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千里、過去と晴美。■2012/01/12 12:27

 千里の勉強意欲は、最高潮に達していた。

 あんな話を聞いたら、何が何でもあの大学に合格しなきゃいけないじゃないか。そう思えば思うほどに、やる気がぐんぐん上がっていく。

 だが悲しいかな、どれだけ固い決意があろうとも大切な思い出があろうとも、現実へ還れば全て消えてしまう。だと分かっていても、千里は筆を休めようとはしない。今の自分がそうしたいからするのだ。一度、十九日までは頑張ると決めたのだから。

 狭間での経験を無かったことにしたくはない。神の掟に逆らうようなこんな希望を叶えるためにはどうすればいいか、千里は考えた。導き出した答えは『狭間で過ごした時間に意味を与えるため』に、『志望校に合格し、智之と再会する』こと。再会したとしても、互いに初対面になることは覚悟している。それどころか広いキャンパス、多くの学生の中に紛れて関わり合いすら持てないまま終わる可能性も大いに有り得ると承知している。

 そうだとしてももし出会えたならば、『智之と再会したい』という、『その願いを持つに至った狭間の自分の願いが叶った』ことになる。千里がこのように思うようになったのは、狭間で智之を始めとする五人と出会ったからであり、狭間で勉強に励んだからであり、狭間で色々と考えたり感じたりしたからである。短くまとめると『狭間が存在したから』だ。『狭間で過ごした時間があったから』こそ、千里は『智之との再会』を望むようになったのだから、願いの成就は則ち『千里にとっての狭間の存在意義の成立』と言える。この論理に、現実の千里に狭間での記憶がないことは関係がない。何せこの願いを持っているのは『狭間の自分』であり、叶って報われるのは『狭間の自分』自身なのだから。

 だから狭間の千里は、現実の千里に力強くバトンを渡すために全力を出し切るんだと息巻く。どうかこの努力に意味を与えてくれ、と祈りながら――。

『もしや、渡辺晴美という人を知らないか?』

 彰太の声が突然脳裏にこだまして、問題を解こうとしていた集中力を削いでしまう。千里は幻聴を振り払いペンを握り直すが、『俺のことは放っておいてくれ』と今度はそのときの物憂げな背中までも思い浮かんできてしまった。

「どうした? 手が止まってるぞ」

 智之が軽く注意する。そんなことは言われなくても分かっている。でもどうしようもない。どうしてか、律の所から突如去っていった彰太の声と姿が心に引っかかって仕方がないのだった。あれ以来彼とは一度も顔を合わせていない。

「……ごめんなさい」

「さては何か考えごとをしてんだろ。一旦休憩すっか?」

「そうする」

 力なく言って、椅子の背もたれに体重を預けて上体を反らす。

「気がかりなことがあったら早めに解決したほうがいいぞ。そのせいで集中力が切れたら元も子もねぇ」

 勉強を放っておくのも忍びないが、致し方ないかと千里は諦める。

「智之さんは、わたしが律ちゃんに説明をしているときにやって来た彰太さんが、どんなことを言っていたか聞いてた?」

「全部じゃないけどな。誰それを知らないか? とか、体調が優れない、とか。それが?」

「さっきから気になってるのが、その誰それの部分――渡辺晴美って人のこと。律ちゃんの伯母さんらしいんだけど、その名前を聞くなり血相を変えてどこかへ行っちゃって」

「そりゃあ何かあるな。よし、聞きに行こうぜ」

 と言って智之は丘へ歩き出す。千里は戸惑うが、置いていかれたくもないので急いで後についていく。

「行くってどこに? 彰太さんが今どこにいるかなんか分からないのに」

 居場所が分からない人間を当てずっぽうに探し回って見つけられるほど、この島は狭くはない。だが智之の足取りはフラフラしておらず、まるで目的地が初めから定まっているかのようだ。それに記憶を探ると、この方向には覚えがある。

 実際は全くその通りで、智之はある程度進んだところで目指す場所を告げた。

「いるだろ。彰太さんのこともよく知ってるはずの、生き字引が」

 そんな流れで丘を二つ越え、先生の拠点に向かう二人。相も変わらず堆く積まれた書物の山は、遠目から見ると砦のようだ。そんな本に囲まれてひたすら算盤を弾き続けているのが、先生だった。

「先生」

 短く智之が呼びかけると、先生はすぐに反応した。

「む、どうしたお主ら」

「質問したいことがあって。――千里が」

 切り出したのが智之のためそのまま代弁してくれるのかと期待して油断していたが、そうはいかない。先生の視線に当てられて、千里は口を開く。

「え、えっとですね、彰太さんのことについて、聞かせてくれませんか?」

「……何をだ?」

 すると先生は不快をではなく、驚きと怪訝さを含んだ目をして聞き返した。

「渡辺晴美という人との関係です。少しでも知ってることや話せることがあったら、教えて欲しいのですが」

 今度こそ露骨に驚愕する先生に、続けて千里は事の成り行きを説明する。昨日、渡辺律という中学生の女の子が狭間に来たこと。彰太が渡辺晴美はどうしているかと訊ね、うつ病だと聞くや否や律の案内をせずに立ち去ってしまったこと。その代わりに自分が案内をしたのだと言ったところで先生が口を挟んだ。

「千里が、か?」

「そうです。ちゃんとできたかは分からないけど、とりあえず彰太さんの言葉とかを思い出してやってみました」

 感心したかのように、ほう、と声を漏らしてから手のサインで続きを促す。

「はい。色々ありましたが結局、その子は還ることを選びました。けど、どうしても彰太さんの態度が急変したことが気になって。その人と関係があるに違いないだろうって、だから先生に聞きたいんです」

 話を聞き終わると、先生は渋い顔をした。どことなくあのときの彰太にも似た表情。やはり同じようなことを考えているのかもしれない。

「……確かに私も彼女を知っている。私自身話すのはやぶさかではないが、これは彰太の問題だ」

「お願いしますっ」

「だが……」

「オレもあの人のことを聞いてみたい。色々と隠しごとがありそうだし」

「人は長く生きるほど、隠したい秘密も増えるものだ」

「どうしても、ダメですか?」

 なおも食い下がると先生は押し黙り、やがて観念したように言った。

「――交換条件を出そう。まあ、これは私個人の希望だが。時にお主ら、塾生に違いないな?」

 塾生、という単語に戸惑ったが、つまりは学生や生徒といった意味だろうと捉え、頷く二人。

「ならば算術の指南書なども読んだことがあろう。それをここに持て」

「数学の教科書でいいのかな……?」

「是非は私が決める」

 やや抑揚のある声に催促され、千里は高校で使っている教科書と愛用の参考書を喚び出し、手渡した。先生はそれを半ばふんだくるように受け取り、観察を始めた。手触りを確かめ、背表紙の綴じ方に驚き、そして中身を一瞥してから、二人に向き直る。頬を上気させ、瞳を少年のように輝かせていた。

「これらは暫し借り受けるぞ」

 先生は紫の風呂敷に教科書類を丁寧に包み、机の端に避けた。

「じゃあ」

「ああ。彰太には後で私から謝っておく」

「ありがとうございます!」

 千里は深々と礼をする。そうして先生は深く息を吸い、語りだす。

「彼女のことを説明するには、まずは彰太について教えるしかあるまい。彼が狭間に来たのは、今から二十年前。当時は私の他に二人いたにはいたが、此奴らは呆れるほど偏屈で他人と交流を持たない性格でな、必然、私が今の彰太のような案内役をすることになっていた。話を聞くと彼には恋人がおったが、しかしあるとき逢引の約束を取り付けなかったらしい。決して恋慕が冷めたわけではない、と言っていた」

 倦怠期というやつだろうか、と千里は思った。

「彼女はそれを病に倒れたと考え見舞いを申し出たが、彰太は面会を断った。その断り方が拒絶のように取られてしまったかもしれないと思い悩むうちに、本当に体調を崩したらしい。情けなさに苛まれると同時に、こんな思いをするならいっそずっと一人でいた方が気が楽だという思考になり、そして女神に迎えられたと言う。私はそれに横槍を入れず、本人の意思に任せることにした。……それから、彼は時々私のところに来て話をする程度の仲となった。他に話し相手になる者はいないうえ、私も特に話が嫌いではないのでな。狭間の事実を話し、代わりに彼の身の上話も教えてもらったりな。……彰太が還る気配を一切見せぬまま、到来から半年を経たある日、彼女が来た」

「それが」

「名を渡辺晴美と言う。彰太は私が彼にしたように、彼女に対して懇意に狭間の案内をした。晴美はやがて彰太を頼るようになっていく。同時に彼がここに来ることも少なくなったが、あるとき私は尋ねてみた。『現実の恋人はどうするのだ』と。すると彰太は『晴美のことはそういう目で見てはいない』と言った。しかし彼女は皮肉なことに――狭間へ来た本来の目的を私は知らないが――いつしか彰太と共に過ごすことが目的に挿げ変わってしまった。そして彼女の到来からまた半年、彼女は彰太に想いを告げた。当人はまさか断られるとは思っていなかったのだろうな、想いが遂げられないというのは自分の存在理由を否定されるのと同義。傷心に耐え切れず島の縁から投身してしまった。……私は遠くで光の柱を見ただけで、顛末は後に聞いたのだがな」

「もし島から落ちたらどうなるんだ?」

 智之の手が間に合わなかった場合、律も同じ目に遭っただろう。それを思うと聞かずにはいられなかった。

「否応なく強制送還だ。自由落下による恐怖を全身で感じながらのな。女神はあれでも人間のことを慮って送還の判断を下している節がある。これは私の憶測に過ぎないが、奈落の底は人智を超えた時空間の歪みが広がっており、そこに呑み込まれた心は二度とは還れないのだろう。だからそうなる前に無理にでも還すのだ」

 それにしても、と先生は興味深そうに言った。

「晴美が、うつ……。他に病状について話していなかったか?」

「魂のない人形のようだ、と」

「やはりか。私の仮説は正しいのやもしれぬ」

「仮説?」

 智之は一人得心している先生に問う。先生は心して聞け、と前置いて、

「狭間から現実へ、持って還れるものが一つだけある」

 二人は目を見開いた。そんなことは初耳だ。

「一体なんですか!?」

 先生は二人の目を順に見つめ、断言する。

「――感情だ」息を呑む音がしたような気がする。それからややおいて補足する。「帰還する瞬間に抱いている感情を、人間は現実に持ち帰れる。これは記憶でもなく形もない。感情は心より生まれ出づるものだと仮定すれば、心そのものである我々が肉体に戻ったとしても同じ感情を感じることができるのは道理」

「確かに……」

「自己否定、恐怖、絶望……強制送還を喰らったときに負の感情に塗れていた晴美は肉体に戻った瞬間、溢れ出したその邪の塊を許容しきれなかった。それもそのはず、一瞬前までは存在しなかった感情が、唐突に心を満たしていたのだから。――そして壊れた」

 想像して、千里は嘔吐きかけた。智之も額に冷や汗を浮かべ、口を真一文字に結んでいた。

「このような事態になったことは残念だが、しかし悪いことばかりではない。感情の落差は強ければ強いだけ反動があるのだから、負はより負へ、正はより正へと変化を遂げるだろう。故に、正の感情を抱いて還ればいい」

「だから先生は、覚さんが還るときに」

『お主の選んだ道を信じて進め』――覚は、いつも先生はこの言葉を餞別に送っていると言っていた。それはごく当たり前のエールだと千里は思っていたが、裏には今抱くポジティブな感情を忘れるなという意味が込められていたのだった。

「私の仮説が間違っていれば成立しないがな。死後の世界と同じで、還った後のことは誰も知り得ない。女神は黙して語らず」先生は不機嫌そうに眉を顰める。「解の無い問は不毛だ。明察か誤謬かはっきりしない事柄など美しくない。……だが、晴美には悪いがこれで少しは確証を得られた気がする」

 そのときふと千里は疑問を抱いた。何故今まで思いもよらなかったのだろう。

「どうして先生は、狭間から還った後どうなるのかについて知っているんですか?」

「何言ってんだ? 千里」

 智之には質問の意味が読み取れなかった。

「今先生は自分でも言いましたよね。『還った後のことは誰も知り得ない』と。なのに『現実へは記憶や物を持ち還れない』とか『どれだけ過ごしてももと来た時間へ戻れる』とか、当然のように言っているのはおかしいじゃないですか。還ってみたら浦島太郎と同じことになっていた、ということがない保証はあるんですか?」

 死後の世界の存在を証明できないのは、死後の世界から帰ってきた者がいないから。同様に狭間から現実に還った者がいないのに、還った後はこうなるというのが分かっているのは奇怪だ、というのが千里の主張だ。

 聞くと先生はばつが悪そうに目を背けたが、千里が無言の圧力を掛け続けると根負けして白状した。

「……申し訳ない。全ては根拠のない憶測に過ぎないし、私が直接体験したわけでもないのだ。私の論の拠り所は、ただこれのみ」

 そう言って本などが雑多に置かれた中から綺麗な玉手箱を取り出す先生。蓋を開けると中には一冊の書物があった。

「時之狭間詳明録……?」

「私が狭間に来て十数年経った頃、それより前から狭間で過ごしてきた方が還ると仰ってな、これを私に託した。あの方や、更に過去の先人たちがそれぞれ研究したことが全て記されておるこの本以外に、私が縋れる説はない。例え事実が全くの見当外れだったとしても、だ」

「どんなことが書いてあんだ?」

「適当に訳すぞ。私の来る、百六十年ほど前の記述だ。『私が狭間に来て八年目の春、あろうことか従兄が現れた。彼の容貌は私の知るところよりも八年分老けていた。私は訊ねた。私が神隠しに遭ったことにされていやしないかと。彼は否と答え、それどころか私は八年前の事件を乗り越えて以後、人が変わったように活動的になったと言う。このことが意図するところを私は、狭間から帰還すると元の時間に戻れるものと推測する』。このような体験談や考察が他にも無数に書いてある。私も後世のため、先の仮説や晴美の件を書き加えるつもりだ」

 少し覗かせてもらうと、紙面には多くの古風な名前と文字がびっしりと敷き詰められていた。筆跡は同一人物の――先生の手によるものと見える。とは言えそこに書いてある全てが先生の創作であるとも考えられない。何らかの理由があって先生が新たに書き直したのだろう。

「そうだったんですか……ごめんなさい、疑ったりして」

「いや、お主の指摘はもっともだ。私がさも真実のように喧伝してしまったせいで、狭間に来た多くの者がこれを何の疑いもなく受け入れてしまっておるのは事実。彰太はまだしも覚などはまさにそうだった」

 千里と智之は返す言葉を見つけられず、沈黙が三人の間を流れていく。それに耐え切れなくなった智之が、取り繕うように質問した。

「そういや、先生はどうして狭間へ? つーかいつから居るんすか?」

 すると先生は咎めるような視線を送り、

「聞きたいなら対価を差し出せ」

「こ、今度はどうすりゃ……!」

 そして狼狽える智之を無視して風呂敷包みを愛おしげに撫で回した。

「――と言いたいところだが、この書物は万金に値しよう」

「先生、意外と意地悪なんですね」

 千里の茶々に先生は笑い、興奮しながら答える。

「私は算法を研究している。数とは高く貴いものだ。数はこの世の理を司る。数を知るとは天を掴むことであり神を知ることであり、つまり果がない。その果を追い求めて三百と数十年、それでも未だ辿り着けぬ」

「三びゃ……っ!?」

「江戸時代じゃねぇか……」

 二人は驚愕せざるを得なかった。確かに言い回しや服装などにその端々を垣間見てはいたが、まさか本当にそうだとは。

「しかし現実の世、お主らの生きる世は私の知り得ない高みまで上り詰めているに違いない。この本を見ても明らかだ。私がここで導き出した定理や比率も記載されておるし、もう少しで掴めそうだった式も悔しいが書いてある。だがまだまだ全てが求め終わったわけではないだろう。私はこの本から学んだことを元に、もっと先へ行きたい。数の道に果なし。だから私はここに居るのだ。――今更還るに還れんしな。この記憶を失うのは惜しい」

 先生の孤高の決意には、求道者たるに相応しい凛々しさがあった。

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