彰太、決意の帰還。■2014/01/14 21:19
『バカだなぁ、私。……どうしようもないくらい』
涙でクシャクシャになった顔には不釣り合いなほどの儚い笑みを浮かべて髪を翻し、制止の声も聞かず止める手をも振り払い、そして晴美は転落した。
あっという間に米粒のように小さくなり、闇に呑まれていく晴美を彰太は、ただただ彼女の名を叫びながら見ているしかできなかった。やがて天より降る一条の閃光が晴美を貫き、後には何も残らなかった。
十九年前のこのときの光景も感情も、恨めしいことについ一秒前の経験のように焼きついている。狭間の力が、記憶を何度でも再生してしまうから。
彰太を苦しめ続けているのは、何もこれだけではない。狭間に来る直前、受話器のスピーカーから届いた、
『何で? わたしが会いに行っちゃ、迷惑なのかな……?』
嗚咽混じりの悲痛な真希の声に対して彰太が反射的に返した、『会いたくないって言ってるだろう! お願いだから一人にしてくれ!』という言葉。
あのときはどうかしていたと自分でも分かる。頭に血が上って、深く考えることができなかったのだ。思い返せばなんと無慈悲な切り捨て方だろうか。すぐ後彰太に電話を切られた真希は、一体何を思っていただろう。愛想を尽かされてしまって当然だが、もしそうでなければ己が行いを平伏叩頭詫びたい。
二つの出来事のための後悔とジレンマと懺悔の気持ちはこの二十年間、ひと時たりとも絶えることがなかった。
とはいえ、別の感情で薄めることはできた。それが案内役として、他人から感謝を受け取ること。自分が世話した人間が満ち足りて還っていくことで自分の存在を認めてもらえるという、快感にも近い充実感を得られるのだ。最後は後味の悪くなってしまった覚との別れも、『ありがとう』の一言で彰太の心は安らいだのだった。
結局は頼られたいという自己満足を満たすための行為。常に真希に頼られていた彰太が狭間でその支えを失った結果、困っている他人を助ければ同じ気持ちが得られると考え出したのは自然なことだ。
そして晴美も、彰太にとっては真希の代わりでしかなかった。いつしか好意を寄せられていることに感づいた彰太だが、これに応えるという選択肢は存在しなかった。しかし他に晴美を追い込まないで上手くやり過ごす道はなかったのだろうかと、幾度も頭を悩ませた。その苦悩から解放されたくて、彰太はより案内役に没頭していく。五年、十年、十五年と過ごすうち、数え切れないほどの感謝を受け取った。やがて晴美のことも真希のことも、気に掛ける頻度は少なくなっていった。それにつれて今の仕事にやりがいを感じるようになり、還るという選択肢は無くなっていたに等しかったのに。
ここ十日は消えかけていた思いが暴れ回って仕方ない。そんなときに聞いた渡辺律の話は輪をかけて衝撃的すぎた。
先生から帰還時の戦利品についての仮説は聞かされている。絶望を抱えて還っていった晴美は、精神に異常をきたしている可能性がある、と。彰太はそんな根拠のない説を信じていなかった。否、彼女に取り返しのつかない傷を負わせてしまったという責任を受け入れたくないだけだ。全幅の信頼を置く先生を疑っているわけではない。
今、彰太の足は先生の元へと向かっている。現代の晴美の件について見解を聞いてみたいのだ。算術の研鑽と並行して狭間の考察も行っている先生ならば、今は例の仮説を撤回しているやもしれない、そんな一縷の希望に賭けて。
夜道を照らすのは彰太の時代にはポピュラーな懐中電灯。それとは比較にならないくらい、先生が拠点で用いている照明はとても弱々しい。丘を下ったところにぼんやりと浮かぶその光は電気的なものではなく、行灯の火である。平成の世にも仏壇の傍でなら見かけることもあるだろう、木製の台に乗せた火の周囲に和紙を張っただけのそれは、先生の時代から一般に浸透しだしたという照明器具だ。彰太には夜に読み書きするには少々心許ないと感じられてしまうのだが。
「――夜分遅くすいません」
火の光に慣れた目には眩しすぎる光と声に気付き、先生は面を上げる。何故かは分からないが、先生が貪るように読み耽っていた本は、和服の男の手には不釣合いな文明の産物であった。
「彰太か、あの日ぶりだな」
先生はいそいそと本を風呂敷で包み、来客用の座布団を用意する。彰太はそこに、失礼しますと腰を下ろして先生と相対する。珍しくも先に口を開いたのは、先生の方だった。
「先にお主に謝っておかねばならぬことがある」
「何でしょう?」
「一昨日のことだ。千里らに、お主や晴美の話をしてしまった。どうしてもと請われて断りきれなんだ」
それ自体は仕方ないと許容できる。だが彰太は、これだけは確認しておきたかった。「俺と、あの子との関係については……?」
「話しておらん、心配は無用だ」
「……すいません、気を使わせてしまって」
「お主がそういう考えならば、従わざるを得まいて。――して」
既に先生が、晴美の縁者が狭間に来ていたことを耳にしているのならば話は早い。彰太は率直に尋ねる。
「先生はどうお考えでしょうか。晴美のうつについて」
「やはりそれか」嘆息し、「どうもこうもない。あの仮説は真実であるという実例が一つ取れた、それだけだ」
要するに先生はまだ仮説を信じており、しかも立証に一歩近づいたと言っているのだ。
「俺のせい、でしょうか」
「憚らず言えばその通りだ」
目の前が真っ暗になっていく。自分がひと一人の人生を壊してしまった。それが彰太の胸に重くのしかかる。
俺は、俺は、一体どうしたら――。
「気をしっかり持て。お主まで負に堕ちたらどうするのだ」
その言葉は彰太の心に立ち込めつつあった暗雲を吹き飛ばす。
「……すいません」
晴美の二の舞になってしまっては今度は重荷を先生に背負わせることになるのだ、と踏ん張る。
すると先生が、元々細い目を更に研ぎ澄まして告げた。
「お主が狭間にいる目的は、何だ?」
「俺は……」その先を継ごうとして、しかし果たせない。喉の奥に詰め物があって、声をせき止めてしまっているかのように。
彰太は今や、自身の感情にさえも靄がかかって分からなくなっていた。還るか、残るか。どちらも選びたくないのと同時に、どちらも選びたいという異常な矛盾が存在した。
覚が消え際言った、『先生、彰太、本当にありがとう』。狭間に来たばかりで何も分からない覚のことを七年前に案内したのは他でもない彰太である。それからは友人として過ごし、最後には――最後の最後で諍いを起こしてしまったがそれでも――お礼を述べてくれた。それこそが案内人としての充足感を得られる最大の言葉であった。そしてそれだけが、彰太を狭間に繋ぎ留めていると言っても過言ではない。
しかし律が来たとき、千里に先を越されたばかりではなく、あろうことか役目を放棄して逃げた。そこにどんな理由があったとしても、案内役失格だ。
そして晴美のこと。例え現実に還れば綺麗さっぱり忘れてしまうとしても、この事実は揺るがない。殺人にも匹敵し得るこの罪を忘れてのうのうと生きることを想像すると、彰太には耐え切れなかった。そうするくらいならば、このまま現実世界から最も遠い島で流刑に科せられているのがいい。
また、彰太はよく島で一番高い丘へと赴く。その麓には千里や彰太の拠点があるので、二人の行動は目に入っていた。覚が還り、二人が事実を知った二日後のこと。千里が塞ぎ込んでいた智之の所へ声を掛けに行ったそのやり取りを、彰太は丘の上から聞き耳を立てていたのだった。
そのときの智之の感情は、彰太には痛いほど伝わってきた。一度折れたり、消えかかった情は立ち直るまでに時間を要する。その間は誰に何を言われても跳ね除けてしまうのだ。そして後に自分の行動を悔いる。智之は二十年前の彰太自身であり、千里は二十年前に見た真希そのものだった。
……彰太の時間で二十年前、彰太には真希という名の恋人がいた。お互い社会人で、まともに会えるのは週末だけだったからこそ二人はその時間を大切に思っていた。が、ある時彰太は仕事で大きなミスをし、休日出勤を余儀なくされる事態となった。プレッシャーや疲れでその旨を真希に連絡することもできず、それどころか真希のことなど考えている余裕もないほどに挽回作業は多忙を極めた。
真希のことを彰太に思い出させたのは、日曜の深夜にアパートに帰り着いたときに発見した、ドアに貼り付いていた彼女の書置きだった。そこには簡潔に『帰ったら電話ください』とだけあった。疲労の溜まった脳では弁明や謝罪を準備することさえも考えられず、ただ指示に従って電話機のボタンを押した。呼び出し音は一度。いの一番に真希の声が飛び込んできた。
『彰太!?』
『……ああ』
『良かった。心配してたんだよ、何も言ってくれないから……。お仕事?』
『……ああ』
返事は、言葉ではなく唸り声に近いものだった。それゆえ、真希は勘違いをした。
『もしかして、病気? だったら待ってて、今行くから』
『……会いたくない』
こんな時間に夜道を女一人で歩かせるわけにはいかない。何でもいいから今すぐ眠りたい。それらの心情が端的にまとまった結果がこれだった。そうして真希は食い下がり、対して彰太は怒鳴り声を上げた。通話の切れた受話器のコードは垂らしたまま放置し、彰太は倒れ込むように寝入った。
翌朝の彰太を襲ったのは酷い倦怠感。熱もある。どうやら仕事がたたって本当に体調を崩してしまったようで、当日欠勤をすることにした。布団の中で昨夜のやりとりを思い出して、激しく後悔する。だが、やっぱり看病して欲しいなんて頼むのは有り得ない。と言うより今は月曜日、既に出勤しているであろう真希のポケベルを鳴らして呼び戻すのは非常識だ。せめて謝罪文を送ろうと電話機のボタンに手を伸ばしたが、虫の良すぎる自分の考えに辟易して押せなかった。
心を悩ます何もかもを放棄して、熱に浮かされながらゆっくり流れていく時間に身を任せる。体は怠いが、気は楽であった。いつしか彰太はうわ言を発していた。時間が欲しい、無心で過ごせる時間がもっと欲しい。やがて彰太の耳には謎の女性の声が届いていた。
狭間に来て、先生の説明を受けた彰太は、無限の時間を無為に浪費し続けた。初めこそ良かったものの長くは続かず、やがて時間を持て余した。本を読んでも一時しのぎでしかなく、かと言って現実に還りたいとも思えない。先生に相談をすると、『狭間の案内役はどうだ?』と提案された。それが始まりだった。
この二十年で彰太が案内し見送ってきた人数は、晴美を含めて優に五百を越す。彰太はその全員を思い出すことができ、そのほとんどは彰太に狭間で生きる力をくれ、その多くは彰太の前で笑顔で還っていった……。
「俺は、狭間に来た人の案内をするために……」
本当にそうだろうか。暇つぶしのために勝手にそうしているだけで、本来はそんなことのために来たわけではないだろう。
「だがお主は職務を放棄した」
分かってはいても先生の指摘が胸に突き刺さる。反論の暇を与えてもらえないまま先生は続ける。「お主の代わりに、千里が案内をしたそうだ。そして結果的には無事に還した。お主よりも優秀かもしれんな」
言って呵呵と笑う。
そう、案内なんて特定の人がし続けなければならない役ではない。言わば先輩から後輩へ、引き継いでいけばいいのだ。先生から彰太へ、彰太から次へ。……俺の役目は、もう潮時ということか。
「俺は」
一旦割り切ってしまうと、後は決まりきっている。釣り合った天秤の片方の皿から錘を取り去れば、自ずともう片方へと傾くのだから。長い間ずっと封印したきた、しかし開きかけていた感情の入れ物の蓋がこの瞬間、解き放たれた。真希へのありとあらゆる感情が――好きが、ごめんが、会いたいが――渦巻き混ざり合い、一つの結論を導き出す。
「――還ります。現実に」
聞くと先生は、穏やかな笑みを見せた。
「……そうか」
「はっきり分かりました。俺は俺自身の欲を果たすことよりも、真希と一緒にいたいと思っていると」
「お熱いことだ。だが、それも結構」
先生は彰太を引き止めたり後押ししたりこそしなかったものの、その心には両方の感情があるのだろうと容易に思われた。
「最初から最後まで面倒を見てくださって、ありがとうございました」
「それはそうだ。私の方が長く居るのだからな」歪ませた口を結び直して、「その選択に、後悔はないな?」
「ええ」
もう彰太は迷わない。二十年もかかったが――いや、選択に時間を掛けてしまったからこそ、還ることが怖くなってしまった面もあるが――、己の為すべきことを見つけることができたのだから。
「ならば良い。お主の信じた道を行け」
「はい」
彰太は立ち上がって深々と一礼し、そして先生に背を向けた。
「何だ、今すぐ還るのではないのか」
「謝らなければいけない人がいますから。それに、最後に一目会っておきたいのです」
「本当に最後というわけでもあるまいに」
先生のその言葉が暗に対照しているのは、先生自身のことである。彰太が一度帰還してしまえば、生きる時代の異なる二人はどう足掻いても再会することはないのだから。
「……お主のような者と友となれて楽しかったぞ、彰太よ。お主のことは忘れない。――ここにいるうちは」
出会うはずのないお互いが、時の理を超越して邂逅を果たせた奇跡を噛み締めながら、彰太は言った。
「俺もです。先生」
その後、彰太は二度と背後を振り向かずに歩き出した。不甲斐ない自分の尻拭いをしてくれた千里の元へ。少しでも早くと急く気持ちは、真希との待ち合わせに遅れそうになったときのそれに似ていた。
案内が何だ。晴美が何だ。そのどれも、還って真希に会うことに比べたらちっぽけなことだ。彰太は自己中心的な性質を自覚している。自分の行動は結局は自分の為。自分の欲を満たすために案内で人を助け、自分が真希を想うから晴美を振った。そして自分が還りたいから還る。傲慢であっても、自分の信じた道を行く。他人のことばかり気にして自分のしたいことができないのは、何よりも辛い。
数分を要して、千里の拠点に着く。そこでは夜にも関わらず千里が、智之に教わりながら勉強を続けていた。ちなみに光量は十分に読み書きに足る。
「千里さん、智之くん」
「しょ、彰太さん?」
「邪魔をして悪いね。でも少し時間をくれないか?」
二人は突然の来訪に驚き、訝しみながら頷いた。
「ありがとう。まずは千里さん、この前はすまなかった。つい気が動転して、あの場にいられなくなってしまった」
「いえ、そんな。確かにびっくりしましたけど」
「それにその後も案内を続けてくれたと聞いた。……もう俺の役目を終わらせても大丈夫そうだな」
「なんだ彰太さん、案内役は廃業ってか?」
智之の問いに、彰太は首肯する。
「そうだ。そして俺の狭間での生活も、今を以て終わりだ」
「還る……んですか?」
「ああ。もうここに未練はない」
最後の目的もこうして果たしたのだから。すると彰太の周囲に光がまとわりつき始める。自分がいざ還る段になると、なかなか不思議な感覚がこみ上げてくる。
千里が焦って尋ねる。「じゃあ、案内役は誰がやるんですか?」
「誰でもいいさ。君たちでも、先生でも。狭間の勝手を知っている者が次の者へ、教え伝えていけばいいんだから。自分勝手で悪いけど、後を頼んだよ」
「分かりました」
彼女の返事と表情に、彰太は安心する。
「受験勉強、頑張って。智之くんも、還るときには強く信念を持つこと。現実の自分に与えてやれるのは、自分たちが狭間で得た自信だけなのだから」
仮説が真実ならばこのようなアドバイスにも意味があるはずだ。二人がしっかりと頷くのを見届けたとき、女神の声が降り注ぐ。
『――貴方は、現実の世界へと還ることを望みますか?』
「ああ」
真希のことを思い浮かべれば、それ以外の回答は出てこない。
『では還しましょう。あるべき世界へ――』
視界が懐かしい真っ白な光に埋め尽くされつつある中で、彰太は千里の声を聞いた。
「彰太さん、わたしが言うのも変ですけど……。あんまり悩みすぎて自分を追い詰めないでください。彰太さんは彰太さんらしくいてください。じゃないと、恋人の人が好きな、世界で一人しかいない彰太さんがいなくなってしまうから」
俺は、俺らしく……。
千里の言葉を肝に銘じようと、残された時間の中で何度も反芻する。どうしてか、これだけは絶対に忘れたくないと思ったから。
意識が光に呑まれて消え始める。二十年もの時を過ごした狭間ともこれでお別れだと思うと、なかなかどうして寂しくなる。
彰太は、ここで千里に会えてよかったとしみじみ感じた。彼女がいなければ、こうして還るということもなかったかもしれない。その場合、現実の自分の運命はどうなっていたのだろう、などと反実仮想をしてみても答えは出ないが。ただ、よしんば未来が定まっていようとも、そしてそれを知ってしまったとしても、現実に記憶は持ち還れないのだから気にするだけ無駄な話だ。
何にせよ真希への好意は絶やすつもりは全く無いし、そのことが証明されただけでも彰太にとっては大きな自信となった。
もうすぐ完全に意識が途絶える。最後に一言残せるだろうか、と彰太は唇を僅かに動かした。
「また会おう――」
千里。




