先生、将棋と相談。■2014/01/05 10:10
迷うことなく真っ直ぐ打ち据えられた金将は、甲高く小気味良い音で詰みを宣言する。
渋い顔をした男は頻りに首を捻り、持ち駒や王将に手を伸ばそうとしては引っ込めて、やがて力なく項垂れた。
「……降参だ」
「ありがとうございました」
背筋を正し深々と礼をする覚。面を上げてもなおその目は真っ直ぐ将棋盤に向けられている。残心の姿勢は敬服すべきものだが、男は見習おうとまでは思わない。一時間強の対局で凝り固まった筋肉をほぐすため立ち上がり、軽く体操をする。それによる着物の乱れをさして気にすることもなく再び腰を下ろすも、正面の覚は未だに体勢を崩していない。
どれ、と男も今の一戦の反省をし始める。序盤から互いに堅牢な守りを築いたのだが、中盤の攻防に競り負け、持ち駒を織り交ぜた多段攻撃の前に男の王将は瞬く間に丸裸にされたのだった。完敗だった。対戦者がいかな棋士の卵と言えど、これほどまでとは。
「覚よ、お主やはり以前よりも格段に腕を上げたな」
悔しさを滲ませながら、覚の努力を褒め称える。
「そうでなくては困りますよ、これでも頑張っていますから」少し照れたように、しかし賞賛は素直に受け取る覚。「先生にも大変感謝しています」
狭間に来て七年の間、彼は一日たりとも将棋盤から離れたことがない。それもそのはず、覚の目的はプロ棋士になること、そしてその夢を叶えるために修行することだから。狭間で彼は、まるで水を得た魚のように将棋漬けの毎日を送った。もちろん現実でも同様ではあったが、時間に追われることのない狭間の方がプレッシャーも薄く、生き生きとできた。
〈先生〉と呼ばれたその男――古めかしい着物をまとって髷を結う、つり目の三十路の男――は未だ終局図を眺めつつ、覚に問うた。
「私が言うのもなんだが、お主は相当の強さではないか。それでも本職の棋士となるには足らんのか?」
先生自身の将棋の腕は、一般人の嗜みに毛が生えた程度でしかなかった。この七年間の覚との何百もの対局が先生の腕をも磨いたのは言うまでもないが、覚はそれ以上の伸びを見せた。それがどのくらいか、本人の談では、
「今の実力ならば、おそらくプロに届くと思います。ですが……」
現代において将棋のプロとは即ち、奨励会という養成機関内で実施されるリーグ戦で勝ち抜き、『四段』以上の段位を取得した者のことである。この奨励会には年齢制限があり、基本的に満二六歳の誕生日を迎えたときの三段リーグで昇段を決められなければ強制退会――プロ棋士への夢を断たれてしまうのだ。覚が狭間に来たのは、まさにこの年齢のときであった。今も外見だけはそのままだが、それは狭間の効果によるものだ。
七年の研鑽によって、覚は相応以上の腕と自信を身につけた。本人もしっかりと自覚している。なのに、彼の語尾から勢いを感じ取ることはできない。理由が分かっている先生は、これ以上の言及をすることをやめた。
「では先生、これで失礼させていただきます。また三日後、よろしくお願いします」
「ああ」
いそいそと駒を箱に戻し、盤を持ち抱えて退出する覚。退出とは言うものの、実際は御座から降りるだけである。
青空の下、均した地面に敷かれた大きめの御座が先生の住居を示す。ちゃぶ台は今は横に退けられているが、先生の背後に山積みされた古い書物は否応なく目を惹く。それは先生が時間を求める理由に繋がる大事な道具だ。
さて次はこいつを解くかと思い至って山から一冊の書を取り出すが、やがてその作業は停止する羽目になった。先生の視界に、別の男が入り込んだから。
「……彰太、何か用か?」
彰太のここまで苦しそうな表情を見るのは初めてではない。彰太が狭間に来て一年くらいの頃に一度見てはいるが、記憶にある限りそれ以来だろうか。
「先生。相談、いいですか?」
先生のいる場所へと力ない足取りで近寄りながら問う。これを断る理由を先生は持ち合わせていない。先程まで覚のいた場所に座布団を敷き直し、座るように促した。
腰を下ろしてからも彰太の目線は落ちたままだ。急かさず待つが、一向に口を開く気配はなかった。それでも先生は待ち続ける。言う決心のつかないことを無理に聞き出そうとは、先生は思わない。
時間を忘れるくらいの時間が経ち、それから彰太はおずおずと口を開いた。