律、逃避と相対と。■2014/01/11 14:46
上から日差しが注いで身体を包み、下になっている頬はさわさわしてくすぐったい。まるで草むらに寝転がっているみたいなふわふわした心地がした。
だが突然に頭が左右に揺さぶられて、少女は強制的に覚醒させられる。それは久々の感覚だった。朝、中学校に寝坊しそうなときに起こしてくれる親はいないのだ。そう、自分を起こしたのが親であるわけがない。じゃあ誰が?
少し不機嫌そうに、少女は目を開いた。真っ先に映ったのは眠気さえも吹き飛ばす青空、そして――高校生か大学生だろうか、と少女は見当をつけた――見知らぬ女の人だった。
「え……?」
「気が付いた?」
「う、うん。えっと……ここどこ? あなたは?」
尋ねずにはいられなかった。自分はさっきまで、自宅に一人でいたはずなのに。右手に握っていた物も消え失せている。
すると女の人は「やっぱりそうなんだ」と一人得心し、顔を輝かせた。が、すぐにキョロキョロと周囲を確認し、嘆息する。表情の目まぐるしい変化に少女は余計に困惑してしまう。
「ごめんね。彰太さんがいないかと思って」
あなたの名前さえも聞いてないんですけど、などと問うより早く、彼女は咳払いをした。
「代わりにわたしが。――ここは時の狭間。女神が作り出した、現実の時間の流れから切り離された空間」
そんな定型文臭い、言語は分かるが理解が追いつかない説明をされた。時間を求める人が来る所だとか、居たいと思う限り時間を使えるとか、見聞きしたことのあるものは全て具現化できるだとか。どうやらこの場所の話らしい、ということだけは掴めたがほとんどはちんぷんかんぷんである。もしかしてこの人は説明が下手なんじゃないかと疑念を抱いてしまう。寝起きだったり戸惑ったりで混乱した状態の頭には難しい話だっただけかもしれないが。
「あ、彰太さん」
足音が聞こえたのか、少女の視線が移ったのに気付いたのか、女の人は振り向いてやって来つつある男の名を呼んだ。
「この子、ついさっき狭間に来たみたいなんです。それで彰太さんもいなくて、勝手にここの説明をしてたところで」
彰太は一瞬ショックを受けたようにも見えたがすぐに元通りとなり、「そのまま続けてしまってくれ」と促して女の人の側に立つ。その目が、どうにも自分を観察しているような気がした少女は落ち着かなくなる。
父母参観日で緊張する子供のような感じで、同じく居心地を悪そうにしながら、女の人は話を続ける。
「そうだ、お互いに名前を言うの忘れてたね。わたしは小此木千里」
「わ、渡辺律、です」
このタイミングでか、と驚く律よりももっと驚愕している人物がこの場にいた。
彰太は額に汗を浮かべて、食ってかかる勢いで律に迫る。
「もしや、渡辺晴美という人を知らないか?」
「へ?」
思わず間抜けな声が出てしまった。それくらいその名の登場は唐突だったから。知らないわけがない。
「……あたしの、伯母が晴美です」
「今、どうしている? 元気か?」
矢継ぎ早に繰り出される無遠慮な質問に辟易しながらも、律は事実を告げる。しかもそれが伯母のことだから、なおのこと苛立ってしまう。
「うつ病患者で、うちに居ます」
彰太は聞くなり目を伏せ、苦虫を噛み潰したような表情をした。そして何も言わずに回れ右をし去っていく。足取りは不安になるほど覚束無い。
「彰太さん?」
「すまない。……体調が優れないようだ」
「でも」
「俺のことは放っておいてくれ」
「待ってくださいってば!」
千里は彰太の後を追いかけるもしかし数歩で諦め、戻ってきた。疑問と気まずさが同居した声で律に謝る。
「ごめんねいきなり。いつもはあの人が狭間の案内をする役目なんだけど……」
それより、と律は返す。誰が案内するだとかどうでもいいくらい、晴美の名前は聞き捨てならないのだった。「どうしてあの人は伯母のことを」
「わたしも分からない……。彰太さんのことは、よく知らないから」
晴美と、二回りほども歳下であるように見える彰太が知り合いであるとは考えにくかった。晴美がうつ状態になったのは二十歳のとき、則ち十九年前だったという。当然律は生まれていない。発病後にまともに他人と触れ合う機会は少ないはずだから彰太と知り合ったのがそれ以前だとすると、今度は彼が子供の頃ということになってしまう。
晴美について考えを巡らせるうち、彼女に対する積年の恨みが心の中に噴出してきた。晴美のせいで自分は、生まれた時からずっと辛い思いをさせられてきた。何度いなくなってしまえと呪ったことか。忘れ去ったとばかり思っていた出来事までも、火山が噴火したかのような勢いで全て鮮明に蘇ってくる。動悸が激しくなり、呼吸も乱れていく。やがて律は胸を抑え、地面に崩れ落ちた。
「り、律ちゃん!?」
慌てて千里は丸まった律の背中をさする。それを続けること数分、律はなんとか落ち着きを取り戻した。
「大丈夫?」
「は……い」
今は鎮められたが、またちょっとしたきっかけでタガが外れてしまいそうだ。思い出したのは何も遠い過去の記憶だけではない。何故忘れていたか不思議なくらいの、ついさっきまで抱いていたあのどす黒い感情も。
……嫌だ。あんな生活はもうご免だ。家にも学校にも心の休まる場所は用意されていなくて、律はそれならばもう死んでしまおうと思い至った。何も気にせず何にも縛られることなく、どこかここじゃない場所で過ごせたら良かったのに。叶わぬ思いを胸に、包丁を自らの左手首めがけて振り下ろそうと覚悟を決めたその瞬間に、律は『時間が欲しいですか?』という優しい声を耳にした……。
「……いつまでも、ここにいられるんですよね?」
ポツリと、言葉が唇から漏れ出た。希望のニュアンスを含んだ確認。
しかし千里の顔は曇り、目は泳ぎだす。「あ……それは……」
「違う、んですか?」
「違わないよ、狭間に居たいと思っている限りはずっといられる。だけど……」
煮え切らない答えに、不安が急増していく。千里も言うべきか言わざるべきか逡巡しているようだ。ややあって意を決し頷く。開きつつある口から何を言われるのかと想像すると、律は言い知れぬ恐怖を感じた。
「落ち着いて聞いて」前置きの後、「この狭間は、夢のようなものなの。ここにいるわたしたちは肉体を離れた『心』だけの存在で、ここでの思い出は脳に蓄積されていないから、現実に還れば全て忘れてしまう。それに還るのは狭間にやって来たのと同じ時間。狭間にいたこと自体、なかったことになってしまう」
「――また戻らなきゃいけないの!? あんな所にっ! もう嫌だ! こんなのっ!」
やはり救いはない。絶望が律を黒く塗りつぶす。精神の抑えが効かなくなった律は狂乱し、暴れだす。千里が止めようにも止められない。我を忘れて草を引き千切り地面を踏み鳴らし、そして一直線に走り出す。その方向は、
「危ない! そっちは島の――」
縁なのだ。当然その先に踏み出せば自由落下。どうなるのかなんて恐ろしくて考えたくもない。千里は律を止めねばとするのだが、足が固まって動かなかった。そうしているうちに律はどんどんと縁に迫っていく。
そうして。律の次の一歩が接地することはなかった。
「え……」
一気に意識が戻ってくる。その瞬間にはもう、足を踏み外した律の体は重力に引かれ始めていた。悪寒が骨を伝って全身に走り抜ける。
咄嗟に伸ばした手がすんでのところで張り出していた石を掴む。だがそれは一瞬だけのこと。石は人間の体重を支えるには能わず、ゴロリと土から離れ崩落していく。下を見れば奈落の闇が口を開けている。
「きゃああああっ!」
死にたくない。怖い。死にたくない。心の底で叫ぶ声があった。だがそんな些細なことは引力という普遍の理の前には無に等しい。
一瞬だけ蛍の光が辺りに見えた気がした。それと全く同時に、律の手首を誰かの手が掴んだ。
「間に合った!」
「智之さん!?」
千里が名を呼んだのが、手の主だろうか。今の律にとっては蜘蛛の糸同然の希望だ。これに縋るより他に考えることはできなかった。
「助けて……!」
「待ってろ、今引き上げるからな! 千里、オレのこっちの手を握れ。……よし、せーので引くぞ。――せーのっ!」
ぐいと勢いよく律の体が持ち上がる。そのまま膝が地面の上に到達するまで引き摺られ、後は自力で這う。助かったと安心しきったときには、全身が脈打っているかのように感じられた。落ちたら死ぬのかは分からないが、何にせよ今自分は生きている。
そして律を救ってくれた男の顔を初めて見る。千里よりも更に年上の、ボサボサ頭の男。彼が智之。
「あ、ありがとう、助けてくれて」
「おう」
短く返事をして、智之は変な顔で笑う。隣では脱力してへたり込んでいた千里が、同じ目線の高さで心配そうに律を見つめる。
「無事で本当に良かったよ」
「ご迷惑をお掛けしました……」
千里は首を振る。
「わたしがあんなこと言ったから……。やっぱり言うべきじゃなかったのかもしれない」
俄かに智之の表情が固まるが、律にその理由は分からなかった。
「またあの家に戻らなきゃいけないんだ、って思った瞬間に頭の中がぐちゃぐちゃになって、それで……」
「あのさ、律ちゃん」千里に呼びかけられる。「もし良かったら、どうして時間が欲しかったのか聞かせてくれる? 話すと、楽になるかもしれないし」
「……はい」
自分の気持ちを一旦整理するためにも、律は心の中を吐き出してしまおうと思った。誰にも相談できずに溜め込んでいた言葉を、全て二人にぶつける。
「あたしが生まれる四年前、お父さんの姉の晴美伯母さんが突然うつ病になったそうです。まるで魂のない人形のようで、正確にはうつとは少し違うのかもしれませんが、医者は他に診断のしようがない、と。そんな伯母さんを、唯一の肉親だったお父さんが引き取りました。お母さんがそのことを知ったのは大分後、あたしを身籠っていた時だったので、婚約を取りやめることはしなかったそうです。……あたしはお父さんに遊んでもらった記憶がほとんどありません。昼は仕事、家にいるときはずっと伯母さんの世話に掛かりきりでしたから。お母さんはそんな生活にだんだんストレスを溜め込むようになって……捌け口にされたのが、あたしでした」
僅かな記憶の断片が形となり、言葉に変わっていく不思議な感覚。律はなおも言い淀まず続ける。
「お母さんは機嫌が良いときと悪いときの差がすごく激しくて、悪い方に傾くときは文句や愚痴から始まり、終いには物に当たったりあたしを叩いたり。落ち着くと『ごめんね』と謝りますが、小さい頃ならいざ知らず今となっては当然それで許せるわけもなく。でもお母さんを一概に悪者とは思えなくて、なら悪いのは誰だと考えた時、真っ先に浮かんだのが伯母さんでした。あの人さえ居なければ、と数え切れないほど恨みました。でもどれだけ恨んだところで何も変わらなくて、だったら逆に自分がいなくなってしまえばいいんだって思って、それであたし、包丁で腕を切ろうとして――」
思いを口にする瞬間に通過する胸が、ズキズキと痛む。だが千里と彰太は黙って聞いてくれている。それが救いだった。
「これが家での話です。学校でもあたしは浮いた存在でした。自覚していることはあたし、『ごめん』の言葉が大嫌いで。きっとお母さんのせいで、この単語が信用できないんです。小学生のときにはそれが原因で口論になり、いつしかいじめられるようにもなりました。……中学に入ってそのいじめは止まりましたが、それでも友達作りも上手くいかず。高校では頑張ってみようと思い勉強をしてたんですけど、そんな時期にクラスの中で誰が誰を好きだとか言う話題が流行りだして、あたしの名前が勝手に巻き込まれた結果ある人の恨みを買ってしまったようで、学校からも居場所が無くなってしまいました。あたしはどこに居ればいいんだろうって思ったら、こうするしかなくって――」
いつの間にか、律の頬を涙が伝っていた。驚きながらそれを拭い、一息吐いてから今の気持ちを告げる。
「この世界には伯母さんもクラスメートも居ません。本当にここで一生を過ごせるならそれでもいいけれど、やっぱりいつかは還らなきゃいけない、んですよね? 還ったらまた苦しい思いをさせられる。あんな気持ちをもう一度味わわされるくらいなら……やっぱり、死んだ方が――」
「それは違ぇよ!」
唐突に智之が怒鳴る。律はもちろん千里までもが身体を強ばらせ、驚いて彼を見た。その顔はまるで鬼のよう。
智之に睨みつけられて律は喉の奥で小さく悲鳴を上げる。しかしよく鬼の目を見ると、そこに敵意や罵倒といったマイナスの要素は微塵も感じられなかった。
「いいか? 思い通りにならないから死ぬとか簡単に言ってんじゃねぇ! そんなふざけた覚悟が、無駄な勇気があるんなら、現実に歯向かえ! 親にお前の気持ちをぶつけてみろよ! クラスメートにだったら仕返しするとか、じゃなきゃあと二ヶ月ちょっとの辛抱だろ! そいつらがお前を直接殺しに来るわけでもないのに、自分で自分の人生を棒に振るな! 死んだら何も変えられない。でも、どんなに辛い現実があっても死にはしない! ――だから生きて現実を変えろよッ!」
肺から全ての空気を吐き出しきった智之は、反動で大きく深呼吸をした。
彼の言葉は律の心を強く打った。反論の余地もない。律はずっと現状に対し、打破するのではなく耐え忍ぶか逃げ避けることでしか対応をしてこなかった。能動的に対処するのが怖かったから。下手なことをして今よりも酷い状態になりたくはない、と。怯え続け、溜め込み続けた結果が『死』という思想。
しかし、そう、さっき気付いた。死ぬことは何よりも怖い。多分、あのタイミングで女神が現れなくとも包丁の刃が手首を切断することはなかったのではないか、と想像できた。途中で怖気付いて中途半端な大怪我に終わっていたに違いない。
これまで自分が選んできた選択肢に正解がなかったとしたら、思いついても行動に移せなかった別の道を選択すればいい。死ぬ気でやれば、なんでもできる気がした。
「……ありがとう、ございます」そして律は決意する。「あたし、還ります」この思いを忘れないうちに、現実に戻ろうと。
千里と智之はそのいきなりの決断に大いに驚いた。感心、と言ってもいい。自然と二人は笑顔になる。
「そうだな、その方がいい」
「律ちゃんは、強いね」
「つ、強いだなんて……」
「この前還っていった人は、自分を決断ができない弱い人間だって言ってた。ってことは、律ちゃんはきっと強い人間なんだよ」
「そう、かな」
千里が笑って頷くので律は少しこそばゆさを感じ、顔を赤らめる。自分をそんな風に評価しようなどと考えたことがなかったため、褒められたことが気恥ずかしかったのだ。
その表情を隠すかのように、空から優しく光の柱が降りてきて律を包んだ。律は直感で、この光が狭間の現実を繋ぐ存在だと理解する。
『――貴方は、現実の世界へと還ることを望みますか?』
「はい」
『では還しましょう。あるべき世界へ――』
即答。躊躇う時間さえ惜しい。もし千里が教えてくれた狭間の決まりごとが本当で、狭間のことを忘れてしまうとしても、どうしてかこの意志だけは胸に残るというような、そんな根拠のない予感がした。
キラキラと輝きを増していく光の中で、律は叫んだ。もう彼女の目に、二人の姿は映っていないが。
「本当にありがとう、二人共! あたし、頑張ってみるから!」




