末期がんで病床に伏す私から、夫は愛人を救うために血を採った
骨肉腫の末期だと告げられた日、私は病院の洗面所に一人で長いこと座っていた。がんはすでに肺へ転移している。積極的な治療を続けても望める時間は限られていて、身体への負担を抑えたいなら、痛みや苦しさを和らげながら過ごす方法もあると医師から説明された。
余命半年とは、はっきり言われなかった。
でも、分かった。
冬城市立がん医療センターを出たあと、駅前の小さな店で苺のショートケーキを一つ買った。急に玲司に会いたくなったからだ。自分がもうすぐ死ぬことを伝えたかったわけじゃない。ただ、十年以上そばにいて、六年間夫だった人に、ほんの十分だけ一緒にいてほしかった。
神代ホールディングスの本社へ行くと、玲司はオフィスで若い女性のためにハーブティーを淹れていた。相楽ひなの。グループ会社で働いていて、私も何度か顔を見たことがある女性だった。
少し溶けかけたケーキの箱を抱えたまま、私はドアの前に立った。
「玲司、少しだけ外に付き合ってくれない? 十分でいいの」
玲司は顔も上げなかった。
「紬、今日は本当に忙しいんだ。最近どうしたんだよ。気分が沈んでるだけなら、自分で少し気晴らししてくれないか。俺の時間は、そういうことに使えるほど余ってない。十分どころか、一分だって無理だ」
喉の奥が詰まったようになった。
私はそれ以上何も言わず、一人で川辺へ向かった。溶けたケーキを少しずつ食べながら、夜遅くまでそこに座っていた。
帰ろうと立ち上がった時、昼間玲司のそばにいた女が見えた。
ひなのは玲司を見上げ、キスを求めるように顔を近づけていた。
玲司は顔を伏せた。
避けなかった。
1
若い頃、玲司は「一生、紬だけを愛する」と言った。
私はその言葉を十二年も信じていた。
あの夜まで。
気づけば、私は二人の前まで走っていた。玲司は私を見ると一瞬だけ動きを止めたが、その戸惑いはすぐに苛立ちへ変わった。
「紬、自分が今どんな顔してるか分かってる?」
髪は風で乱れ、痛みと疲労で顔色もひどかったと思う。でも、そんなことはどうでもよかった。
私はひなのだけを見た。
「その人、誰?」
玲司は数秒黙ったあと、もう隠すつもりはないというように口を開いた。
「ひなのは妊娠してる。俺の子だ。もう六か月になる。この子は産んでもらう」
そう言って、玲司はひなののために助手席のドアを開けた。
私はその場に立ち尽くした。
ひなのは車に乗り込む直前、わざわざこちらを振り返った。
「紬さんも乗らないんですか?」
人を侮辱する言葉を、あんなに柔らかく言える人を、私は初めて見た。
車が走り去ると、私はゆっくり道路脇に座り込んだ。空から雪が降り始める。
去年の初雪の日、玲司は私の手を握りながら、「このまま二人で雪をかぶったら、一足先に白髪になるな」と笑っていた。
たった一年で、人はここまで変わるらしい。
香月市郊外の神代邸へ戻った頃には、すっかり夜になっていた。玲司はリビングで煙草を吸っていて、私が咳き込むとようやく火を消した。
「最近、本当に弱くなったな」
明るい照明の下で私の顔を見ても、彼は何も気づかなかった。
そのまま宥めるように近づき、私を抱きしめて髪を撫でる。
「子供が生まれたら、そのあとのことは俺が全部片づける。ひなのには金を渡して、必要なら離れてもらう。子供は俺たちで育てればいい。法的なことも弁護士に任せるから」
昔なら、それだけで安心できた胸だった。
今は息苦しいだけだった。
「ずっと子供が欲しかっただろ? 生まれたら俺と紬と子供の三人で暮らせる。あの子の母親は、紬でいい」
私は顔を上げた。
「いらない」
玲司が目を見開いた。
「どうして?」
笑いそうになった。
「あなたが浮気して、別の女に産ませる子でしょう? どうして私が自分の子として育てなきゃいけないの?」
玲司の表情が一気に険しくなる。
「それとは違う。俺はひなのに恋愛感情なんてない。ただ子供が必要だっただけだ。紬が産めないから、俺だってこうするしかなかった」
その一言は、診断書に書かれたどんな言葉より痛かった。
私たちは結婚して六年になる。
子供がいないのは、最初から私が妊娠できなかったからではない。三年前、玲司が神代グループの経営に本格的に関わり始めた頃、取引先とのトラブルに巻き込まれた玲司が、駐車場で暴行を受けたことがあった。当時、私は妊娠二か月だった。
混乱の中で玲司を庇い、私は腹部に大きな怪我を負った。赤ちゃんは助からず、緊急手術を受けることになった。
その時の検査で、私の血液には非常に珍しい特徴があることが分かった。
手術の間ずっと病院にいた玲司も、そのことを知っていた。
その後の診察では、もう一度妊娠して無事に出産するのはかなり難しいと言われた。
あの頃、私は毎晩のように眠れなかった。
玲司は私を抱きながら、何度も言った。
「子供より紬の方が大事だ。俺は二人でいられればそれでいい」
嘘だったわけじゃないのかもしれない。
あの時は、まだ代わりの方法を見つけていなかっただけだ。
私は涙を拭いた。
「私があなたの人生を邪魔してたんだね。だったら離婚しよう」
玲司の顔色が変わった。
強い力で抱きしめられ、骨まで痛んだ。
「無理だ。離婚なんてしない。紬、どうして全部悪い方に取るんだよ。俺はただ、俺たちに子供が欲しかっただけだ。ひなのは産んだら離れる。俺たちは今まで通りでいられる」
玲司が顔を近づけてくる。
吐き気が込み上げ、私は思いきり押し返した。
玲司はその場で固まった。
その夜、彼は一階で朝まで過ごした。私も一睡もできなかった。
残された時間くらい、自分のために使いたい。
もう誰にも渡したくなかった。
2
翌朝、玲司は電話を受けると慌ただしく家を出ていった。
玄関のドアが閉まった瞬間、私は本気で離婚を決めた。残りの時間で雪山を見たい。海にも行きたい。何年も「いつか」と言い続けて、結局一度も行けなかった場所へ行きたかった。
私は神代家に生まれたわけではない。
幼い頃から児童養護施設「ひかり園」で育った。神代家の財団はその施設を長年支援していて、施設で暮らす子供たちのための奨学金や進学支援制度も設けていた。
私はその制度を利用して大学まで進んだ。
中学生になってからは、財団が開く学習会や交流行事へ参加することも増え、そこで玲司と知り合った。
玲司は神代宗一郎が妻とは別の女性との間にもうけた子だった。宗一郎は若い頃から女性関係が複雑で、玲司は幼い頃から、自分があの家で歓迎されていないことを理解していた。
初めて会った時も、庭の隅に一人で隠れていた。
声をかけても無視された。
それでも私は、ときどき本を持って同じ場所へ行った。何度も顔を合わせるうちに、やっと話をするようになり、いつしか私たちはお互いにとって一番近い友達になった。
玲司は昔、いつか私を「ひかり園」から連れ出すと言った。
大人になったら結婚して、もう二度と「家がない」と思わせないとも言った。
私は奨学金で大学を卒業したあと、自分で神代グループの採用試験を受けて入社した。神代家のおかげで進学できたという思いが強く、どれだけ働いても恩返しだと考えていた。
やがて玲司は社内で実績を重ね、取締役会からの支持も得て神代ホールディングスの代表取締役社長になった。
私たちも結婚した。
最初の数年は本当に幸せだった。
でも、玲司の権力が大きくなるにつれて、少しずつ何かが変わった。いつから「心配している」が「支配する」に変わったのか、もう覚えていない。
玲司は家に他人が出入りするのを嫌った。
結婚後、私は徐々に仕事から離れ、ほとんどの時間を家で過ごすようになった。料理をし、部屋を片づけ、玲司の帰りを待つ。それが私の日常になり、昔の私はそれを幸せだと思っていた。
その夜、玲司が帰宅してテーブルの書類を見つけると、足を止めた。
離婚届と、離婚条件について私なりにまとめた書類だった。
玲司はしばらく眺めていた。
「紬、本気なの?」
「うん」
次の瞬間、離婚届は破かれた。
「俺は離婚しない。全部、俺たちのためにやってるのに、どうしてそこまで悪く考えるんだ? ひなのを愛してるわけじゃない。子供が必要だっただけだ。産んだら離れるし、紬から何も奪わない」
私はソファに座ったまま彼を見た。
「だったら私がいなくなればいいでしょう。三人で本当の家族になれるよ」
玲司の目に涙が浮かんだ。
結婚してから初めて見た。
「違う。俺が欲しいのは紬だ。どうしてあの子を受け入れられないんだよ。俺の子供なんだぞ」
胸の奥が痛んだ。
十二年愛した男だった。
それでも、もう戻れなかった。
「じゃあ、私が心の狭い女ってことでいいよ。あなたたちを受け入れられない」
玲司の目が冷たくなる。
「紬には失望した」
ドアが強く閉まった。
それとほぼ同時に、身体の奥から痛みがぶり返した。
私はソファの隅で身体を丸めた。骨肉腫の痛みは、骨の内側をゆっくり削られているようだった。
昔、生理痛がひどかった頃、玲司は私を膝に乗せ、夜通しお腹をさすってくれた。
あの頃は、本気で世界一幸せだと思っていた。
今は一人だった。
薬を取ることもできないまま、私は意識を失った。
3
目を覚ました時には、もう翌日だった。
身体には毛布が掛けられていた。
玲司が一度帰ったことは分かった。
けれど玄関には、私のものではない女物の靴がある。二階から聞こえてくる物音で、すぐに分かった。
ひなのを家に連れてきたのだ。
手すりにつかまりながら階段を上がった。
玲司は昔、この家は二人だけの場所だと言っていた。だから私は友達ですら泊めたことがない。
その家へ、今は彼の子供を妊娠した女がいる。
客室では、ひなのがベッドに座っていた。
玲司は器を手に、一口ずつお粥を食べさせている。
結婚して六年。玲司が代表取締役になってから、私が彼の作った粥を食べたのは二回しかない。
一度は高熱を出した時。
もう一度は、流産したあとだった。
ひなのが私を見ると、慌てて立とうとした。
玲司が止める。
「動くなって」
それから私を振り返った。
「起きたか。昨日はぐっすり寝てたから、無理に起こさなかった。ひなののマンションの周りに最近、週刊誌の記者とか変な人間がうろついてるらしい。妊娠六か月で一人にするのも心配だから、しばらくここに置くことにした。紬がどうしても嫌なら、別の方法を考える」
私は即答した。
「嫌」
玲司は明らかに驚いた。
するとひなのが裸足のまま走ってきた。
私の前で膝をつく。
「紬さん、ごめんなさい。本当に邪魔するつもりはないんです。最近ずっと怖くて……。子供を産んだら玲司さんからお金を受け取って、すぐに出ていきます。何も奪いません」
玲司が慌てて彼女を立たせた。
「妊婦がそんなことするな」
私は二人を見た。
自分の家なのに、間違ってよその家庭に入ってきたような気分だった。
「玲司、本当に気持ち悪い」
彼の顔が冷たくなる。
「紬、いつからそんな言い方するようになったんだ?」
玲司はひなのを連れて部屋を出ていった。
そこでようやく分かった。
六年暮らしたこの家は、もう家ではない。
きれいに飾られた檻だった。
収納棚の奥に、小さな木箱があった。
私と玲司が十代の頃から大切にしてきたものが詰まっている。初めてもらった手紙、最初にくれた花、大学時代の写真、それから私が作ったネクタイピン。
一つずつ取り出し、全部燃やした。
十年以上守ってきた思い出が、あっという間に灰になった。
匂いに気づいた玲司が飛び出してきた。
「紬! 何してるんだ!」
焼け残ったものを探そうと素手で触り、手を赤くしてまで灰を掻き分ける。
ひなのもお腹を支えながら出てきた。
「紬さん、どうしてこんなことするんですか。玲司さん、ずっと大事にしてたのに」
その言葉で、最後に残っていたものまで切れた。
ひなのが木箱へ手を伸ばした瞬間、私は反射的に押し返した。
ひなのはバランスを崩し、その場に倒れた。
すぐにお腹を押さえる。
玲司の顔が青ざめた。
「ひなの!」
彼はそのまま彼女を抱き上げ、病院へ連れていった。
出ていく直前、玲司が私へ向けた目だけは忘れられない。
あの時初めて、この人は本気で私を憎んでいると思った。
夜になって戻った玲司は、勢いよく寝室へ入ってきた。
私は痛みがようやく少し治まったばかりだったが、腕をつかまれてベッドから引き起こされた。骨の中を刃物で削られるような痛みが走り、立っているだけで精一杯だった。
「紬、ひなのが流産しかけたんだぞ!」
玲司は初めて私を殴った。
耳の奥が一瞬で鳴った。
床に倒れ、口の中に血の味が広がった。
「でも無事だったんでしょう。残念」
その一言で、玲司は完全に切れた。
テーブルのグラスを壁へ投げつける。
ガラス片が床に散った。
「どうしてこんな女になったんだ!」
私はゆっくり顔を上げた。
「私、もうすぐ死ぬから」
玲司は鼻で笑った。
「死ぬなんて言葉で俺を脅すな。今だって普通に立ってるだろ。ひなのが産むまで、もうどこにも行くな。頭を冷やしたら、そのあと話す」
ドアが閉まり、鍵がかかる音がした。
床に座ったまま、私はようやく理解した。
これは心配でも愛情でもない。
玲司は、私を閉じ込めた。
4
三日間、私は外へ出られなかった。
スマートフォンも車の鍵もカードも玲司に持っていかれた。神代邸にはもともと警備スタッフがいたが、玲司は私を一人で外へ出さないよう指示している。
家政婦は食事だけを運んでくる。
おかしいと思っていても、誰も玲司に逆らわなかった。
三日目の午後、ひなのが病院から戻った。
窓越しに、玲司が自分で彼女を抱き上げて車から降ろすのが見えた。
ひなのは彼の首へ腕を回し、幸せそうに笑っている。
昔、私も同じように抱かれたことがある。
特別だったわけじゃない。
まだ次の人の番が来ていなかっただけだ。
深夜、また痛みが始まった。
鎮痛薬は切れていた。
壁に手をついてリビングへ向かっただけで、寝間着が汗で濡れた。ようやく薬のある引き出しへたどり着いた時、照明がついた。
階段の途中にひなのがいた。
私の薬を持っている。
ゆっくり下りてくると、それを足元に置いた。
「これ探してるんですか?」
私は棚につかまりながら息を整えた。
「……やっと本性を出したね」
ひなのは笑い、薬を足先でさらに遠ざけた。
「もう隠す必要ないでしょう? 今、玲司さんが一番気にしてるのは私とこの子です。紬さん、立ってるのもつらそうなのに、いつまで奥さん面してるつもりですか? それと、私たちが付き合い始めたのは最近じゃありません。二年前からです。玲司さん、言ってましたよ。子供を産めない妻に、もう十分尽くしたって」
二年前。
私は笑ってしまった。
そんなに前から、平然と私の前で夫を演じていたのだ。
客室のドアが開いた。
家政婦の高橋さんが出てくる。
ひなのはほとんど同時に床へ座り込み、お腹を押さえた。
「高橋さん、紬さんがすごく痛そうだったから薬を渡そうとしたんです。でも急に押されて……」
高橋さんはひなのと、床に座り込んだ私を交互に見た。
迷ったような顔をしたが、結局ひなのを先に立たせた。
「奥様、どんなに腹が立っても、お子さんに何かあったら大変です。このことは旦那様にもお伝えします」
私は何も説明しなかった。
もう意味がなかった。
次に意識が戻った時、玲司はソファに座り、冷たい目で私を見ていた。
「紬、いつまでこんなことを続けるんだ。前のお前はもっと優しかっただろ」
私は床に手をつき、ゆっくり起き上がった。
「じゃあ、昔の玲司はどこに行ったの? 一生私だけを愛するって言った人」
玲司が立ち上がる。
「今だって愛してる! でも今の自分を少しは考えてみろよ。ひなのは俺たちのために子供を産もうとしてる。それなのに何度も傷つけて。そんなことをして、俺に昔と同じように接してほしいのか?」
私は笑った。
「私、もうすぐ死ぬよ」
玲司の目には苛立ちしかなかった。
「もういい。死ぬなんて言葉で俺を試すな。見たところ元気じゃないか。部屋に戻って頭を冷やせ。本当に病気だったとしても、ひなのが産んでからにしてくれ」
私は二階へ戻った。
階段の上で、ひなのが笑っていた。
部屋へ戻ってから、長いこと座っていた。
テーブルには果物ナイフがあった。ふと、もう全部終わらせてもいいのではないかと思った。
でも嫌だった。
私はまだ二十六歳だ。雪山も見たことがないし、海辺を裸足で歩いたこともない。
一度くらい、自分のためだけに生きてみたかった。
その日の明け方、玲司は酒に酔って部屋へ入ってきた。
夫婦なのだから当然だと言うように、無理やり身体を求めてきた。
私は必死に押し返した。
最後に果物ナイフを手にし、自分の身体へ向ける。
「触らないで。これ以上来たら、絶対に後悔することになるよ」
玲司は長い間私を見ていた。
やがて怒ったようにドアを閉め、出ていった。
床に座り込んだ時、ベッドの下にもう一つ古い箱があるのが見えた。
大学時代に使っていた古い携帯電話が入っていた。
期待せずに電源を入れる。
画面がついた。
それだけで泣きそうになった。
連絡先はほとんど残っていなかった。
結婚後、私の人間関係の多くは神代家や会社と重なっていた。事情を知った普通の友人まで巻き込みたくはない。
最後に、一つの名前で指が止まった。
高槻直樹。
大学時代の先輩で、同じ専攻だった。いくつかのビジネスプランコンテストにも一緒に出た。
玲司は、大学へ迎えに来た時に直樹を見ると、いつも少し機嫌が悪くなっていた。
電話をかける。
何度か鳴って、つながった。
「もしもし」
何年ぶりかに聞く声に、言葉が出なかった。
直樹はすぐに気づいた。
「紬? 紬なのか?」
私は携帯を握りしめた。
「先輩……助けてもらえませんか」
数秒の沈黙。
「住所を送って。話はあとで聞く」
電話を切ったあと、私はベッドに伏せて長いこと泣いた。
5
それから数日、直樹とは古い携帯で連絡を取った。
彼は警察やDV相談窓口、弁護士へすぐ相談するべきだと言った。
私は断った。
玲司を守りたかったからではない。
私には、調停や裁判、事情聴取に使えるほど長い時間が残っていなかった。
最終的に直樹は弁護士を連れて来てくれることになった。
玲司がひなのの妊婦健診へ付き添う日を選んだ。高橋さんも病院へ呼ばれていて、宅邸の警備もいつもより少なかった。
朝八時。
二階の窓から、直樹が車を降りるのが見えた。
隣には弁護士がいる。
二人は正面玄関で警備員に、これ以上本人の意思に反して外出を制限するなら、すぐ警察へ連絡し、記録も残すとはっきり伝えた。
さすがに誰も強引には止められなかった。
小さなスーツケースを一つだけ引いて外へ出た。
門を出たところで振り返る。
六年暮らした家と、十二年愛した人を前にしても、最後に残った願いは一つだけだった。
二度とここへ戻りたくない。
数時間後、私は直樹と飛行機に乗っていた。
冬城県北部の白凪空港へ着いた時には、もう夕方だった。
直樹は私の顔色を見るなり眉を寄せた。
「まず病院に行こう」
私は首を振った。
「行かない」
「紬」
「あと数か月しかないの。残りまで全部病室で過ごしたくない」
直樹は何も言えなくなった。
そのあと、子供の頃から写真でしか見たことのなかった白凪岳へ行った。
山麓の風は身体が持っていかれそうなくらい強かった。厚い上着にくるまり、雲に半分隠れた雪山を見上げる。
人間なんて、本当に小さい。
星野原高原にも行き、夕浜の海にも行った。
靴を脱いで海へ入り、波が足首へ触れるのを何度も感じた。その瞬間だけは、神代家への恩も、玲司も、十年以上背負ってきた役割もなかった。
神代家の嫁でも、誰かの妻でもない。
ただの紬として、そこにいた。
直樹はずっと一緒にいた。
私の発作は日に日に増えていった。
一人で薬を買いに行って倒れるのが怖い。夜に痛みが出て誰も気づかないのが怖い。ある朝、目を覚ましたら私がもう息をしていないんじゃないかと怖い。
直樹はそう言った。
彼の気持ちに気づいていなかったわけじゃない。
ただ、もう遅かった。
もし人生をやり直せたら、最初に彼と出会っていたら。
そんなことを考える日もあった。
でも人生に「もし」はない。
ある日、直樹は私にプロポーズした。
いつも通り朝食を作り、薬を用意してから、少し出てくると言った。
私は一人で海辺を散歩した。
その日は不思議なくらい人が少なく、少し離れた場所に花がたくさん置かれていた。誰かのプロポーズなのだろうと思った。
小さな女の子が走ってきて、向日葵を一本渡してくれた。
笑って受け取ると、前を指さす。
私は花の並ぶ方へ歩いていった。
知らない誰かの幸せを祝ってあげようとすら思っていた。
振り返るまでは。
直樹が花束を持って立っていた。
派手な音楽も、たくさんの観客もない。
私の前まで来ると、静かに片膝をついた。
「紬。玲司との離婚が成立したら、俺と結婚してほしい。もし手続きが間に合わなくてもいい。残された時間を、できるなら家族みたいにそばで過ごしたい。怖いなら、一緒に怖がるから」
涙が一気にこぼれた。
それでも私は首を横に振った。
「直樹には、もっといい人がいるよ。もう十分助けてもらった。いついなくなるか分からない私に、これ以上人生を使わせられない」
あの日だけ、直樹は私の前で泣いた。
そのあとは、もう結婚の話をしなかった。
毎日料理を作ってくれた。
舞台を見たり、コンサートへ行ったり、水族館や動物園にも行った。陶芸体験では、私が作った歪んだカップを直樹が本気できれいだと言った。
もし子供の頃に神代財団の支援を受けていなかったら。
もし玲司と出会っていなかったら。
私はどこかの小さな町で、陶器と花を売る店をやっていたのかもしれない。
そんなことを考えた。
あの三か月は、二十六年の人生で一番自由だった。
6
その午後、直樹は向日葵を買ってくると言って出かけた。
私は海辺で待っていた。
足音が聞こえ、笑いながら振り返る。
そこにいたのは玲司だった。
ずいぶん痩せていた。
無精ひげまで生えている。
身だしなみに異常なくらい気を遣っていた人とは思えないほど憔悴していた。手には向日葵を持っていて、私を見つけると目がすぐに赤くなった。
玲司は何も言わず近づき、強く抱きしめた。
「紬、帰ろう」
私は抵抗しなかった。
「直樹は?」
玲司の身体がわずかに固くなる。
「何もしない」
私は顔を上げた。
「会社まで調べたんでしょう?」
答えない。
それだけで十分だった。
玲司なら、私だけを探すはずがない。
弁護士を通して直樹に接触をやめるよう迫ることもできるし、私の精神状態が不安定だったことを理由に、住所や行動を問い詰めることもできる。
直樹には、もう十分すぎるほど助けてもらった。
これ以上、私のせいで仕事や生活を乱されたくなかった。
「分かった。帰る。でも直樹にはもう何もしないで」
玲司は一瞬呆然とし、すぐに何度も頷いた。
香月市へ戻る時、向日葵は海辺に置いたままだった。
私は振り返らなかった。
ひなのはもう神代邸には住んでいなかった。
出産が近いため、香月中央総合病院に通いやすい場所へ移したと玲司は言った。その病院は神代財団から長年多額の寄付を受けていて、神代家と院側の関係も深かった。
本当に大事にしているのだと思った。
戻った最初の夜、玲司は私を抱きしめながら言った。
「もう怒鳴らない。ほかの女を家に入れたりもしない。紬が嫌がることはしない。もう一度やり直そう。行きたい場所があるなら全部一緒に行く。仕事も後回しにする。今まで行けなかったところへ行こう」
私は言わなかった。
行きたかった場所には、もう別の人と行った。
「うん」
小さく答える。
玲司はようやく安心したように眠った。
それから何日か、彼は昔の玲司に戻ったようだった。
料理を作り、庭で一緒に座り、仕事まで家へ持ち帰るようになった。それでも、私がほとんど食べられなくなっていることにも、薬が減っていることにも気づかなかった。
玲司の「もう一度愛する」は、結局いつも彼が見たい私しか見ていなかった。
直樹とはこっそり連絡を取った。
玲司が本当にそれ以上手を出していないと知って、ようやく安心した。
電話の最後、直樹はずっと黙っていた。
切る直前に、かすれた声だけが聞こえた。
「紬、生きてくれ」
返事はできなかった。
もう二人とも分かっていた。
その夜、玲司は会社から急な連絡を受け、家を出た。
広い家に私一人だけが残った。
ベッドの端に座り、自分の手を長く見つめた。
最後に、私は命を終わらせようとした。
次に目を開けた時、白い病室の天井があった。
玲司がベッドの横に突っ伏している。
目は真っ赤だった。
「紬、目が覚めた……。どうしてこんなことしたんだよ。俺が悪かった。本当に分かったから。恨んでもいい。でも死ぬな」
私は顔を背けた。
玲司の声が荒くなる。
「どうしてそんなに残酷なんだよ。紬が死んだら俺はどうするんだ? 俺が死ぬなって言ってるんだから、勝手にいなくなるな!」
いつもそうだった。
玲司が愛していると言えば、私は生きなければならない。
私のためだと言えば、何をされても許さなければならない。
私がどうしたいかは、最後まで関係ない。
物理的にベッドへ縛られていたわけではない。
でも実際は、それと大差なかった。
自傷を繰り返す危険があると判断され、私は香月中央総合病院の個室で厳重に見守られていた。刃物など危険な物は持ち込めず、携帯電話も玲司が「しばらく預かる」と言って持ち帰った。
身体もかなり弱っていて、エレベーターまで一人で歩くことすら難しかった。
私が香月中央総合病院へ運ばれてから、ひなのが出産するまで数日しかたっていなかった。
診断も緩和治療も、ずっと冬城市立がん医療センターで受けている。香月中央では強い貧血や慢性的な痛みがあることまでは把握していたが、私は以前の治療資料をほとんど渡していなかった。
玲司は、私の身体の不調まで「精神的なもの」だと思い込んでいた。
ある日、玲司が小さな鉢植えを持ってきた。
「覚えてるか? 昔、学校のイベントで一緒に植えた花と同じだ。あの時、花が咲いたらずっと一緒にいられるって紬が言った」
私は鉢を見た。
小さすぎる。
根はもう詰まっていた。
このままでは、きれいに花を咲かせるのは難しい。
でも玲司は気づいていなかった。
最期を前に、一時的に体調が落ち着いていただけなのかもしれない。
その後数日だけ、痛みが少し軽くなり、顔色も前より良くなった。
玲司は本当に喜んだ。
「ほら、やっぱり大丈夫じゃないか。退院したら、もう一回海へ行こう」
私はただ笑った。
7
ひなのが病室へ来たのは、出産間近の頃だった。
妊娠九か月を過ぎている。
その時、玲司は病室にいなかった。
ひなのは中へ入るなり、病室の外にいた人をうまく遠ざけた。
それからベッド脇へ座る。
「紬さん、今の自分、すごく惨めだと思いません?」
私は黙っていた。
ひなのはお腹を撫でる。
「玲司さんが今まだ紬さんを好きでも、関係ないですよ。もう長くないんでしょう? 紬さんが死んで、子供が生まれたら、私たち三人が家族になる。時間がたてば玲司さんだって忘れます」
ひなのでさえ、私が死にかけていると気づいている。
一緒に十年以上生きた男だけが、分からなかった。
廊下から足音が聞こえた。
ひなのの目が変わる。
次の瞬間、わざと身体をベッドの角へぶつけた。
重いお腹が当たり、そのまま床へ倒れる。
すぐにスカートの下へ血が広がった。
玲司が入ってきた時、見えたのはその光景だけだった。
私を一度見たあと、すぐひなのを抱き上げる。
事情も聞かなかった。
私が触ったかどうかさえ確認しなかった。
「誰か! 医者を呼んで!」
そのまま病室を飛び出した。
ほどなくして、フロア全体が慌ただしくなった。
ひなのは大量出血を起こし、緊急手術になった。
もともと珍しい血液型だったため、病院も出産前から血液センターと連携していた。それでも予想を超える出血に院内の在庫だけでは追いつかず、追加の適合血が届くまで時間がかかるという。
手術室の前で説明を受けた玲司は、三年前のことを思い出した。
私が流産して緊急手術を受けた時、詳しい検査で私も珍しい血液型だと分かった。
あの時ずっと病院にいた玲司も、そのことを覚えていた。
「紬の血は使えないんですか?」
担当医の表情が曇る。
「奥様からですか? 無理です。今ご本人も入院中ですし、かなり衰弱しています。少なくとも検査が先です」
玲司が手術室を見る。
「適合する血は、あとどれくらいで届く?」
「血液センターが動いていますが、まだ時間がかかります」
玲司はしばらく黙っていた。
「だったら、紬を調べてください。使えるなら少しだけでもいい。血が届くまでの間だけ、ひなのと子供を助けてほしい」
担当医はすぐには返事をしなかった。
「検査をしても、採血できるとは限りません」
「分かっています。それでも調べてください。院長には俺から話します」
担当医は長年神代家と付き合いがあり、病院自体も神代財団から継続的な支援を受けていた。
もちろん、それだけで医療上の判断を曲げていいはずはない。
それでも手術室では二人の命が危険にさらされ、適合血はまだ届かない。
医師は迷った末、まず検査だけを行うことを認めた。
8
数人の医療スタッフが病室へ来た時、何のためなのか何となく分かった。
まず検査用の採血をされた。
結果はすぐに出た。
私はひどい貧血だった。
採血を担当する看護師が首を振る。
「無理です。この数値でこれ以上採血するのは危険です」
そこまでで、本来なら話は終わるはずだった。
担当医は検査結果を前に、しばらく黙っていた。
外からは何度も手術室の状況を確認する声が入ってくる。
看護師がもう一度確認した。
「先生、本当にやるんですか? この数値ですよ」
医師は答えなかった。
そこへ玲司から連絡が入った。
「検査結果はどうですか?」
「奥様は重度の貧血です。本来なら採血できる状態ではありません」
電話の向こうで、玲司はしばらく黙った。
「……少しも無理なんですか?」
「安全だとは言えません」
「適合血はまだ届かないんでしょう? 少しだけでも時間を稼げないんですか」
医師はすぐに答えなかった。
玲司は続けた。
「お願いします。ひなのも子供も危ないんです。紬だって、事情を知ればきっと分かってくれる」
最後に判断したのは医師だった。
神代家からの圧力だけが理由ではなかったのかもしれない。
目の前では母子の状態が悪化していて、適合する血液はまだ届かない。
それでも、やってはいけない判断だった。
看護師の反対を押し切り、担当医は「ごく少量だけ」と条件をつけて採血を認めた。
異常があればすぐ中止する。
それで大丈夫だと、自分自身にも言い聞かせたのかもしれない。
当時の私は、肺にも転移した末期の骨肉腫に加え、慢性的な貧血と栄養不良を抱えていた。
到底、他人へ血液を提供できる身体ではなかった。
採血が始まって間もなく、血圧が下がった。
呼吸が急に苦しくなる。
看護師はすぐに異常に気づいた。
「中止してください! 血圧が落ちています!」
採血は止められた。
それでも私の状態は戻らなかった。
病室が一気に慌ただしくなった。
スタッフが私の荷物を確認した時、冬城市立がん医療センターの診察券が見つかった。
緩和ケアで処方されていた薬もある。
担当医の顔色が変わった。
すぐに元の病院へ連絡が入った。
そこで初めて、香月中央総合病院側は私の本当の病状を知った。
半年前にはすでに骨肉腫と診断され、肺にも転移していた。根治が難しいと説明された私は、身体への負担が大きい治療を続けるより、痛みや苦しさを抑えながら残された時間を過ごす道を選んでいた。
担当医はそれを聞くなり、玲司のもとへ走った。
「神代さん、奥様への採血は中止しました。末期の骨肉腫で、肺にも転移しています。今の状態では絶対に採血すべきではありませんでした。採血をきっかけに循環状態も急激に悪化しています。こちらもすぐ処置に入ります」
玲司は固まった。
「何を……言ってるんですか?」
「奥様は、半年前からがんの治療を受けています」
玲司は、その言葉の意味が分からない人のように立っていた。
その時、手術室の方からスタッフが飛び出してくる。
「相楽さん、また出血が増えています! 胎児心拍も下がっています!」
玲司が振り返った。
あの瞬間、玲司が何を考えたのかは分からない。
ただ、あとで知った。
彼は数秒迷った。
そして最後には、ひなのの手術室の方へ行った。
私は上の階にいる。
子供が無事に生まれてから行けば間に合う。
そう思ったのかもしれない。
その数分が、取り返しのつかないものになることを。
玲司はまだ知らなかった。
9
身体がどんどん冷えていった。
息がうまく吸えない。
周りで医師や看護師が何か話しているのに、少しずつ声が遠くなる。
昔、私は死ぬのが怖かった。
まだ学生だった頃、玲司の腕の中で聞いたことがある。
「人って、死ぬ時に何を見るのかな。私、たぶんすごく怖いと思う。玲司がそばにいてくれたら、少しは怖くないかも」
玲司は私の手を握った。
「そんなこと考えるなよ。紬は長生きする。それでも、もしそんな日が来たって大丈夫だ。俺がずっとそばにいる」
最後には、玲司はいなかった。
意識が薄れていく中で浮かんだのは、玲司と過ごした十二年ではなかった。
白凪岳の雪景色や星野原を吹く風、夕浜の海。コンサートホールの灯りも、陶芸工房で作った不格好なカップも、昨日のことのようにはっきり思い出せた。
最後に浮かんだのは、向日葵を持って太陽の下で笑う直樹だった。
たった三か月なのに。
あの時間だけは、最後まで消えなかった。
目を閉じた。
そのまま、もう開かなかった。
次に気づいた時、私は病室の天井近くにいた。
ベッドには、ひどく痩せた女が横たわっている。
医師や看護師が周りにいた。
しばらくして分かった。
あれは私だった。
どうやら私は、死んだあともしばらくここにいられるらしい。
別の階では、赤ちゃんが無事に生まれていた。
血液センターから届いた適合血も間に合った。
でもひなのは、重い産科合併症で助からなかった。
赤ん坊の泣き声が聞こえた。
玲司は手を震わせながら、ずっと望んでいた子供を抱いていた。
それなのに、嬉しそうには見えなかった。
医師が近づき、ひなのが亡くなったことを伝えた。
玲司は数秒黙ったまま赤ん坊を抱いていた。
そのあと急に何かを思い出し、看護師へ渡した。
「紬は?」
返事を待たずに走り出した。
私の病室はもう空だった。
シーツも交換され、救命処置に使われた機材も撤去されている。
玲司は入り口で立ち尽くした。
近くにいた看護師へ駆け寄る。
「紬はどこですか? 妻は?」
看護師は目を伏せた。
「奥様は、先ほど亡くなられました。今は院内の安置室にいらっしゃいます」
玲司は動かなかった。
聞こえていないのかと思うほど、何の反応もなかった。
けれど、全部聞いていた。
亡くなった。
安置室にいる。
その意味を理解しているはずなのに、受け入れられなかった。
三か月前のことが頭に浮かんだのだろう。
あの時も直樹が私を神代邸から連れ出した。
なら、今回もそうなのではないか。
病院が何か勘違いしているだけで、本当はまた直樹が私を連れていったのではないか。
そんなはずはない。
玲司自身も分かっていたと思う。
それでも、安置室へ行くことはできなかった。
そこへ行って自分の目で確かめてしまえば、もう二度と「生きているかもしれない」と思えなくなる。
玲司は病院を飛び出した。
10
玲司が向かったのは、高槻直樹の家だった。
ドアを開けた直樹の顔が変わる。
玲司はそのまま襟元をつかんだ。
「紬はどこだ」
直樹は一瞬戸惑った。
「……紬?」
「お前だろ。また連れていったんだろ。病院の連中までおかしなことを言ってる。紬が死ぬわけない。どこにいる。早く出せ」
言っている本人が一番、その言葉を信じていなかった。
直樹はしばらく玲司の顔を見ていた。
やがて、何が起きたのか理解したようだった。
「病院から聞いたんだな」
玲司は答えなかった。
「紬はどこだ」
それしか言えなくなっていた。
次の瞬間、直樹は玲司の頬を殴った。
「もう逃げるな。紬は死んだんだ」
玲司の身体が大きく揺れた。
「嘘だ」
「末期の骨肉腫だった。肺にも転移してた。半年前から、もう長くないって分かってたんだ。何年も一緒に暮らしてたくせに、死ぬまで気づかなかったのかよ」
玲司は必死に首を横へ振った。
「知らない。紬は何も言わなかった。本当にがんなら、どうして俺に言わないんだ」
直樹は静かに見た。
「言っただろ。何度も、もうすぐ死ぬって言った。聞かなかったのは、あんただ」
玲司は神代邸へ戻り、部屋中を探した。
引き出しの奥から、残っていた薬が見つかった。
冬城市立がん医療センターの診察券。
何度も折りたたまれた説明書。
それらを持って、がん医療センターへ向かった。
亡くなった患者の配偶者として必要な手続きをしたあと、医師から話を聞いた。
私は半年前にはすでに骨肉腫と診断されていた。肺にも転移していて、根治は難しい状態だった。治療の選択肢について説明を受けたあと、私は残された時間をすべて病院で過ごすより、痛みや苦しさを抑えながら、自分のしたいことをする道を選んだ。
医師は最後に、私が診察室で聞いた言葉を伝えた。
「つらい治療を続けないなら、まだ海を見に行けますか?」
玲司はその話を聞いたあと、病院の廊下に長いこと座っていた。
最後には顔を伏せて泣いた。
昔、私の前で見せた涙とは違った。
何かが内側から全部崩れていくような泣き方だった。
それでも安置室の前まで来ると、また足が止まった。
もう逃げる場所はない。
扉の向こうにいるのが私だと、玲司は分かっていた。
ようやく扉を開けた。
私は白い布をかけられて横たわっていた。
玲司は何度か手を伸ばした。
でも触れられない。
最後に震える指で布を少しだけめくった。
私の顔を見た瞬間、玲司はその場に膝をついた。
私を抱きしめ、長いこと泣いた。
「紬、ごめん。怖かったよな。昔、一人で死ぬのが怖いって言ってたのに……どうして俺は気づかなかったんだ。死ぬって言ってたのに、どうして聞かなかったんだよ。紬……頼むから、もう一回目を開けてくれ」
私はすぐそばに立っていた。
静かに見ていた。
もう憎くなかった。
だからといって、ざまあみろとも思わなかった。
ただ遅すぎた。
葬儀までの短い間だけ、私の遺体は神代邸へ戻された。
玲司は一晩中そばにいた。
翌日、葬儀が行われ、火葬された。
ひなのが残した赤ん坊も、玲司が夢見た「三人家族」にはならなかった。
ひなのを失い、私まで死んだあと、玲司の精神状態は急激に悪化した。生まれたばかりの子供を安定して育てられる状態ではなく、引き取る親族も見つからなかった。
児童相談所が介入し、赤ん坊はいったん乳児院へ預けられた。
なんだか皮肉だった。
私も児童養護施設で育った。
玲司は「本当の家族」が欲しいと言い、私との結婚まで壊して子供を手に入れた。
その子もまた、私と似た場所から人生を始めることになった。
香月中央総合病院でも、私への採血をめぐって院内調査が始まった。
重度の貧血が確認されていた患者に採血を行った判断は重大な問題となり、担当医は診療から外された。やがて神代財団と病院の長年の関係まで報道され、外部の調査も入ることになった。
あの採血だけが私の死因だったわけではない。
私はもともと、長く生きられる身体ではなかった。
それでも、本来行われるべきではなかった採血が容体の急激な悪化に影響した可能性は高いとされた。
玲司自身が、最初に私の血を使えないかと口にした。
その事実だけは、最後まで消えなかった。
玲司は会社へ戻らなくなった。
取締役会で代表取締役を解かれ、神代ホールディングスも一連の騒動と代表の長期不在で大きく揺れた。
神代玲司はおかしくなった。
そんな噂が流れた。
たぶん、間違ってはいなかった。
私の部屋には、誰も入れさせなかった。
朝になると食卓には今も二人分の朝食を置く。夜には空っぽの椅子へ話しかけ、私が昔好きだった物を買ってきては、何もない場所へ振り返る。
「紬、これ好きそうじゃない?」
返事はない。
それでも玲司は話し続けた。
窓辺には、あの鉢植えが残っていた。
葬儀のあと、玲司はようやく大きな鉢へ植え替えた。
園芸店で育て方まで聞き、毎日水をやった。
しばらくすると、その花は本当に咲いた。
でも私はもう、見たいとは思わなかった。
直樹は静かな場所に墓を選んでくれた。
墓のまわりには向日葵が植えられていた。
ときどき一人で来て、枯れた花だけを取り替えていく。
長い話はしない。
最後に直樹を見た日、私は向日葵のそばに立っていた。
風が吹き、黄色い花が一斉に揺れる。
夕浜の海と、あの三か月を思い出した。
神代家のためでも、玲司のためでもなく、初めて自分のためだけに生きていた頃の私を思い出した。
私は少し笑った。
「直樹、ありがとう」
もちろん、彼には聞こえない。
身体が少しずつ薄くなっていく。
遠くでは玲司が、私のいない家を今も守っている。
あれほど欲しがっていた権力も、立場も、子供も、最後には自分の手で全部失った。
私はようやく、誰のものでもなくなった。
私の人生は短かった。
けれど最後の数か月だけは、誰かのためではなく、ちゃんと自分の人生を生きた。




