表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

9/37

1-8 死を拒む卑怯者のささやかな反逆

 書店を出た俺は灰色の街をただ歩き続けていた。


 降り続ける粉雪は止む事は無く、壊れかけた街から温もりを奪っていく。政府の街宣車は何かを言っていたが俺は耳を傾ける事は無かった。


 このまま逃げれば戦争に行かずに済むのだろうか。


 無理だな。管理社会のご時世では徴兵逃れはまず不可能だ。仮に逃げ切ってもその場合薬を入手する事が出来ずにどこかで詰む。


 ありとあらゆる可能性を計算したが俺が生き延びる可能性はどこにも存在しなかった。ずっとあの手この手で先延ばしにしてきたが年貢の納め時なのだろう。


「……………?」


 亡者の様に歩き続けていると、不意にどこからかトランペットの音色が聞こえてきた。俺はその音に導かれる様に先に進む。


 音は廃墟の丸屋まるや百貨店から聞こえた。不法侵入にはなってしまうがもう信用スコアを気にする必要はない。俺はほんの一瞬躊躇った後中に入る事を選択した。


 薄暗い階段を上って俺は屋上へと向かうと、音が少しずつはっきりと聞こえてくる。どこかで荷物や鍵のかかったドアで通行止めになっていればどうにも出来なかったが、幸いにして道は存在し俺は屋上に辿り着く事が出来た。


 錆びついた鋼鉄のドアを肩で押しながら開けるとそこには様々な遊具が放置されていた。いわゆる一昔前に全国どこでも見られた屋上遊園地という奴だが、今では役目を終えすっかり朽ち果てアニマルライドもボロボロになっている。


 そして――そんな寂しすぎる場所で、愛理はトランペットを吹いていた。誰に聞かせるでもなく、まるで死者に捧げる鎮魂歌の様にたった独りで赦しを願うアメイジンググレイスを演奏していたのだ。


 ああ、なんて優しい音色だ。もしも全ての人が聖母の愛を体現したかの様なこの演奏を聞けばきっと戦争が無意味であると理解し、世界はすぐに平和になり愛に満ち溢れた世界になるだろう。


「いい演奏だったよ、愛理」

「どういたしまして」


 俺は演奏が終わるのを待って愛理に話しかける。彼女も流石に俺の存在に気付いていたらしく特に驚く事は無かった。


「でもなんでアメイジンググレイスなんだ? 下手すりゃNAROが飛んでくるぞ」

「今日は八月九日だから。そんな気分になっちゃって」

「そっか」


 八月九日は長崎にとってかつては特別な日だった。しかし今はもう何でもない日であり、おめでとうと言う事も誰かが想いを馳せる事も無い。


 その理由は大きく分けて三つだ。一つは核兵器がゾンビハザードの被害を食い止め日本を護った正義の兵器であるという事、二つは世界で最後に核兵器が戦争で用いられた日ではなくなったという事、そして三つ目に核兵器に代わる様々な兵器が実用化されたからだ。


 核ミサイルを含め全ての航空兵器を無力化する最強の防衛システムの八咫鏡や、上手くいけばパンデミックを起こしてたった一匹で国を滅ぼせるゾンビ兵器等、今の時代は核兵器よりもコスパがよく割に合う兵器がたくさんある。長崎に住む人々の悲願であった核兵器のない時代は確かに訪れたが、きっと彼らが望んでいたのはこういう事ではないだろう。


「あ、今更だけど剣道の大会優勝おめでとう。お祝いとか用意してないけどごめんね」

「別にいいさ。祝う様なものでもないし。むしろ祝われたらしんどいし。皆カッコよく死ぬ事を期待しているからな。俺はそのためだけに生かされ続けたんだ」

「うん」


 愛理は俺のボヤキを否定しなかった。何故なら彼女もとっくにその事を理解していたからだ。


 いくら俺が特待生とはいえ誤魔化しがずっと通用するわけがない。それでもなお今日まで生かされ続けていたのは救国の英雄である息子の死をプロパガンダに利用するためだった。


「連中は俺に結果を求めていない。必要なのは死んだという事実だけだ。死んだ奴の想いはいくらでも美化出来る。人類が続けば数十年後に俺の人生は映画になったりするかもしれないな。俺はこんなにも卑怯者で死ぬのが怖いっていうのにさ」

「……それが普通だよ。死ぬのは怖い。殺すのは怖い。そんなの当たり前の事なのにみんな他人事と思い込んでこの世界で生きる事を諦めている。きっと壊れたのは世界の方なんだろうね」


 俺は恐怖のあまり声を震わせ静かに泣いてしまい、愛理はその絶望を寂しげに受け止める。これ程までに心優しい彼女もまたこの世界では狂った人間に違いないのだろう。


「……ねえ智樹君。異世界ってあると思う?」

「さあな。死んだ事がないからわかんねぇよ。ただあったとしてもチートは手に入らないかもしれない。楽園じゃないかもしれない。そんな場所に死んでまで行きたいとは思わないな」


 この世界の人間はどういうわけか転生する事に希望を見出している。そこには何があるのかわからないのに、さらなる地獄が待ち受けているのかもしれないのに俺にはそれが全く理解出来なかった。


「俺はまだほんの少ししか生きていないし、この世界の事もほとんど知らないのにさ……こんなクソみたいな世界でも生きたいんだよッ! こんな不健康で死にかけの身体でも死にたくないんだよッ! こんな結末受け入れられるわけないだろッ! 人の運命を勝手に決めるなよッ! あいつらの思い通りになって死にたくねぇよッ! もっと生きたいに決まってるだろッ! 生きる事がそんなに悪い事なのかよ……ッ!」

「……うん」


 俺は湧き上がる感情のままに叫び、その狂気染みた強い生への執着心をも彼女は深い海の様に受け入れる。それ以上言葉を何も言わず、ただ人間の言語を失い泣き崩れる俺を優しく抱きしめて。


 生きたいと願う。人を殺したくないと願う。それはこの世界ではとても罪深く異常な事だった。だけど臆病で卑怯な俺はそう強く願わずにはいられなかったんだ。


「怖い時は怖いって言っていい。辛い気持ちは誰かに話してもいい。不安な時は誰かに助けを求めてもいい。本当はそれが普通の事なんだけどこの世界はそんな事も許してくれないからね」

「まったくだよ……なんだってこんな時代に生まれちまったんだろうな……昔は当たり前の様に飯を食って遊んでゲームしてマンガを読んで、幸せにも程があった世界だったはずなのに、昔の連中は何で自分から捨てちまったんだろうな」


 この怒りと絶望はどこにぶつければいいのだろう。社会か、政府か、学校か、周囲の人間か。だがもしも復讐をしたいのならば相手が多すぎてとてもナイフは足りそうもなかった。


 仮に俺がヴィランのカリスマの様に何か事件を起こした所で世界は何も変わらない。大方犯罪者で構成される死亡率百パーセントの部隊に配備され、殺された人間も一足先に異世界転生が出来ると喜びながら死ぬだけだ。善良な人の幸福の定義がそうであった様に、社会に一矢報いなければならないという虐げられた人間の幸福もまた誰かによって与えられた価値観に過ぎないのだから。


「何も出来ない私がいい加減な事を言うべきじゃないかもしれない。私はあなたの苦しみのほんの少ししかわかってあげられない。だけど私はあなたに生きて欲しい。役目を放棄しても、悲しい言葉をかけられても、全てを投げ出してもいい。智樹君は生きていいんだよ。だからお願い、生き抜いて。私も一緒に逃げるから」

「愛理……」


 ならば逃げてもいいのではないか。俺の壊れかけた心は聖母の様な愛理の言葉で少しずつ元に戻ろうとしていた。


 卑怯者? 臆病者? 多くの人はそう罵るかもしれない。けれど今の理屈で言えばそれは所詮誰かによって与えられた価値観だ。


 日本古来の価値観は物の十数年で変わってしまった。人種や国籍よりも信用スコアこそが正義、虐めの加害者や犯罪者はコミュニティから徹底排除、究極の男女平等、異世界転生による死の概念の喪失――良くも悪くも多くの人が当たり前の様に受け入れている思考はこの社会によって与えられたものであり、言わば俺たちは与えられた常識により物凄く視野が狭められている状態なのだ。


「俺は」


 ああそうだ。よく考えれば当たり前の事じゃないか。生きていて何が悪いんだ。馬鹿な連中に付き合って思い通りに死ぬくらいなら逃げて何が悪いんだ。


 死なずに生ききり別の道を選んで幸せになる事。それは彼らが激怒し最も忌み嫌う最大の反逆なのだろう。こういう形でざまあをするのも一つの手なのかもしれない。


「俺はっ」


 そうだ、何が何でも生き抜いてやる! 俺は決死の想いでその言葉を口にしようとした。だが――。


「っ」


 その瞬間、心の奥底に刻まれたトラウマを呼び起こす飛翔音が聞こえる。それは久しく聞いていなかったが、俺はその頭蓋を抉る凄まじい爆音が即座に何の音であるのか理解してしまう。


 空気が、大地が、世界が揺れる。あまりの揺れに立つ事が出来なくなり、俺と愛理はその場に膝をついてしまった。


「ッ!?」


 転倒した愛理を庇いつつ顔を持ち上げ、俺はそれを見てしまう。曇天と共に迫り来る、世界の終わりを記した黙示録の悪魔の軍勢を想起させる海の砂の数ほどの黒いドローンの大群を。


「嘘だろ……」


 俺は目の前の絶望的な光景が信じられずにただただ唖然としてしまう。


 日本政府御自慢の防衛システムはどうした。迎撃率はほぼ百パーセントと言ったはずだろうが。何故こんなにもドローンが襲来しているんだ。責任者が軒並みクビになる程度じゃすまないぞ。考えなくてもわかる、あれだけの数の自爆ドローンが降り注げば街は無事では済まない。


「と、智樹君、何が……」

「逃げるぞ愛理ッ!」


 このままここにいては死ぬ、生きるために直ちに逃げなければいけない。俺は倒れた愛理の左手を無理やり引っ張ってその場から即座に逃げ出した。


「ひッ!?」

「きゃあッ!」


 まずは屋上から脱出しようとしたが、動き始めた数秒後にはもう自爆ドローンが着弾し遊園地の遊具が宙を舞ってしまう。可愛らしい遊具が空を飛ぶ様はメルヘンだがあれに押し潰されれば人間は当然死ぬはずだ。


「クソォッ!」


 俺は体当たりをする勢いでドアを開け室内に避難、ほぼ同じタイミングでドアの手前にモノレールの船が落下し大きな音を立て大破する。一瞬でも遅れていれば命は無かっただろうが、今は恐怖を感じている暇はなかった。


「走れッ!」

「う、うんッ!」


 とにかく生き残る事だけを考えて無我夢中で逃げ続けていたがその間も攻撃は続き、大きさだけが取り柄の廃墟となった百貨店は執拗に自爆ドローンの攻撃を食らい、ミシミシと音を立て天井から埃をまき散らす。


 このまま百貨店に留まるという選択肢はない。そもそもこの百貨店は元々経営不振と老朽化のせいで廃墟になったのだ。防衛システムを突破する最新鋭の自爆ドローンの猛攻に平和な時代に建てられた建物が耐えきれるわけがないので直に崩落してしまう。


 しかし頑丈な今の建物も似たり寄ったりだ。運が良ければ耐えきれるがその選択を選ぶのは博打でしかない。やはりここは最も安全な地下防空壕に逃げるべきだ。


「愛理、防空壕まで走るぞッ!」

「わ、わかった!」


 一階に降りるまでにそう結論付けた俺は愛理と共に百貨店を脱出した。最寄りの防衛壕まで少し距離はあるが突っ切るしかない。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ