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千里、今や受験生。▲2014/01/03 21:49

「あーっ! こんなんじゃ間に合わないーっ!」

 勉強机に向かって髪をグシャグシャにかき乱す少女。周りの床一面には様々な教科の参考書類が煩雑に散らばっている。叫び疲れて目の前の壁をふと見やれば、一月十八日と十九日に赤丸の付いたカレンダーと、黄ばんだ半紙に書かれた『絶対合格!』の文字が追い討ちをかけるように彼女を苦しめる。

 少女は受験生だった。大学生活はさぞ楽しかろうと期待に胸を膨らませる、高校三年生。もちろん、そのためにはまず受験という最大の障害を乗り越える必要があるのだということくらい、先生たちに口を酸っぱく言われるまでもなく彼女だって理解している。

 志望校は難関校とのお墨付き。それでも少女の高校での成績からすると、合格の可能性は決して低くはない。但し、その評価は並大抵でない努力を試験の日まで怠らず続けることができた場合の話だ。一瞬でも気を緩めれば、あっという間に競争相手に追い越され椅子を奪われてしまう。全国でもこの大学にしかない、とある学部で学びたいと望んでいる少女にとってそれだけは避けなければならない事態だった。

 受験勉強に本腰を入れたのが昨年の秋。出遅れたスタートは軽視できないハンデになって、友人との成績競争や全国模試に反映される。せめてこの冬休みになんとしても挽回せねばならない、と気合を入れ直してみたはいいものの、

「時間足りない! もっと早くから始めれば良かったー!」

 今更悔いても後の祭りなのである。

 そんな折部屋の扉をノックした母親が、娘の悲鳴には呆れたと言わんばかりに「さっさとお風呂入っちゃいなさい」と呼びかけた。もうそんな時間かと時計を見上げ、あまりの時の残酷さに嘆息しつつ「はーい」と返事をする。

 学習内容が本当に頭に入っているかも分からず、自分で設定したノルマさえも達成できない日々が続き、ストレスも限界まで蓄積されている。こうして時々部屋で一人吠えるか、風呂に浸かるか、今やそのくらいしかリフレッシュの方法も時間も存在しなかった。だからついつい長風呂になってしまう。仕方ないもんね、なんて自分に言い訳をしてもやはり罪悪感は拭えず、そのせいで風呂から上がった後にリビングで感じた両親の視線に痛みを覚えるのだ。両親は普段それほど彼女に勉強を強要してこないのだから、今の無言の圧力は思い過ごしだと自分に言い聞かせる。気持ちに余裕がないから勝手にピリピリしちゃってるんだ、と。

「千里、どうした?」

「はいっ!?」

 リビングに隣接した自分の部屋に入ろうとした瞬間に、ソファに腰掛けてテレビを見ていた父に呼び止められた。声が変に上ずったことに赤面しながら、千里は父の方を向く。

「さっきの顔、いつものお前らしくないなって思ってな」

「う……そんなに酷かった?」

「ああ。まるで幼稚園の生活発表会の前みたいだ」

 父の言葉と皺だらけの笑顔は、千里に幼少の頃の記憶を思い出させた。生活発表会や父母参観日を始めとする、父が幼稚園に来る行事が嫌いだったこと。理由は、周りの友達の父の誰よりも、自分の父が老いて見えるから。事実、父はしばしば本来の年齢よりも二十は間違えられてしまう。それが恥ずかしくて、「パパは来ないで!」とイヤイヤをしていたのを微かに覚えている。娘に拒否されたときの哀しげな父の顔と一緒に。

 分別がつく歳になった頃に母に聞いたことには、父は千里が生まれる前は年相応の容貌だったらしい。千里は難産の子であり、一時は母子共々生死の境を彷徨った。そのときの安否を気遣うストレスが父の髪を白く染め、頬に皺を刻み込んだのだ。若かりし頃の父の写真を見てみたいとせがんだことも一度や二度ではないが、「見る必要は無い。千里のお父さんは今のお父さんなんだから」と頑なに嫌がるせいで、ついぞ知らないままなのだった。

 そんな他愛のない過去の思い出に、無自覚に強張っていた頬の筋肉が緩んでいく。

「疲れたら休んだっていいんだぞ。自分を追い詰め続けると、自分を見失うからな」

 千里は思いがけない励ましにポカンとし、何も言い返せなかった。

「お前はお前らしく、だ。じゃないと、世界にたった一人しかいないお前がいなくなってしまう」

 たったこれだけの助言でも、千里の心はすっかり楽になった。

「……ありがと、お父さん」

「どういたしまして。お前が辛そうにしてると、お父さんも辛くなるんだ。ま、気負わず頑張るんだぞ」

「うん」

 こうして昔から千里に気を掛けたり母の手伝いをしたりと、何かと父は世話焼きだった。いつでも見守られているのは時折うざったいと思わないこともないが、それにもまして愛を感じることができる。千里は大学合格の一報こそが父への大きな恩返しであると考えていた。

 部屋に戻った千里は、参考書を踏まないように回避しつつベッドに飛び込んだ。いつもなら午前零時を回っても勉強を止めはしないのだが、この日に限ってはそんな気力は起きなかった。代わりに明日はしっかりやるんだと決意して、心労を全て思考の外に放り出して即座に寝入った。

 久々の熟睡は、疲れきった千里の心身をとても回復させた。朝日を浴びて気持ちよく起床した千里は、食事等を済ませてすぐに勉強に取り掛かる。するとどうだ、自分でも驚くほどに勉強の効率が上がったことでノルマを軽々こなし、夕方までに前日前々日分の遅れをも取り返すことができた。これまでどれだけプレッシャーに束縛されていたか、身を以て気付かされたのである。

「よしっ」

 調子の良いときはその波に乗り続けよう。そんな考えのもとに解きかけの数学の問題集を、今日中に最後までこなしてしまおうと決める。これさえ完璧に理解できれば数学受験は安心だとまで噂される問題集だ。当然のように難問揃いで、できるものから解いていくだけで時間は過ぎて夜になってしまう。結局、いくつかの問は答えを見てさえちんぷんかんぷんであった。でも、諦めたくない。

 入浴を済ませ机に戻ったときの時刻は午後十一時。文字通り瞬く間に過ぎ去っていく時間が恨めしい。

 ほんの一瞬だけ、無理かもという言葉が脳裏をよぎる。するともう、ペンは少しも動かなくなってしまった。

 どの公式を使うの? どう計算するの? 何でこの答えになるの? そもそも設問の意味が、

「分からないよ……」

 時計の短針は頂点を過ぎた。これでは何もできないままだ。解けない問を残したまま受験をしようものなら、また不安に押し潰されてしまう。本番まであと二週間を切った。焦れば焦るほど頭は回らなくなる。どうしよう。どうしよう。時間が無い。

 もっと、

『――時間が欲しいですか?』

 自分でも家族でもない、誰かの声がした。

「だ、誰?」

 恐る恐る部屋の中を見回す千里の視界が、不意に真っ白に染め尽くされた。目を閉じても開いても、まるで太陽に灼かれたかのような白一色。寝ちゃったのかな、と頬を叩いてみると、やはり痛くない。夢なんか見てないで早く起きなきゃ。だけどどうやって?

 そして、もう一度声が響く。

『――時間が欲しいですか?』

「欲しいよ。だから夢から覚まして! 寝てる暇なんてないの!」

 我ながら変な夢だ。この謎の声に懇願すれば、すぐに起きられるのだろうか。

『あなたは何の為に、時間を欲しますか?』

 意図の読めない不思議な質問。答えは一つしかない。だが、それを答えたらなんだと言うんだろう。

 だけど、言うしかない。

「……もっと受験勉強をするために、時間が欲しい!」

 どうしてか自分の気持ちに正直になった方がいいような気がしたから。

 声の主の意図が判ったのは、そのすぐ後だった。

『ではお連れしましょう――時の狭間へ』

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