転生したら気弱な公爵夫人だった。とりあえず、一発殴っていいかしら?
(とっっても頭が痛いわ)
目を覚ましたら、頭が非常に痛かった。目の前の光景に何度も瞬きをする。
「奥様、階段から落ちたのですからまだ横になっていらしてください」
泣きそうな顔をした侍女が心配そうにわたくしに近寄ってくる。
階段から落ちた。
そう、そうだった。
わたくしはゆっくりと自分の手を眺めた。公爵夫人らしく、白くて細く、美しい手だ。
(これはいわゆる転生ってやつなのかしら)
わたくしの頭の中にふたつの人生が入っている。深夜のコンビニでプリンを買って帰る途中に自転車ごと転んだ女の記憶と、公爵夫人の記憶がどちらも自分のものとして流れ込んでくる。
(え、あそこで死んだの? そう……)
あまりにも呆気ない。そして、仕組みは分からないがイレーヌとしてここにいる。
「奥様、医師を呼んでおりますので」
「ありがとう」
それにしても、と流れ込んできたばかりの記憶を眺めてみて、わたくしは少しばかり唸った。
イレーヌ・フォン・シュテルンハイムという人は、この屋敷で自分から何かを決めたことがほとんどない。誰かがこうしましょうと言えば頷き、誰かが困った顔をすれば引き下がり、言い返したことも言いつけたことも数えるほどしかない。
そして、特に夫との間に重大な溝があった。
使用人たちはイレーヌを優しいというが、気弱なだけだった気もする。
「母様!」
突然扉が開いたかと思えば、煌びやかな少年が飛び込んできた。
「ご無事ですか、母様。階段から落ちたと聞いて驚きました!」
薄い金の髪に、青灰色の目。息を切らして寝台の脇に膝をつく少年を、わたくしは知っていた。ヴィルヘルム。十五歳。わたくしの息子だ。
顔を見た途端に、この子にまつわる記憶がまとめて流れ込んでくる。生まれた日のこと、熱を出した夜のこと、初めて馬に乗った日のこと。他のどの記憶より鮮明で、他のどの記憶より数が多い。
(イレーヌはこの子をとても大切にしていたのね)
「平気よ。頭を打っただけ」
「よかった。母様、ロレッタが心配して泣いています」
安堵の顔をする息子の口から出てきたのは、ヴィルヘルムの従姉妹で、わたくしをおば様と呼ぶ娘の名前だった。好きなときに公爵邸へ来て、我が家のように寛いで帰っていく。
イレーヌはその子にも随分気を遣っていたみたいだ。
「ヴィルヘルム。わたくしが階段のところにいたとき、誰かそばにいた気がするのだけれど」
わたくしは頭を押さえながら、ぼんやりとした記憶を辿る。アデラインを叱ったところまでは思い出せるのだが、その後がはっきりしない。
「アデラインです。階下へ駆け下りて、侍女を呼んだと聞いております」
「ああ、そうだったわね」
侯爵令嬢で、ヴィルヘルムの婚約者。公爵夫人となるための教育をするという名目で、イレーヌが月に幾度かこの屋敷へ呼びつけている娘だ。真面目で、礼儀正しくて、出された課題は必ず仕上げてくる。
もっとも、呼んでおきながら教えたためしがない。決まってその日にロレッタが現れ、おば様お茶にいたしましょうと言い、そのままサロンで茶会が始まってしまうからだ。アデラインには課題だけを渡して、書庫へ。
毎度のことだったようだ。
(ええと、イレーヌもそれはどうかと思うわ……)
自分(?)のことながら頭が痛い。いくら流されやすいからって、かつてのイレーヌの行動も色々と問題ありだ。
「母様。実はロレッタが、気になることを申しております」
そこで息子の顔が険しくなった。
「あら、そうなの。ロレッタはまだいるの?」
「ロレッタもアデラインも応接間にいます」
「では、二人ともここへ通してちょうだい。あなたもいなさい」
「アデラインもですか?」
ヴィルヘルムが、本気で不思議そうな顔をする。
息子の話を鵜呑みにしないのが、そんなに珍しいのだろうか。いや、確かに珍しいかも。
「ええ、もちろんアデラインもよ。わたくしはこのとおり動けませんから、話はここで伺います」
*
「母様。二人を連れてきました」
ほどなく、扉が開いた。
先に入ってきたのはヴィルヘルムで、その腕ではロレッタを支えている。ピンクブロンドの髪をふわりとハーフアップに結い上げた彼女が、息子の腕に半分もたれかかるようにして肩を震わせていた。
その後ろに、もうひとり。
栗色の髪のアデラインが扉のすぐ内側に立っていた。顔が真っ青で、両手を前で固く重ねている。
(ちょっと待って)
息子が支えているのは従姉妹で、扉の前に置き去りにされているのが婚約者だ。順番がまるきり逆ではないか。
(うちの息子、なんで婚約者を放ってそっちとベタベタしてるのよ)
しかもロレッタは寝台の脇の椅子に座らされ、ヴィルヘルムがその傍に立ち、アデラインには誰も椅子を勧めない。こういう配置が、この屋敷では当たり前だったのだろう。最悪すぎる。ますます頭痛がしてきた。
「イレーヌ様。お身体は、もうよろしいのですか」
「ええ、平気よ。アデラインに椅子を。早くして」
「は、はい、かしこまりました!」
わたくしがテキパキと指示をすると、アデラインだけでなく皆が息を呑む。
アデラインが浅く腰を下ろしたところで、今度はロレッタが立ち上がった。
「あ、あのっ、おば様。わたし、わたし」
「ロレッタ、なにかしら?」
「いえ、やっぱり言えません。こんなこと、申し上げてはいけないのだわ」
ロレッタは芝居がかった台詞を言うと、両手で顔を覆ってしまった。
「ロレッタ。言いなさい。母様に隠し事をするものではない」
ワッと泣き出したロレッタの背中を、ヴィルヘルムが心配そうにさすっている。なにかしら、これ。
息子がそう言ってしまえば、ロレッタは無理に言わされた形になる。実際には言いたくて仕方がなかったとしても。
「わたし見たのです。アデラインさまが、おば様を、押したのです」
その言葉にアデラインの肩が跳ねる。
「違います、私はやっておりません」
「ではなぜそこにいたんだ!」
声が震えているアデラインに対して、ヴィルヘルムが声を荒らげる。何こいつ。本当に……。
「私は、イレーヌさまがお呼びだと聞いて、階段を上がっただけです。押してなどおりません」
「母様が君を呼ぶわけがないだろう! そこで言い争いになって、腹を立てて手が出たのではないか」
ヴィルヘルムはロレッタをかばうように、一歩前に出ている。ロレッタはくすんくすんと鼻を鳴らしている。
「違います! 私は謝って、すぐに階段を下りようとしました。振り返ったときには、もうイレーヌさまが落ちていらして」
「ロレッタが嘘をついているというのか!?」
「ですが……!」
「お待ちなさい」
わたくしが言うと、三人が同時に黙った。
ようやく、階段から落ちる前のことを思い出した。
お茶会の場にアデラインが来ていると聞いて、わたくしはサロンを出たのだ。何故呼んでもいないのに来たのかと言うために。
あの子はわたくしから呼ばれたと言っていたが、イレーヌは呼んでなどいない。書庫に戻るようにと告げたらアデラインは顔を青くして謝り、階段を下りていこうとした。そして、イレーヌはその直後に落ちた。
叱られた娘が逆上して義母を突き落とす。筋としてはよくできている。何より、叱ったのが事実である以上、わたくし自身が証人だ。
「ロレッタの話はわかりました」
そう言うと、ヴィルヘルムとロレッタの顔がぱあっと明るくなり、対照的にアデラインの顔色は悪くなる。この話はここで結審だと思ったに違いない。
「では次に、アデラインの話を聞きましょう」
わたくしの言葉に、部屋が静まり返った。
侍女たちまで目を見開いている。この家でアデラインの話が聞かれたことなど、一度もなかったのだろう。
(ずいぶんなことをするのね、イレーヌ)
ひとつため息をつく。見て見ぬふりを続けてきたのだ、わたくしは。
もう頭だけじゃなくて胃も痛くなってきてしまった。
「アデライン。あのとき何があったのか、あなたの口から説明してごらんなさい」
「母様。もうロレッタの話で十分ではありませんか。これ以上アデラインに喋らせても」
「ヴィルヘルム」
言葉を遮るヴィルヘルムを、わたくしはキッと睨みつける。イレーヌが口出しすることがよっぽど想定外なのだろう。
「わたくしはロレッタの話はわかったとは言ったけれど、それが正しいと認めた覚えはないわ。片方の話だけで決めるのなら、話を聞く意味などないでしょう」
「ですが」
「わたくしにはアデラインから話を聞く義務があり、この子には話す権利があります。それとも、この家では違うのかしら」
「そ、そんなことは…………ありませんが」
ヴィルヘルムが口を開いて、そのまま閉じた。
その様子を一瞥して、わたくしはアデラインに向き直る。
「アデライン、どうぞ仰って。あなたの身に起きたことをひとつずつ。焦らなくていいわ」
「は、はい。……書庫におりましたら、侍女の方が参りまして。『イレーヌさまがお呼びです、サロンへお越しください』と言いました」
「そうね。あなたは呼び出されたと言っていたわ。どの侍女かしら」
アデラインがそっと視線を動かした。その先に、壁際で控えている娘がいる。ロレッタが屋敷に来るときにいつも連れてくる侍女だ。
「あなたね。わたくし、アデラインを呼んだ覚えはないのだけれど、どういうことかしら」
尋ねると、侍女の顔から色がなくなる。まさか追及されるとは思っていなかったのだろう。この気弱だった公爵夫人に。
「も、申し訳ございません。聞き間違えたのでございます。私の不注意でございました」
「聞き間違い。ずいぶんと都合のよい耳をお持ちなのね」
呼ばれたと言われて、アデラインは書庫を出たのだ。お茶会に招かれたと思ったのだろう。だから急いで階段を上がってきた。
そこでイレーヌに、なぜあなたがここにいるのと叱られた。
わたくしは胸元を押さえた。息が詰まる。わたくしがやったことだ。苦しい。
「イレーヌさま! やはりお加減が悪いのでは。ゆっくりお休みになってくださいませ」
真っ先に立ち上がってイレーヌを心配してくれたのは、今まさに突き落としたと疑われているアデラインだった。
ここで話を終えれば、自らの嫌疑は晴れないというのに。
(なんていい子かしら……)
「平気よ。座ってちょうだい、アデライン」
わたくしは息を整えて、顔を上げる。
この子のためにも、一度ここで皆に釘を刺すべきだと思えた。
「アデラインが押すところを見たということは、ロレッタ、あなたも階段のそばにいたのよね。どうして? サロンでお茶をいただいていたはずでしょう」
「えっ? それは、その、外の空気を吸いに……」
「わざわざ同じ時に?」
「わたし、その、気分が悪くて」
「母様!」
しどろもどろになるロレッタを庇って、ヴィルヘルムが声を上げる。本当にこの息子はもう!
「まさかロレッタを疑っているのですか。この子は何もしておりません」
「ではあなたに伺います、ヴィルヘルム。わたくしが落ちたとき、ロレッタはどこにいたの。正確に答えなさい」
「それは」
「正確に、と申しました」
息子の視線がさまよった。ロレッタを見て、わたくしを見て、それから床に落ちる。
「階段の、上です」
ロレッタがヴィルヘルムの袖を掴んだ。爪が食い込むほど強く掴んだのが、こちらからも見えた。
話しているうちに、わたくしの記憶も少しずつ戻ってきた。
確かにあのとき、階段の上にはアデラインとロレッタの二人がいたように思う。
「つまり、わたくしが落ちたとき階段の上にいたのは、アデラインとロレッタの二人。そういうことになるわね」
「で、でもわたし、見たんです。アデラインさまが確かに手を伸ばすのを」
「そう。ではもうひとつ伺うわ。あなたのほかに、それを見た者はいるのかしら」
「わ、私が見ておりました」
声を上げたのは、先ほどの侍女だった。
「間違いなく、アデラインさまがお手を伸ばしておられました」
「あなたはどこにいたの?」
「階下でございます。アデライン様をお呼びしたあとでしたので。なので、はっきり見えました」
「階下から、ねえ……」
わたくしは屋敷の構造を思い出す。それから階段から落ちる直前の配置を。
「我が家の階段は途中で折れているでしょう。踊り場から上は、下からは見えないはずよね」
侍女の唇が動いて、音にならずに止まった。
「見えない場所のことを、間違いなく見たと言うのね。先ほどは聞き間違い、今度は見間違いかしら」
「それは、あの」
「あなたのお話は信用ならないわ」
ピシャリと言い切ると、部屋に沈黙が落ちた。
誰も口をきかない。ロレッタの肩が小刻みに動いている。
「あっ」
小さな声がした。
ロレッタがふらりと傾いで、椅子の背に手をついている。額を押さえ、目を閉じて、いかにも今にも倒れそうに。
(出たわ。都合が悪くなると目眩を起こすやつ!)
前世でも見たことがある。追い詰められた人間が、決まってこのタイミングで具合を悪くするのだ。ちなみに医者を呼ぶと言った途端に回復する。
「ロレッタ! 母様、この子は身体が弱いのです。もうこのくらいでお許しください」
(ほらきた)
「まあ大変。ではお医者様を呼びましょうね。ちょうどいらっしゃる頃だわ」
「え」
「ヴィルヘルム、あなたは廊下でお医者様をお待ちなさい。ロレッタは奥の部屋で横になっていただいて。お話の続きは、ロレッタのお加減がよくなってからにいたします」
ロレッタの目が開いた。額を押さえていた手が、そろそろと下りていく。
「い、いえ。もう平気ですので、どうかお構いなく」
「あら、よかった」
わたくしは微笑んだ。
「でもそうね、確かにこの件は終わりにいたしましょう」
そう言ったら、ロレッタの顔に隠しきれないほどはっきりと安堵が浮かんだ。
いつものイレーヌならば、早めに丸め込まれていたことだろう。
(分かりやすい子ねえ)
逆に清々しいかもしれない。どうしてこれにヴィルヘルムが騙されているのかは分からないが、まあ古今東西そういうものなのだろう。
わたくしは座ったまま背筋を伸ばす。
「ロレッタの証言だけでは、アデラインが押したと決めつけることはできないわ。わたくしが足を滑らせたことにします」
「えっ」
「それとロレッタ。今後、我が家への勝手な訪問は許しません。事前の連絡などきちんと手順を踏みなさい」
「そんな、どうしてですか。わたし、ヴィルヘルム様の従姉妹ですよ。マクシミリアン様の姪です!」
夫の名が出たことに、わたくしも少しばかり動揺する。
マクシミリアン・フォン・シュテルンハイム公爵はこの家の主で、わたくしの夫である。
ここ数年は領地だ王都だと飛び回っていて屋敷にいる日の方が少ない。
それ以前に、十数年まともな会話をしていない気がする。
「だから?」
夫の名を出せばわたくしが怯むと思ったのだろうか。あっけらかんとそう言ったら、ロレッタは漫画のように口をぽかんと開けていた。
「この家の女主人はわたくしです。毎週のようにあなたの気まぐれに公爵夫人の予定を合わせるのが、正しいことだとお思いかしら」
「わ、わたし、そんなつもりは」
「それに、わたくしは階段から落ちて具合が悪いの。しばらく静養するからこちらから連絡するまで顔を出さないでちょうだい?」
「……っ」
ロレッタは何か言いかけて、結局言葉にならないまま、侍女に連れられて出ていった。
*
扉が閉まる。部屋に残ったのは、息子とアデラインと、わたくしだけになった。
「ヴィルヘルム。こちらへいらっしゃい」
息子が寝台の脇まで来る。
「あなた、今日なにをしていたの」
いつもと違う母の様子を感じ取ったのだろう。ヴィルヘルムは背筋を伸ばして緊張した顔をしている。
「こ、公正に事実を明らかにすべきだと思いました」
ヴィルヘルムの口から出た言葉は、やけに立派に響いた。わたくしは掛布の上で手を握る。
公正とはよく言ったものだ。この子は一度だってアデラインの話を聞いていない。
「ヴィルヘルム。とりあえず、一発殴っていいかしら」
「へ」
「歯を食いしばりなさい」
パーン、と乾いた音がした。
「ヴィルヘルムさま! い、今のは、イレーヌさま、どうして」
わたくしの平手打ちに、真っ先に動いたのはアデラインだった。椅子から跳ねるように立ち上がり、息子の傍へ駆け寄って、それからおろおろとわたくしを見上げる。
ヴィルヘルムはというと、アデラインに庇われながら、親父にも殴られたことがないという顔をして呆然としていた。
「ご覧なさい、ヴィルヘルム」
息子が頬を押さえたまま、わたくしを見つめる。
「あなたがロレッタばかり庇う間、アデラインはひとりで闘っていたのよ。それなのに、あなたが叩かれたら真っ先に駆け寄ってくる優しい子だわ。そしてあなたは、その優しい子を何年も傷つけてきたのです」
「僕は、そんなつもりは」
「つもりで済んだら警察はいらないのよ!」
「けいさつ」
「それは公正とは言わないわ」
ヴィルヘルムは答えなかった。答えられなかったのだと思う。
息子の視線が、隣に立つアデラインへ動いた。そのまま、動かなくなった。この子が婚約者の顔をまともに見たのは、もしかしたら今日が初めてかもしれない。
そして、そういう子に育てたのはイレーヌだ。息子ばかりを責められない。
「アデライン。驚かせてしまったわね、ごめんなさい」
「い、いえ、そんな」
「けれど、あなたに謝りたいのはそのことではないの。アデライン、ごめんなさい」
「頭を上げてください、イレーヌさま!」
寝台の上で土下座をすると、悲鳴のような声が上がる。
「わたくしは、あなたを書庫でひとりにしていたこと、本当に申し訳なく思うわ。ロレッタが来るたびにあなたの席がなくなることも、知っていて、何も言わなかったのです」
アデラインは何も言わなかった。しばらくして、目のふちを赤くしたまま、首を横に振る。
「あなたにどう償えばいいのか、わたくしにはまだ見当もつかないの」
わたくしがそう告げると、アデラインはハッとした顔をする。それから、指先で袖口をいじりはじめる。
「で、でしたら、あの、ひとつだけお願いがございます」
「なにかしら。宝石でも領地でも構わなくてよ」
「そんな、とんでもございません。あの、私と一緒にお茶会をしていただけませんか」
「え……?」
そんなことで、と思いかけて、止まった。
ロレッタとは何度お茶を飲んだか分からない。ではアデラインとは。婚約が結ばれてから、この子とまともに話をしたことが一度でもあっただろうか。
「ええ! もちろんよ! 今すぐやりましょう!」
「奥様」
わたくしの言葉を、侍女が遮る。
「本日は階段からお落ちになったばかりでございます。御手も腫れておられます。すぐに冷やしませんと」
「あら、本当だわ」
言われてみれば、後頭部がまたずきずきしてきた。それにか弱すぎる手でヴィルヘルムを殴ってしまったことで、手が赤く腫れてしまっている。
「まあ、アデライン。申し訳ないけれど、日を改めてもよろしいかしら。一週間後はいかが。ヴィルヘルムもいいわね」
「は、はい」
「楽しみに、しています」
アデラインが、今度こそ笑ってくれた。その愛らしい笑顔に、わたくしは胸がきゅんとなった。
*
医師の診立ては、しばらく安静に、というものだった。言われるまでもなく、横になった途端に眠り込んでしまったらしい。
浅い眠りのなかで、扉の開く音がした気がした。
近づいてくる足音は、聞き覚えがあるような、ないような。寝台の脇で止まって、しばらく動かない。
「……こんなに腫れて。イレーヌ、無茶をしすぎだ」
それから、頭にそっと手が触れた。髪を崩さないように気をつけた、遠慮がちな撫で方だ。
二度、三度。何か言いかけたような息づかいがあって、結局それは声にならず、足音は静かに遠ざかっていった。
(…………なにかしら)
ぼんやりとそう思って、目が覚めたときにはもう朝だった。
誰かに撫でられた気がしたけれど、まあ夢でしょう。この屋敷で、わたくしの頭を撫でる者などいるはずもない。
身を起こすと、窓辺に花が飾られていた。白と淡い青の、朝に摘んだばかりの花だ。
(そういえば、この部屋には毎日お花があるのよね)
誰が活けているのか、イレーヌは一度も尋ねたことはなかった。綺麗だから、いいことだ。
***
アデラインと約束した茶会は、庭の東屋で開いた。
最初のころ、ふたりはひどくぎくしゃくしていた。ヴィルヘルムは何を話せばいいのか分からず、アデラインはいつ立たされるか分からないといった様子で、椅子に浅く腰かけたままだった。
それが今では、こうである。
「その、アデライン」
「はい?」
「この焼き菓子、幼い頃は好きだった、よな……?」
ヴィルヘルムがアデラインにぎこちなく皿を差し出す。
「あ、ありがとうございます。……好きです」
「そうか」
それきり会話が途切れた。けれどアデラインは笑っているし、息子の耳は赤い。
こちらがむず痒いけれど、若人を眺めながら飲むお茶はおいしい。
(そういえば、ロレッタの件についてはあちらから正式な謝罪文が来たのよね)
これまでの振る舞いも含めて非常に丁寧な謝罪で驚いた。
ロレッタはしばらく領地で礼儀作法を学び直すことになり、わたくしが許すまで王都には戻さないと書いてあった。夜会に茶会に観劇にと、年頃の娘にとって一番華やかな季節である。着飾って人前に出るのが何より好きなあの子が、それを領地で指をくわえて眺めるしかないのだから、さぞ苦痛だろう。
例の侍女の方は、紹介状なしで暇を出されたらしい。貴族の屋敷勤めで紹介状がないというのは、どこかで何かをやらかしたと自分で言って回るようなものだ。まして公爵夫人に偽りの呼び出しをかけ、偽りの証言まで重ねた侍女の話は、使用人同士の噂であっという間に広まる。まともな家に雇われることは、もうないだろう。
どちらも、自分で蒔いた種である。
それにしても、随分と手際のいいことだ。わたくしはしばらく顔を出さないでと言っただけなのに、まるで何かの力が働いているような。
まあ、片づいたのならそれでいいけれど。これ以上、手を出さずに済んでよかったわ。次に顔を合わせていたら、危なかったもの。
何しろこの手は、息子をひっぱたいただけで腫れ上がるのだ。この先に備えて、少し鍛えておいた方がいいかもしれない。
そんなことを考えながら視線を戻すと、アデラインが何か話していて、ヴィルヘルムがそれにじっと耳を傾けていた。相槌はぎこちないけれど、途中で口を挟んだりはしない。
(ヴィルヘルムもヴィルヘルムなりに、アデラインへ謝りに行ったそうだしね)
何をどう言ったのかは知らないけれど、許してもらえたようだ。
アデラインには、こちらの有責で婚約を解消することもできると伝えた。けれど、固辞された。どうやらこの子は、あの不器用な息子を好いてくれているらしい。
(次に同じことをするようなら容赦しないわ)
三年かけて拗れたものが、たった数回のお茶で元に戻るわけもない。けれど、ぎこちなく菓子を勧めたり、途切れた会話に困ったりしているところを見ていると、この二人にはまだやり直せる余地はあるように思えた。
若い二人だ。焦ることはない。
*
夫のマクシミリアンと会ったのは、その夜のことだった。珍しく早く帰ってきている。
「……イレーヌ」
「あら、おかえりなさい」
廊下ですれ違いざまに呼び止められる。
「……」
夫はそこで黙った。長い。壁の燭台がぱちりと鳴るくらい、長い。
「…………その、どうなんだ、最近は」
ようやく絞り出された言葉がそれだった。
思わず笑いそうになってしまう。
(なんなのかしら、娘と久しぶりに話す父親みたいな台詞は)
「そうですわね……」
言いたいことなら、たくさんある気がする。
イレーヌがずっと呑み込んできたものだ。問題はロレッタの件だけではなく、この人には愛人がいて、その相手は幼馴染の令嬢で、その存在はことあるごとにイレーヌを傷つけてきた。夜のことも、大奥様のことも、この十数年のことも、何ひとつ聞けないまま来てしまった。
けれど、記憶を辿ってみて気がついた。
この人から避けていたのではない。話しかけられても俯いて、目を合わせず、当たり障りのない返事だけをしていた。出来るだけ家でも夫に会わないように避けていたのは、どう考えてもイレーヌの方だ。
(ずいぶん長いこと、逃げ続けたものね)
どこから手をつけたものか。
「ちょうどよろしいわ。旦那様に少しお話がございますの。お時間をいただけるでしょうか?」
夫が目を見開く。息子とそっくりな顔だ。
どうせ話したところで、この人はろくに答えないかもしれない。それならそれで構わない。聞くだけ聞いて、それから決めればいい。
(まあ、何かあってもわたくしにはコレがあるしね)
「もちろんだ」
「では、よろしくお願いいたします」
浮気男だった場合、一発殴ってもいいかしら。
そう決意して、わたくしは拳を握りしめた。
***
それからのことを少し。
結論から言うと、夫は浮気などしていなかった。長年ささやかれていたあの噂は、ぜんぶ幼馴染の令嬢がひとりで流していたものだったのだ。圧倒的な対話不足とお互いを思うがための究極のすれ違い過ぎた。
ではわたくしの拳はどうなったかというと、不甲斐ない自分を殴ってくれと夫が言うので、結局遠慮なく一発殴ることになった。
長年の誤解が解けたわたくしたちはそこから会話が増えるようになったのだけど、まあ、それはまた別の話ね。
おわり
お読み頂きありがとうございます!
すぐ手が出てしまいそうになるパワフルヒロイン(でも身体はか弱い)でお送りしました。
婚約破棄案件を呼び込む息子を制裁(?)する母、楽しんでいただけたら幸いです。
感想や評価★★★★★などいただけると元気になります!!!
*ロレッタや侍女についての内容を加筆しました




