千里、勉学に励む。■2014/01/05 10:18
手始めに千里は近場の木陰に、問題集と机と筆記用具とその他諸々の、自室とほぼ同じ学習環境を再現してみた。周囲の景色は全く違うのに、道具だけは同じという不思議な感覚。慣れるまでは落ち着かないかもしれないと、少し心配にもなった。
別の木陰では智之が拠点を展開していた。両者の距離は百メートル弱、間に地形の目隠しがないため何をしているかはともかく姿くらいは視認できる。
二人はあの後、それぞれの居場所を確保してから千里の勉強を共にする、という話をつけた。智之が「毎日でも手伝うぞ」と申し出たときには遠慮して断ったが、智之は頑として引き下がらなかったのでとりあえず今日一日お願いする形で妥協したのだ。
千里が二人分の長机と椅子を準備した頃、彼がやって来る。
「んじゃあ、早速始めようか。何やんの?」
「まずは数学かな。さっきまでやってたから」
その途中で女神に呼ばれたことを忘れはしない。真っ先に喚び出したのもこの数学の問題集だ。
智之は机の上に広げられたその問題集を隣から覗き込んで、おっ、と声を上げた。
「それ知ってる。オレもやったなぁ」
「本当?」
「ここで嘘言うかよ。こいつは絶対マスターすべきだって」
問題集の間接的な評判はかねがね聞いてはいたが、大学生からの太鼓判を直接もらうとやはり安心できるものがある。それはなんとしてもこの問題集を自分の糧にしようという意欲の源になる。
「どこか難しかったところとかある?」
問われ、千里は迷わずページを開いた。あのどうしても解けなかった問題も、智之に手伝ってもらえるなら解ける気がする。
「これ、なんだけど」
すると智之は納得だと言わんばかりの顔をしてみせた。
「実はな、今までの基本を組み合わせてちょっと工夫すると解けるんだ。まあ、取っ掛りを掴むのが一番大変だったりするけど」
「そうだったんだ……」
「いいか、まずはな?」と智之の解説が進む。智之は千里に最小限のヒントを与えるだけに止め、なるべく自力で解かせるスタンスを取る。そして段階ごとに詳細な解説をしたり類題を提示し、スローペースを厭わずに確実に一つ一つの技術を身につけさせた。時間を気にする必要がないからこそできる手法だった。
ともすれば寄り道にも思えるほど本題から遠く離れた類題を出されても、千里は指示に従って筆を走らせ続けた。それが本題を理解するのに重要なファクターであることも教わっていたから。今までの復習と同時に更なるステップアップができていると肌で感じられた。
そうして過程を全てなぞり終えた千里が一人で本題に挑戦すると、家での悩みようが嘘のようにするすると答えを導き出すことに成功した。
「――できたっ!」
「千里、お疲れさん」
労いの言葉を掛けてくれた智之に、千里は心から礼を述べる。
「うん。ありがとう」
「よく頑張ったな、これでもう大丈夫だ」
事実、千里の胸は今自信に満ち溢れていた。過去のつまずきを克服した自分なら、もっと難しい問題にも挑めるような気さえした。
それにしても、と千里は思う。
「智之さん、勉強の教え方すごく上手で。まるで先生みたい」
「ま、これでも家庭教師のバイトしてるし」
胸を張った智之を見て、千里は笑わずにいられなかった。しっくりくるような、そのくせ違和感だらけのような、相反した感想がせめぎ合った結果だ。
「っておい、笑うのかよ?」
智之は冗談めかしてその態度を咎める。
「ごめんなさい」と謝るものの口角は上がったままで、智之はあえてそれには触れずに忠告をした。
「ところで。今日は疲れただろうから、これ以上の勉強はやめておけよ」
それは受験生に対して投げかける言葉としては不適切ではないだろうか。しかも意欲的に勉強ができそうな今言うものだから、出鼻を挫かれたような気分になった。
「どうして」
「気付いてねぇのか? こんなに長時間の勉強を強いたオレにも非はあるけどお前、絶対に疲れてる。いいから黙って休んどけ」
果たしてそうだろうか。疲労感はそれほどないのだが。しかし太陽が智之の背後に沈もうとしているのにようやく気がついて、自分が完全に時間の経過を忘れていたことに驚いた。狭間に来たのはここの時間で朝だったはずなのに、と千里は思い返す。
「……そうする」
どうせ時間は無限にあるのだ。だったら贅沢に休んでもバチは当たらないはず。
「よし、じゃあオレはあっちに帰るぜ」智之が家代わりの拠点を親指で指しながら言うも、続けてこんな質問をした。「明日も一緒に勉強すっか?」
「お願いしますっ」
即答に満足した智之は、変に作り物くさい笑みを見せた。多分彼は意識して笑いかけるのが苦手なのだろう。会話中は自然な笑顔だったはずだから。気持ちは伝わるから別にそれでも構わないとは思うが、なんだか面白い顔だなという印象を受けた。
それから智之は背中を向けて歩き出す。「またな」
「うん。また明日」
少しの間手を振り続け、それをやめてから千里はベッドを喚び出して腰掛けた。まだ高校生が寝るには早いし、眠くもない。夜と夕方の入り混じった空を見上げながら、今日一日を回想する。
狭間に来た。彰太から説明を受けた。智之に勉強を教えてもらった。以上。
改めて考えてみるとなんと行動数の少ない日だっただろう。そういえば食事も排泄も一切していない。付け加えると風呂に入りたいともあまり思っていない。生理的欲求を全く感じないのも狭間ゆえなのかもしれないと、千里は無理矢理自分に言い聞かせた。今日来たばかりの新参者には、狭間は謎が多すぎて理解が追いつかない。
とりあえず食べ物もトイレも風呂場も喚び出せることを目の前で確認して、一旦消去する。もしお腹が空いたときには食べればいいし、後の二つも壁を喚び出してしまえば心配することもないはず。
そんな戸惑いも多々ある反面、充実した一日だったとも思う。本格的に受験勉強を初めて以来、勉強を苦に思わなかった日もこうして束縛から解き放たれて安息できた日もほぼ存在しなかったのだから。特に新年が明けてからは試験本番まで秒読み段階であり、今年は正月だの三が日だのは千里の元に訪れなかった。父親に心配されるくらい、受験の重圧は計り知れないものだった。
狭間でいくら時間を使っても、現実の同じ時間に還ることができる。ここにいる限り、時間に追われることを恐れずに勉強ができる。そればかりか休んだって構わないんだ。いっそずっとダラけていようか。
「そんなのダメだ」
耳元で囁く悪魔を払うように、千里は首をブンブンと振った。そうして自分を甘やかし続けた結果、受験寸前に焦る羽目になったことを思い出す。きっとここで緊張の糸を緩めきってしまったら、もう二度と張り直せないような気がしたのだ。
適度に心身を回復させながらも、勉強は怠らない。その為に千里が追加で喚び出したのは、黄ばんだ半紙と赤丸付きカレンダーであった。これは千里自身への枷であり挑戦だ。現実でのタイムリミットをここでも刻み、二週間後までに試験で好成績を取るに足る実力をつけられるかどうかの。それができなければつまり二週間では時間が足りなかったということであり、狭間に感謝しなければならないということでもある。
ふと気付くと、手元さえも見づらいくらいに周囲は闇に覆われていた。唯一智之のいる場所だけは、ランタンのような明かりが灯っているのが分かる。昼間できなかった自分の課題を今こなしているのだろう。
しかし唯一の明かり、というのは地表のみの話に過ぎない。見上げれば満天の星が夜空じゅうに広がっていて、千里は思わず息を呑む。ただ、星の正体は恒星ではなく、狭間に浮かんでいる別の島々の底面部が太陽の光を反射しているだけ――要するに月のようなものなのだが。
仕組みをいちいち穿って考えて究明するよりは、与えられた通りに素直に受け取るのが良い。今夜は眠くなるまで空を眺めていようと、ベッドの上に仰向けになって考える千里だった。