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千里、狭間に至る。■2014/01/05 06:31

 ……い、……おき……。

 ……こえてるか? 起きてくれ。

 千里の肩がゆすられると同時に、耳には覚醒を促す声が飛び込んだ。

「う……」

 少しずつ頭の働きが蘇り、自分が勉強の途中にいつの間にか眠ってしまっていたのだと状況を判断する。

 早く起きて問題の続きを解かないと。ハッとして勢いよく上体を起こすと、そこに勉強机は存在しなかった。

 いやそれ以前に。問題集も黄ばんだ半紙も見当たらないし、それどころかそこは千里の部屋ですらなく屋外であった。明け方らしく、太陽が正面からほんの少しだけ顔を出している。

「……ここは?」

「起きたっ」

 視界の外からした声に反応して振り返ると若い男性が二人、千里のことを見ていた。二人とも千里よりも少し年上のようだ。

 おっかなびっくりといった表情をしながら、おそらく千里を起こした人物であろう青年――大学生くらいだろうか、くせっ毛の強い、現代風の若者だ――が口を開く。

「あ、悪ぃ、驚かせて」

 驚かされた度合いは青年に対してよりも、この周囲の状況についての方が大きいのだけれど、と正直なところを言うわけにもいかずに一旦出かかった言葉を飲み込む。

「いえ、別に」それから疑問をぶつけた。「あの。ここはどこですか? わたし、家にいたはずなのに」

 青年が問に答えられないことは言われるまでもなく分かった。なぜならば申し訳なさそうに眉を下げ、頭を掻いていたから。

「オレもよく分かってねぇんだ。オレもさっき目が覚めたばっかでさ」

「――それについては、俺から説明しよう」

 すると、もう一人の男性が割り込んで来た。二十代だとは思う顔つきだがもっと年上にも見える、穏やかな笑顔が印象的な青年だった。初対面なのにどこか安心感がする、そんな雰囲気を持っている。

 が、青年は千里と顔を合わせるなり突然笑顔が崩れて、信じられないものに出くわしたかのような表情になった。千里は俄かに焦りを感じる。

「え、え、どうかしましたか?」

「……ちょっと思い出したことがあってね」一呼吸おいて、彼は言葉を続ける。「君の名前を聞いてもいいかい?」

 一瞬、答えてもいいものか戸惑ってしまう。しかし目の前の二人が悪い人間とは思えなかったので、名乗ることにした。

「小此木千里です」

「小此木……!」

「おこのぎ、ちさと?」

 目を丸くして名を反芻したのは、一人だけではなかった。確かにありふれた苗字ではないだろうけど、と千里は青年たちの反応に疑問を抱いた。

 何かを言いたそうにした大学生風の男を手で制し、年上の男は取り繕うように初めのような笑顔をしてみせる。

「いきなり色々ごめん、戸惑わせてしまったね。俺はここに来た人たちの案内をしている者だ」

「案内、ですか」

 遊園地でもあるまいにと感じたのは、案内人を名乗る彼がまさに遊園地の従業員のような笑顔をしているからだろうか。

「ここは時の狭間。女神が作り出した、現実の時間の流れから切り離された空間」

「女神ってのはほら、『時間が欲しいですか?』とか聞いてきた声のことらしいんだけど」

 千里の脳裏に、勉強中に突然響いた謎の声が蘇る。確かに、そう言っていた。でもそれが女神さま? ここが現実じゃない? 二人の説明があまりに超現実的すぎて、千里には理解不能だった。しかし、嘘を言っているようにも思えない。

「狭間に来る者は皆、それぞれ違った理由ではあるものの、同じ願いを――『時間が欲しい』という願いを持っている」

「で、この狭間なら時間を気にせずに目的に打ち込める、と。ここまではさっき聞いたけど」

 大学生風は後半部分を案内人に向かって言った。台詞から察するにおそらく、この人もこの場所に着いてからほとんど時間が経っていなかったのだろう。そして案内人が説明をしている間にまた来訪者があった。そう千里は関係を推測する。

 話を振られた案内人は、咳払いをして説明を継ぐ。

「詳しい理屈は省かせてもらうが、狭間では各々の目的を達成するために好きなだけ時間を使うことができる。何時間でも、何日でも、何年でも」

「でも、何年もなんていられません。二週間後にはセンター試験なのに」

「なあキミ、もしかして大学受験生?」

 と問うた大学生風に対して千里は頷き返す。「勉強の時間が足りなくて、どうしようって。そしたら……」

「なるほどね。オレの理由とちょっと似てるかも」

「えっと……あなたは?」

 このときまで彼らは、千里に対して自己紹介がまだだったことをすっかり失念していたらしい。

「オレは篠田智之。大学三年なんだけど進級が怪しくって、どうしても課題を出さなきゃならねぇんだ」

「そうなんですか。よろしくお願いします、智之さん」

「こちらこそよろしく、千里」

 年もさほど離れておらず、互いの境遇も似通った二人は握手を交わす。

 それを見た案内人も、少し思慮した後におずおずと口を開いた。まるで言ってはいけないことを言わないように、一言一言を脳内で何度も反芻しているかのように。

「俺のことは、彰太と、呼んでくれ。案内役というのは、あくまでも副業みたいなものだ。俺も、昔に、狭間に来た普通の人間だ」

 彰太の言葉にいくつか気になる点を感じた千里であったが、

「てっきり本当にここの係員さんかと思ってました……」

 と条件反射的に返事をしているうちに、他の聞きたかったことはすっかり頭から抜け落ちてしまったのであった。

 千里の呟きを受けて彰太は、遠い目をする。「まあ、狭間に来てから長いから、な」

 そのとき、千里と智之の後方で草を踏みしめる音がした。

 この『時の狭間』という場所は仰々しい名前に似つかわしくなく、草に覆われた土の地面というごく普通の草原の様相を成している。ある程度の起伏があり真っ平らではない大地に樹木が点在し、時折風が吹き気温も温暖。ピクニックにでも来たのではないかと思わされるほどのどかな雰囲気。見上げれば太陽もある、青空もある。ただしそこには、数多の浮島――遠近方位どれも様々なおおよそ逆円錐形の土の塊――が、重力や常識を無視して浮遊するのだ。つまりこの地面も、それらの浮島の一つに過ぎないのだろうという漠然とした推測を、新入りの二人も立てることができた。だが、例え他の浮島に同様に人がいようとも、宇宙に浮かぶ星々の如く意思疎通はおろか観察さえもままならないほどの距離の隔たりがあるのだった。

 何者かの足音に千里と智之が身を竦めるも、対照的に彰太は安堵の表情で音の主を確認する。小さな丘の向こうから姿を見せたのは彰太より少し上の年齢に思われる、和服を着た男。

「覚さん」

 と彰太が手を振りながら声を掛ける。木のブロックのような分厚い天板の机を抱えていた覚は、彰太の周りにいる二人の姿を認めて尋ねた。

「やあ、彰太くん。また案内かい?」

「そう。こちら智之くんと、千里さん」

「よろしく。剣持覚です」

 挨拶にたどたどしい会釈で返す二人。何故着物を着ているのか、その机はなんだ、という疑問ばかりが頭を占めていて、まともな返答ができなかったのだ。

 それら二つの疑問は、彰太と覚との会話の中で解決されることになる。

「今日も先生の所へ将棋を指しに?」

「まあね。先生も忙しいだろうけど、相手をしてもらえて本当に助かってるよ」

「わざわざ重たい将棋盤を運ぶのは大変だろうに。しかも和服とは、気合が入っているな」

「おれのこだわりさ。……和服はね、身が引き締まるよ。それにちょっとしたプロ棋士気分だ」

「なるほど。邪魔して悪かったな」

 頷き、覚は足を再び動かして、三人の視界から消えていく。それを見送ってから、彰太は話を続ける。

「彼もそう、プロ棋士になるという夢を持って狭間に来たんだ。七年前になる」

「七年!?」

「そんなに……」

 新入り二人は驚愕した。千里は受験のみを見据えて七年もの歳月を費やす者は聞いたこともなく、ましてや進級が危ぶまれるからだなんていう理由で時間を欲した自分を智之は恥ずかしく思った。

「狭間にまだいたいという意志を持つ限り、狭間にはどれだけでもいられるんだ。覚さんの向上心は、俺も見習いたいと思っている」

 プロ棋士になるということが、具体的にどのくらい難しいことなのかを千里は知らない。が、それが相当なものだということは想像に難くないし、努力はもとより生まれ持った才能も必要だとも分かる。勉強さえし続ければ合格できる大学とは違うのだ。そんな強い意志を、自分も持てるだろうか。千里は思った。

「そう言えば」智之が両手をぶらぶらさせながら疑問を口走る。それは千里も共感できる内容だった。「さっきの、覚さんは将棋盤を持ってたけどさ。オレら今、資料も教科書も、シャーペンすらないんだけど」

 間髪入れずに、彰太は回答した。

「心配しなくていい。狭間では君たちの心の中に一瞬でも刻まれたことのあるものなら何でも、目の前に喚び出すことができる。例え本の一字一句全てを記憶していなくとも心には残っている、人間とはそういうものなんだ。シャーペンでも資料でも、ここでは摂る必要はないけれど料理も」

 さらに、喚び出したものは他人と共有することもできる、と彰太は将棋盤を例に出して付け加えた。彰太が右手を地面にかざすと、いつの間にやら新品らしきノートとペンが出現した。二人はそれらを矯めつ眇めつ観察したり実際にペンを走らせてみて、彰太の言葉を偽りではないと判断した。

「すげぇんだな、狭間って……」

 智之同様感心している千里だったが、ふと先程聞きそびれた重要なことを思い出して問うた。

「――彰太さん。ここでは時間が無限に使えると言っていましたけど、どういうことかもうちょっと詳しく教えてもらえませんか? わたしにはもう一ヶ月の時間さえもないんです」

 彰太は説明が不十分だったことを反省し、伝えた。

「狭間と現実は同じ時間が流れている。だけど、例えここでどれだけの期間を過ごそうとも、現実に帰還するときにはその人が狭間に来た時間へと戻ることになる。要するに、狭間での生活は、夢みたいなものなんだ」

「へぇ……」

 浮島のこと、喚び出しのこと、そしてこのことは、ここが本当に人智を超えた空間であることを千里と智之に痛感させた。何も不自由する要素のない場所が存在するなんて、想像だにしていなかったのに。まさに天国。今ばかりは二人とも舞い上がらんばかりに高揚した気分だった。

「これで説明は終わりだ。何かあったら、また俺に聞いてくれ」

 そう言って、彰太は踵を返す。去っていく背中が見えなくなる寸前に、千里が声を張り上げた。

「ありがとうございました! 色々教えてくれて!」

 こちらを一瞥したようにも見えたが、確証を得る前に彼は地平の向こうへと消えてしまった。

 残された千里と智之は途端に何をしていいか分からなくなって、顔を見合わせる。勉強を、課題を進めるべきだとは理解しているが、何せ糸口が見いだせない。それに目の前には自分以外の人間がいるのに、勝手にいそいそと机に向かうのも決まりが悪い。

 そんな膠着状態を先に打ち破ったのは、千里の方だった。

「あの。智之さんは大学生、なんですよね?」

「お、おう」

 一息吸って、

「もし良かったらわたしの受験勉強、見てくれませんか? ――あ、時々でいいんです。課題の邪魔にならないときでいいので」

 実際は勉強なんて一人でするものだ、と思っている千里にとっては、その言葉はただ会話の取っ掛りが欲しいという程度の意味しか持っていなかった。建前の割合が多いことに引け目を感じつつ、不躾なお願いだったかなと心配になって、言葉の後半で反らした目を再び向けてみると、智之は少なくとも迷惑そうな表情はしていない。しかし、その返答は歯切れが悪かった。

「けどオレ、留年ギリギリで頭良くねぇよ?」

「でも受験に合格したことは確かじゃないですか。本番の受験がどんなものか、教えてくれるだけでもいいんです」

 頭を下げた。智之がもし千里と得意科目が違っていても、万が一本当に勉強のできない人だとしても、まず性格の悪い人ではないだろう。家族も友人もいない狭間で独りぼっちはご免だ。この人なら、きっと友人になってくれる。それだけでも一向に構わない。

 智之は嘆息し、それからはにかんだ。

「……そこまで言われちゃ断れねぇよな。できる限り、千里の力になるわ」

「本当ですか!?」

 パッと顔を輝かせた千里に対して、但し、と注意する。

「敬語はやめてくれねぇかな。オレ、言うのもだけど言われるのも苦手でさ、くすぐったくなる」

「え、えっと」

 予想外の注文だった。年上の男にタメ口を利くというのはちょっとどころではなく気が引けるのだが、他ならぬ本人が頼むのだから仕方ない。

 それでもなかなか言い出し辛い。深呼吸をして心を落ち着かせてから、告げる。

「――分かった。これからよろしく、智之さん」

「おうっ」

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