第2話
小高い丘の上に、ルパルナイ家の屋敷はある。その前を流れる川は、乾季にも豊かな水を湛えている。窓から町並みが一望できる部屋を、海兎と名乗る旅人には与えた。しばらくは逗留して貰うことになるだろう。この有り得ない来訪者の真意を見定める必要があった。
海兎が頭巾と外套を脱いだ。白くて、細い脚が露わになる。顔立ちは少女かと見まがうが、髪を伸ばしていないところを見ると、少年なのだろう。少なくともプリンシアの女たちは、誇らしげに黒髪を伸ばしている。それとも、異国では髪を伸ばす習慣すらないのだろうか。
レオルプは思い切って訊いてみることにした。
「失礼だが、君は男の子か?」
「はい。子という年でもありませんが」
どう見てもレオルプよりは年下だろうが、大人びた振る舞いから察するに、子供扱いされることには抵抗があるのだろう。可愛らしい外見も相まって、なんとも微笑ましく思えた。
さて、どう接したものか。海兎が二重の結界を破ってプリンシアに侵入したことは見過ごせない事実だ。
レオルプは窓の外を見遣った。
「君は、『暗い森』を抜けてきたと言ったね」
「はい」
「森には結界が張ってあった。余所者が森に入っても、ただ迷うだけで、やがては元の場所に戻ってしまう」
「小さな綻びがあったので、そこを抜けてきました」
如何に高度な結界を張ろうと、それが完璧な形で機能し続ける、ということはない。結界が綻ぶことはあるのだ。しかし、その綻びを見付けることは退魔術の心得がなければ不可能だろう。
「君は退魔師なのか?」
レオルプは振り向き、海兎の顔を見据えた。金色にも見える双眸を。
「たぶん、その類です」
海兎が退魔師に類する者だとしたら、よほどの天稟だ。
「つまり君は、結界が張ってあることを承知で、魔物が出るかも知れない森をひとりで抜けてきたということになるな」
「そうなりますか」
はぐらかすように海兎が言った。
「御覧の通り、この国には城壁がない。大軍を迎え撃てるような軍隊もない。治安維持のための近衛軍があるだけだ。この国を守っているのは、山と森と結界だ。その結界が破られた」
「結界の綻びは修復しておきました」
「そうだとしても、君がプリンシアに害を為す存在でないという保証はない。その外見だけでも人々を不安がらせるのに充分だが、不吉な予言までした。目的が明確でない君を、自由にさせるわけにはいかないんだ」
「はい」
海兎の顔からは笑みが消えていた。無垢な子供から笑顔を奪ってしまったような罪悪感を覚え、レオルプは目を逸らした。
「君の処遇について、最終的には評議会が決定を下すことになるだろう。それまで君は監視下に置かれることになる。とは言え、この屋敷内でなら自由に振る舞ってくれていい。執事には客として遇するよう言っておく」
「ありがとうございます」
海兎の声が微かに華やいだ。
礼を言われるようなことではないのだ。レオルプは左の拳を握り締めた。どうにも居たたまれない。
どう転んでも、海兎は自由の翼を失うだろう。結界を通り抜けられるほどの退魔師を、評議会が黙って帰すとも思えない。海兎は、敵に回せばプリンシアにとって脅威となるのだ。国外追放というような甘い措置が待っているはずはなかった。
良くて軟禁。悪ければ、間諜か異端者として始末される可能性も全くないわけではない。
王太子といえども、レオルプには七人評議会に意見するだけの発言権は認められていなかった。肩書きは飽くまでも水道局副長官でしかないのだ。
「私は仕事に戻る。夕刻には帰れると思う。何か言いたいことは?」
自ずと事務的な口調になった。自然に振る舞えている自信もなかった。今の自分を遠目から見られるなら、さぞかし滑稽だろう。
「収穫を急いだほうがいいと思います」
「嵐は本当に来るのか?」
「九分通り」
「残り一分は?」
「神のみぞ知る、です」
「君は、作物の心配よりも自分の心配をしたほうがいい」
レオルプは、海兎の顔を見ずに部屋から去った。




