれでもあいつが――真希が好きでした。断言できます。あのときも」
「晴美の一件、か」
「はい。でもそれから狭間の案内役をすることに本気になり始めた俺は、晴美ちゃんのように当初の目的を忘れて、ひたすらここでいい人ぶって、でもそんな生活も良いなと思ってしまって。こんな俺では真希に合わせる顔がないとふと思ってしまった日から、彼女のことを考えるのをやめました」
「今に至って、そして」
頷き、息を吐く彰太。対する先生は無意識に髭を弄りながら、彰太を見据えた。
「何、ここは焦りとは無縁の世界だ。今すぐに答えを出さなければいけない問題でもなかろう」
「確かにそうですが」
「還るにしても残るにしても、私は口出しせんよ。ただ、この期を逃すのならば私のように半永久的に狭間に居着くことを覚悟せい、と、確か十九年前の一件のときにも言ったはずだな。そしてお主は残ることを選んだ。きっとそのときお主は確固たる意志を持って決断したのだろう。今の話を聞いても明らかだ」
彰太は否定をしなかった。
「今更こんな気持ちになるだなんて、思ってもいませんでしたよ」
「だが、人間の気持ちほど不確かで揺ぎ易いものもない。だから別段可笑しな話ではないのだ。――過去に縛られず、今の己の気持ちに素直になれ。己に嘘をつくな」
先生の言葉を噛み締めるように一度目を瞑った彰太は、やがて頭を下げた。
「先生に相談して良かったです。もう一度、自分で考え直してみます」
「ああ、そうするといい」
彰太は御座から降りて靴に履き替え、再び礼をする。
「先生にはずっとお世話になりっぱなしで、感謝の言葉もありません」
「気にするな。ここで会ったのも何かの縁だ」
彰太は先生の返答をありがたく思いながら「では」と言って丘向こうの住居への帰り道を歩く。気付けば太陽は傾き、空は夕焼け色に染まっている。
俺は、現実に還りたいと思っているのか? 自問自答。答えはおそらく、是だ。だが、踏ん切りがつけられない。先生と話してようやくその具体的な理由が分かった。
自分のわがままで恋人である真希を捨てたこと――と言うと語弊があるが、狭間に逃げたことを考えれば遠からずだ――、その罪悪感。
そして約十九年し続けてきた案内の仕事、その感謝される充実感と自分勝手な責任感。
これまでは前者を後者で押し殺してきた。だが今日、また封印してきた気持ちの蓋が開いてしまったのだ。
彰太の心は真希を知っている。体感時間で二十年もの間顔を合わせていないにも関わらず、瞼を閉じれば彼女を近くに感じられた。いつか笑いかけてくれた顔も、風になびく髪も鮮明に思い出せる。電話越しに聞こえた震える声も、耳にこびりついて離れない。
だが、それらが不意に霞んでいく。朧げな像が人の形を取り戻した時、それは真希の姿をしていなかった。
彰太の気持ちが揺らいだ元凶。そして彰太の未来の行き着く所にいる、彼女の顔だった。