03:幻影と現実
「ここから会場の住和ビルまで歩くと十五分くらいかかるけど、いいかな?」
悠斗は、まだわずかに震える指先を悟られないよう、努めて落ち着いた声でエリスに尋ねた。
彼にとって、今立ち止まることは恐怖でしかなかった。
立ち止まれば「死の残像」が目の前に現れてしまうように感じていたからだ。
「うん、いいよ。せっかくだからシンジクを見てまわりたいしね」
エリスはそう言って、弾むような笑顔を悠斗に向けた。 金色のショートカットが陽光に透け、彼女が動くたびに淡いピンクのワンピースが春の風を孕んでふわりと揺れる。そのあまりに健全で、眩しいほどの「日常」の光景。それこそが、悠斗にとっての唯一の救いだった。
「わかった。じゃあ、案内するよ」
悠斗は短く答え、彼女を促すように歩き出した。
アルバ広場の喧騒を抜け、人混みをかき分けながら進む。
十五分。それは、本来なら他愛もない雑談で埋め尽くされる、親友同士の楽しい移動時間になるはず。
しかし悠斗にとっての十五分は、記憶の底に押し込んだ『地獄の幻』が、いつ蓋を突き破って溢れ出してくるか分からない、薄氷の上を歩くような時間でもあった。
「すごい⋯⋯ユート、あの看板、本物の猫みたいに動いてる!」
「ああ、あれは3Dビジョンだよ。有名なんだ」
エリスの無邪気な感嘆に答えながら、悠斗は自分に言い聞かせ続けた。
自分は今、現実にいる。
目の前の彼女は本物で、自分は彼女をエスコートする兄貴分としての役割を果たさなければならない。
二人が新軸大ガードの暗がりへと足を踏み入れようとした、その時だった。
「――っ!」
頭上で、何十トンもの鉄塊が通り過ぎる凄まじい轟音が響き渡った。
何本もの電車が同時に交差しているのか、コンクリートの壁を震わせる凄まじい振動が、悠斗の鼓動を直接揺さぶる。
その瞬間、世界が不自然に「ブレ」た。
ガードを抜け、視界が開けるはずの西口の景色。
それが、ノイズ混じりの映像のように激しく乱れ、一瞬にして別の色彩へと上書きされる。
太陽の光は、重苦しい灰色の噴煙に遮られ、街は鉛色の静寂に包まれていた。鏡のように美しかったビル群は、巨大な何かに食い破られたかのように無惨な瓦礫の山へと変わり果てている。
――そして、誰もいない。
ついさっきまで肩が触れ合うほどいたはずの群衆も、車の走行音も、隣にいたはずのエリスの気配さえも、跡形もなく消え失せていた。
広大な交差点に音がない。
あんなに響いていた電車の轟音も、自分の呼吸音さえも遠のき、ただ乾いた砂を含んだ風が頬を撫でる不快な感触だけが肌を刺す。
(⋯⋯また、だ⋯⋯。なんなんだ⋯⋯これは⋯⋯?)
悠斗はたまらず立ち止まって強く目を閉じ、自身の頭を両手で押さえた。
理性を総動員して、その光景を全力で拒絶する。
(違う。これは夢だ。脳が見せているバグに過ぎない。俺は今、エリスと一緒に歩いているんだ!)
奥歯を噛み締め、祈るような思いで再び目を開いた。
「⋯⋯ユート?大丈夫?急に立ち止まって⋯⋯顔色がすごく悪いよ?」
視界に飛び込んできたのは廃墟ではなく、心配そうに自分の顔を覗き込んでいるエリスだった。
金色の髪がビル風に揺れている。 背景には、先ほどと変わらぬ新軸の街並みが、何事もなかったかのように整然と広がっている。 この「新軸」という街が持つ、揺るぎない秩序。それこそが、今の彼が縋れる唯一の正解だった。
「ああ⋯⋯。ごめん、なんでもないんだ。ちょっと、電車の音がうるさすぎたみたいで」
悠斗は震える手で額を拭い、無理やり笑顔を作った。
記憶の底に押し込んだはずの「死」が、音を立てて蓋を押し上げようとしている。それを再び、今度はさらに深く、暗い場所へと力ずくで押し込める。
「本当に?ちょっと休んだ方がいいんじゃ⋯⋯」
「大丈夫だよ、すぐそこだから。さあ、行こう」
エリスに袖を引かれながら、西口の高層ビル街を貫く広い通りを歩く。
都庁の巨大な双子塔が、青空を切り裂くようにして悠斗たちの前方にそびえ立っていた。
強固な法と秩序、そして揺るぎない公権力の象徴である都庁。その周囲にはオフィスを構える高層ビルが立ち並ぶ。
平日ならばビジネスマンたちが行き交い、張り詰めた空気が漂う場所だが、土曜日の今日は街全体にどこか浮き立つような開放感が広がっている。
歩道には色とりどりの私服の家族連れや、カップルで賑わっている。
ストリートミュージシャンの奏でる楽曲や、路上でグッズを販売する者の呼び声に子供の笑い声、そして移動キッチンから漂う香ばしい香り。
それら全てが今日という休日を謳歌する人々の『日常』そのものだった。
悠斗はそんな街行く人々を避けず、あえて選んで歩いていた。
すれ違う人々の肩が触れ、誰かの足音や話し声が幾重にも重なるーーいわば触覚や環境音こそが、彼にここが『現実』なのだと感じさせる、それが何よりも救いとなっていた。
(そうだよ、今日は土曜日なんだ。たくさんの人がいて、賑わっている。間違いない。これこそが現実なんだ)
ふと、悠斗は自分の開いたシャツの袖が軽く引っ張られる感覚に気づき、そちらへ視線を向けた。
そこには、エリスが悠斗のシャツの袖をそっと指先でつまんでいる姿があった。
視線が合った瞬間、エリスの頬はみるみる赤く染まっていった。
「あっ、いや……その……はぐれちゃったら嫌だなって……」
と言い訳するエリスは、話をそらすように指さして言った。
「⋯⋯あそこだね。すごい、あんなに人が並んでる!」
エリスが指差した先に、目的地である『住和ビル』が姿を現した。
空を突くような鋭い三角形のフォルム。その足元に広がる、巨大なガラス屋根に覆われた全天候型のイベント広場には、最新VR体験会を目当てにした夥しい数の群衆が詰めかけていた。
色とりどりの服を着た若者たち、はしゃぐ子供の声、誘導するスタッフの拡声器の音。そこには、先ほど見た「無人の廃墟」の気配など、微塵もなかった。
「⋯⋯ああ、すごい人だな」
悠斗は、知らず知らずのうちに止めていた息を吐き出した。
強張っていた肩の力が、目に見えて抜けていく。
(⋯⋯よかった。やっぱり、あんなのは幻覚だ。これだけの人間が、同じ場所で、同じ時間を共有しているんだから)
千人以上は会場に集まっているだろうか。 多数の他人の存在が、彼を現実に繋ぎ止める楔となった。これほど多くの『観測者』がいるならば、さっき見た光景は幻のまま終わるだろう……と。
「ユート、顔色よくなってきたね」
エリスが、隣で小首を傾げて覗き込んでくる。
「えっ⋯⋯。ああ、うん。せっかくのフルダイブ型VR体験だしね」
悠斗は今度こそ、本物の笑顔をエリスに返した。彼女の小さな手が掴んでいた袖の重み。周囲に満ちる、少し蒸し暑いほどの人いきれ。それらすべてが、自分が今、確かにこの世界の住人であることを祝福してくれているように思えた。
「行こう、エリス。一緒に楽しもう」
「うん!」
二人は、賑わう広場へと足を踏み入れた。
しかし、ドアをくぐった瞬間、悠斗の喉から漏れたのは、歓声ではなく、凍りついたような疑問の声だった。
「え⋯⋯?」
住和ビルの象徴である『トライアングルプラザ』。
その巨大な幾何学模様のガラス屋根はことごとく砕け散り、剥き出しになった無数の鉄骨が、巨大な生物の肋骨のように空へ向けて突き出している。
広大なフロアを見渡せば、ステージは崩壊し、大小のイベントブースはひしゃげた看板と共に瓦礫と塵の山に埋もれていた。
悠斗が足を踏み入れた場所は、煌びやかなVR体験会場とはかけ離れた、徹底的に破壊された『トライアングルプラザの廃墟』だった。




