第1話
収穫の季節が近付いていた。感謝祭には豊作を祝う舞が奉納されることだろう。用水路を掘る作業に従事しながらも、男は好天に感謝した。春先に生まれた息子も元気に育っている。何もかもが恵まれた年になりそうだった。
プリンシア王国。三方を山に囲まれた小国である。西には「暗い森」がどこまでも続いている。異国の民が訪れることはなかった。
異国の民は瞳の色さえ違うと聞くが、自分の目で確かめなければ信じがたい話だ。単なる御伽噺なのかも知れない。瞳の色が違うなど、まるで魔物のようではないか。さぞかし恐ろしい形相をしているのだろう。
「何をなさっているのですか?」
不意に、柔らかな声が降り注いだ。旅人だろうか。頭巾を目深に被っているが、口許は微笑んでいるようにも見えた。ずいぶんと白い肌だ。まるで、ずっと日差しを避けてきたかのような。
プリンシアに点在する十二の遺跡を巡る旅が流行っていると聞く。正しい順序で巡ると幸運が訪れるという話だった。その最終地点が、王都の近くにある。若い旅人も珍しくはなかった。
「見て分からんかね。用水路を掘ってるんだよ。こういう工事は雨が少ない時期にやらなきゃならねぇんだ」
「でも、もうじき嵐が来ますよ」
「いい加減なことを言って大人をからかうもんじゃない。こんなに晴れているだろう。この天気、あと十日は続くだろうぜ。だいたい、こんな時期に嵐なんか来られたら作物は壊滅だ。これからが収穫の本番だって言うのによ」
さすがに手を休め、改めて旅人を見遣った。ちょうど、息抜きをしたいと思っていた頃合いでもあるのだが。
「それなら収穫を急いだほうがいいと思います」
「だから、嵐なんか来るかよ。今、急いで収穫したら、収穫量が減っちまうだろうが。特に葡萄なんてよ、慌てて収穫なんかしたら味まで変わっちまうんだよ。この辺りの畑で取れる葡萄は、王様に飲んで貰う葡萄酒になるんだぜ。半端なもんは造れねぇ」
徐々に人が集まってきた。工事に携わっている者の多くが、何に引き寄せられたのかゾロゾロと。どうやら一息つく口実を作ってしまったようだ。その中には、工事の現場指揮を担当している王太子レオルプの姿もあった。
たまに悪戯っぽい笑みを浮かべる十八歳だが、しっかりしている。まず、作業工程に無駄がない。見習いとして十四歳の頃から現場をウロチョロしていただけのことはある。それ以上に、柔軟な対応が目に付いた。現場の声を、とにかくよく聞くのだ。彼の下で働いた者は口を揃えて、いい王になるだろう、と言った。
ちょっとした騒ぎになっているようだった。原因は、白い頭巾と外套を纏った旅人か。足許の汚れ具合を見ると、長旅であることが窺える。しばらく雨は降っていないから、最東端の村から歩いてきても、そんなには汚れないはずなのだが。大人の脚で五日の行程である。最西端の村なら三日で着く。
レオルプは、遠巻きに眺める男の肩を叩き、輪の中心へと歩を進めた。周りから、若、と聞こえる。昔は「レオ坊」だったことを思えば、ずいぶんな昇格だ。文句は言うまい。
「何を揉めてるんだ?」
「あ、若。いえね、この子が嵐が来るなんて言うんですよ。まあ、子供の言うことなんで、気にしないでやってください」
「子供?」
確かに小柄だ。周りの男たちと比べると頭ひとつくらいは違う。
「おい、若の前では被り物は取りなさい。この方は、レオルプ・ラパル・ルパルナイ王太子殿下だ」
男が、レオルプを紹介した。その通りなのだが、畏まられることに慣れていない所為か、居心地が悪い。水道局の副長官という肩書きすら、まだ少し重荷に思えた。いつか王になったら、どれほどの重荷を背負うことになるのだろう。
「失礼いたしました」
振り向いた旅人の所作が、妙に洗練されているように思えた。その小さな違和感も、頭巾が取られたことで消し飛んだ。
陽光を受けて輝く金色の髪だった。瞳も、金色に近い山吹色。なんという色彩だろう。これが、人の持つ色だろうか。美しいとさえ思える。しかし、異端者だ。
瞬く間に動揺が周囲に広がる。無理もない。プリンシアにはない色だ。異国の民だとすれば、「暗い森」を抜けてきたというか。有り得ない話だ。森には二重の結界が張ってある。幻術結界と破魔結界がプリンシアを外敵から守っているのだ。
「済みません。強い光に弱いので、あまり目を開けていられないのです」
微笑むと、旅人は目を閉じた。
「頭巾を被ってもいい。いや、そうしてくれ。君の風貌は、人目を引きすぎる」
「招かれざる客、というわけですか。承知していましたが、面と向かって言われると……」
旅人の表情が微かに曇った。
「まず、君の名と、どこから来たかを知りたい」
「海兎。西から来ました。森を抜けて」
どうやって結界を抜けてきたかは、あとで語って貰うことになるだろう。それよりも、この場を収めるほうが先だ。
「どうして嵐が来ると思うんだ?」
「空を司るもの、鳥や羽虫たちがそう言っています。それに、匂いも」
厄介な話だ。鵜呑みにするわけにもいかず、無視するわけにもいかない。よくよく慎重な判断が求められるだろう。
「分かった。ひとまず屋敷で話を聞こう。君は、日に当たっていると溶けてしまいそうだから」
つい口から出た言葉だった。冗談を言ったつもりはなかったが、海兎の口許が綻んだ。