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千里、一月十九日。■2014/01/19 09:29

 千里は緊張した面持ちで、一月十八日の赤丸に斜線が引かれたカレンダーを見上げる。現実に於いて今日は、大学入試センター試験の二日目である。短かったような、それでいてようやくと感じるような。いずれにせよ千里が受験勉強を開始したとき、あるいは狭間に来て以来ずっと見据えてきた運命の日だ。もちろん現実とは別の時間が流れるここではセンター試験は存在しないが、千里にとって大きな節目の日であることには相違ない。

 手元にはセンター入試風問題用紙――智之が自身の記憶から古今東西の入試問題を喚び出して組み合わせた、特製の模試だ。教科は現実に即して理科である――がある。大丈夫、自分なら解ける。そう言い聞かせて、

「始めっ」

 ペンを握り締めた。

 ……当初は満足のいくまで何年でも勉強してから還ってやろうと思っていたのだが、狭間の事実はそんな甘い考えを見事に打ち砕いた。だとすると、一月十八十九両日はやはり重要な刻限である。狭間であれ現実であれ、一月十八日を迎えるまでに太陽の昇る回数は等しいのだから。ここまでに十分な得点を稼げるだけの実力を付けられねば、現実でも上手くいかないのは自明の理。

 千里は必死で勉強に取り組んだ。特に彰太が還った日からは最後の追い込みをし始めた。千里の目標とする学部が五科七科目受験を強いるので、ありったけの時間を全て勉強に費やした。それでも千里が挫けずにいられたのは、これも隣で見守っている智之が通った道であるから。負けられない、必ず合格してみせる――強い目標意識は皮肉にも時計の針を押し進めてしまう結果となり、いつの間にやら試験前日を迎えていた。

 流石に疲れ果てた千里は智之に休息を請い、快諾された。

『よく頑張ったよ。オレよりも長く勉強したお前なら大丈夫だ』

『でも、現実でも同じだけできるかどうか……』

『できる。一度できたことが二度できないわけがねぇだろ』

 そう言って親指を立てる智之に、千里は救われた。

 この日の午後、千里は以前の約束を思い出して智之に挑戦状を叩きつけた。

『智之さん、将棋しよう? 忘れたとは言わせないからね』

 智之が露骨にたじろぐのを見て悪戯っぽく笑った千里は、将棋盤を喚び出して正面に智之を着座させた。三十分後、結果はいつかの智之の宣言通りとなった。リベンジを二度申し込んだ智之だったが、勝敗は覆りはしなかった。

 楽しい。久々に胸にこみ上げてくる愉快な気持ちを懐かしく思いつつ、己の糧へと転換する。明日明後日が決戦の日であることは、変えようのない事実なのだから……。

「やめっ! これで全教科おしまいだ。お疲れさん」

 午後三時五十分。智之の声に千里はペンを置く。そして大きく息を吐き、背を仰け反らせて天を仰いだ。

「終わった……。あはは、終わったぁ……っ!」

 心に思ったことがそのまま声と表情に出てしまっているが、気にしない。手応えは上々というよりなく、憂いや悔しさは微塵も感じなかった。

 智之が解答用紙を回収し、アルバイトで培った素早い採点を行う。やがて前日の分と合わせた結果が、真一文字に結ばれた口から千里に知らされる。

「――おめっとさん、文句なしのA判定だ」

「本当、に?」

「嘘じゃねぇってば。確かめるか?」

 手渡された七枚の解答用紙には、どれもほぼ満開に近い花が咲いていた。喜びに打ち震える千里は、声にならない叫びを上げる。

「よくやったな。オレも嬉しいぜ」

「ありがとう智之さん、本当に、なんて言っていいか……!」

 智之を見上げる千里の頭に、労うように手が置かれる。

「今ので十分伝わってきたさ」続けて、「これだけできればもう何も怖くないな」

 目標としていた試験は終了した。結果にも満足している。つまり、

「……もう、還らなきゃかな」

 その言葉で、二人の間からふっと笑顔が消える。千里の時間を欲する目的は果たされた。考えたくはないが、そういうことに違いない。

 きっと、何らかの新たな目的を見つけて狭間に残ることは可能だろう。だがそれでは、ここで過ごした勉強の日々によって積み上げてきた自信が、意味を成さなくなってしまう。だから、還らなければいけない。区切りを付けるのに妥当な日はいつかと考えれば、今日しかない。

「でもさ千里。前に還るのが不安だとか言ってなかったっけ?」

「ううん、もう大丈夫」

 千里ははにかみ、今の本心を包み隠さず伝える。

「わたしの未来は、現実に還らなきゃ始められないんだもの。不安でも還らなきゃいけないし、それにその不安も智之さんのお蔭でなくなった。この模試もこんなに解けた。わたしなら大学に合格できるって自信、付けられたから」

 智之は感心したように目を見開き、もう見慣れたぎこちない笑顔を作る。

「そう、だな。違いねぇわ」

 面倒を見る相手がいなくなったら、智之も同じく還ることになる。智之の目的は、千里が還らないと果たされない。ある意味で二人は運命共同体であった。

 しばし互いを見つめ合い、二人の意志は一つに定まっていく。

「還ろう、千里」

 千里は首を縦に振りかけるが、

「あ、その前に」浮かれて忘れていたが、今この場で還るのはあまりに恩知らずではなかろうか。「先生に挨拶しなきゃ」

 ということで何度目かの二人並んでの訪問。先生は今日も今日とて机に向かって筆を走らせていた。誰かにとって特別な日であろうとも、別の誰かにとっては何の変哲もない日常の一部でしかなかったりする。

「あの、先生」

 声を掛けても、先生は反応してくれなかった。これまでこんなことはなかったので、少し違和感があった。普段よりも作業に夢中になっているのだろうか、と思って先行した千里が先生の手元を覗き込んでみると、

「それってわたしの教科書……?」

「――っ。何だ、突然に」

 一瞬、人の気配に全く気付いていなかった先生の素の表情が垣間見える。

 すると歩きで追いついてきた智之が、呆れながら言う。

「突然って先生、千里はちゃんと呼んでたぜ?」

「そうだったのか。これは失敬」

 頭を下げて詫びる先生に、千里は質問した。

「何をしていたんですか?」

 ちゃぶ台の上には千里の参考書と、無数の和紙があった。端に重ねられているものには、参考書上で見た覚えのある種々の図形や数式たちが記されていた。算用数字や未知数Xなどは千里たちにとっては当たり前の文字だが、和紙に筆と墨で書かれているのを見ると、どうにもちぐはぐな感じが否めない。

 先生は当たり前のように告げた。

「写本だ。あと僅かで終わるがな」

「うわ、面倒くせっ」

 思わず呟いた智之はぎょろりと睨まれ、縮こまってしまう。先生ははねつけるように鼻を鳴らす。

「お主らの時代では違うのだろうが、生憎と私にはこうする他ないのでな」

 だとしても何故写本なのだろう、本を取り返したりなんかするはずもないのに。と千里は初めは考えたが、すぐに先生の意図が分かった。

「わたしがもうすぐ還るって、知ってたんですか?」

「会話や雰囲気から、何となく察していた。だから早めに済ませておこうと思ったのだが、どうやら間に合ったようだな」

 狭間に喚び出した物品は誰もが共有し使えるものの、喚んだ主が帰還すると同時に消失してしまう特性を持つ。覚の将棋盤もそうだったと思い出す。故に先生は、千里が還った後でも読み返せるように参考書の中身を自分の紙に書き写していたのだった。

 紙を束ね、白紙を上に重ねて紐で縛り本の体裁を整える先生。何となく、その姿から寂寥感が滲み出ているような気がして、千里は気付く。

「わたしたちが還ると先生は……」

「一人きり、だな」

 あまりにしれっと言ってのけるので、逆に千里と智之の方が面食らってしまう。

「だが、やがて次の者がやって来る。いつの世も人間は時間を求めて止まないらしい」

「けどよ、これじゃ還りにくいな……」

 頭を掻いて困惑する智之に、先生は気遣いは無用だ、と言って、

「これまでにも幾度か経験しておる。それに考えてもみろ、私の目的を。誰にも邪魔されない一人の方が研究に集中できるのだぞ」

 わざとらしく憎まれ口を叩く。もちろん多少の本心は混じっているだろうが、二人に後ろ髪を引かせないための配慮であることはバレバレだった。

 これに甘んじないのは失礼に当たる。意を決し、千里は頷いた。

「それじゃあわたし、還ります。今まで、本当にお世話になりました」

「ああ。――良いか千里、今、心にある感情を決して忘れるな。そして己の信じた道を行け」

「はい!」

 力強く返事をすると、千里の視界に映る智之と先生の姿が白み始めた。帰還の意志に女神が反応して、光を降らせているのだ。まだ淡い光の中で自分の心を見つめ直す。

 永遠で、絶え間なく、けれど儚く消えてしまう、時の狭間はそういう場所だったけど。わたしはここで過ごした時間で、沢山の経験をした。色んな人と出会い、色んなことを考え、色んな努力をした。そしてわたしは思った。

 あの大学に入りたい。智之さんに会いたい。狭間で頑張ったわたしに感謝したい。だからわたしは、現実に残された二週間で精一杯勉強するんだ。

 心配はいらない。狭間と同じ以上に勉強すればきっと合格できるんだから。もし自信を失って勉強をやめてしまったら、折角の大丈夫が大丈夫でなくなってしまう。だからわたしは迷わずに、わたしの信じた道を行く。

『――貴方は、現実の世界へと還ることを望みますか?』

「はいっ!」

 声が夕暮れの空に吸い込まれると、呼応して光の明るさも増す。

『では還しましょう。あるべき世界へ――』

 もうすぐ狭間に関わる全ての事象は、千里の記憶から完全に消去されてしまう。

「千里っ!」

 智之が叫ぶのを、千里は聞く。まだ意識は残っているということに安堵して、告げる。

「……大学で待ってて。必ず合格してみせるから」

「そのときはお互い、四年生と一年生だ」

 智之の見慣れたクシャクシャの笑顔につられて、千里も微笑む。どちらも別れに悲しみを覚えはしなかった。必ず再会できると、信じているから。

「じゃあまたね、智之先輩っ」

「おう!」

 それを最後に、時の狭間から小此木千里の意識は消失した。

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