3-114 謎多き希典先生の本心
宿を出た俺は火照った身体を夜風で冷ましながら、浴衣姿の希典先生とともに不揃いな石畳の小路を下っていく。
静寂に包まれた夜のユフィンには連なる赤い提灯の暖かな光が揺らめき、当てもなく彷徨い歩く旅人を導いてくれた。
時折聞こえるのは鈴虫の音色だけ。人の声はほとんど聞こえない。
だというのにこの暗闇の世界はどうしてここまで心地よいのだろう。
「やっぱり温泉街は夜のほうがいいよねぇ。寂しくてもやっぱり独りのほうが気楽だし。賑やかなのは疲れるから」
希典先生は扇子をパタパタと仰ぎ、ほんのりとにじんだ汗を蒸気に変えて飛ばしていく。
彼は酔いが覚めない様にクラフトビールをゴクゴクと飲み、少しでもこの心地よい微睡の様なひと時が続く様に抵抗している様だ。
ああそうか、俺は煩わしい人間が一切いない、この絶望と優しさが混在する純粋な闇の世界に癒されていたのか。
「智樹ちゃんも飲む? いつか智樹ちゃんとサシ飲みしたいんだけどなあ」
「そうですね、そのうち。死ぬ前になったら飲みます」
「特攻隊みたいに?」
「はは、ちょっと不謹慎ですよ。わざわざそんな事をしなくてもいつか俺は死にますし」
退廃的な冗談に俺は思わずクスっと笑ってしまう。
ただ誘いを断り続けて未だに飲まないのはなんとなくタイミングを逃した結果意地になっているだけで、実のところそこまで抵抗はなかった。
「それで? カムナちゃんに続きキーアちゃんともフラグを立てたみたいだけど、結局どのルートに突入するん? それともハーレムルート狙い? ハーレムボテ腹エンドとか、まさかのNTRエンド?」
「突入も何も別にそんなんじゃ。エロゲじゃないですし」
「んもう、温泉旅行の夜と言えば恋バナじゃん。リアンにサスケ、ザキラにニイノにマタベエでしょ? 結局誰にするのよぉ。モリンやリンドウもありっちゃありだけど。でもオトハとタカオはやらんよ」
「だから違いますから。希典さん、酔ってます?」
「俺っちは常に酔っぱらってるよぉ」
「そうでしたね」
温泉のせいで酔いが回ったのか、ご機嫌な希典先生はいつも以上にウザ絡みをする。
超越者モードの冷徹な時と比べると適当に相槌を打っていれば済むので、それと比べれば遥かに楽ではあるけど。
「大体明らかに恋愛対象にならないのが混ざってますが。サスケはギリありとして、ニイノは……マタベエを恋愛対象として認識したら流石に変態でしょう」
「どうだろうねぇ。ある意味メインヒロインかもしれないよぉ」
「ふふ、確かに言えてますね」
希典先生は冗談のつもりで言ったのだろうが、確かに存在そのものが純粋な愛と優しさで出来ているマタベエに俺は一番心を許していた。
流石に恋心を抱く事はないが、火傷跡を見ても怯える事無く気遣ってくれた彼の優しさを忘れるわけがない。
「なんだかんだでよく一緒にいますし、もしも女の子の姿になれば恋に落ちる自信がありますね」
「そうかいそうかい。なるほどねぇ、にゅふふ。だろうねぇ」
「?」
俺は半分冗談で、半分本心でそう言うと希典先生は思わせぶりにニマニマと笑ってしまう。この憎たらしい笑顔にはどういう意味が込められているのだろう。
「実は幼馴染って展開があったり」
「流石にキノコの幼馴染はいませんよ」
希典先生はラブコメのありがちな展開を予想するが、流石にあんなファンタジックな幼馴染はいない。大体友達自体そんなに多い方じゃなかったし。
(……でも)
京都への核ミサイル攻撃より前の記憶を、俺は実の所あまり覚えていない。
おそらく辛い体験のせいでそうなったんだろうけど、俺はなんとなく彼の優しさを元の世界でも感じた気がする。
そうだ、全身を地獄の業火で焼かれた俺はあの時――。
(うぐっ)
だが当時の恐怖がフラッシュバックしそうになり、俺は戻れなくなる前に慌てて記憶の再生を中断する。
あの時にそばにいてくれた誰かとの大切な記憶を思い出したかったけど、俺にはまだその勇気が出なかった。
「……なんにしても俺が誰かと結ばれる展開はありませんよ。子供を作るつもりもないですし」
浮かれていた俺は身体の火照りがすっかり冷めてしまい、シラフに戻って希典先生を突き放す。
もしも愛する人と結ばれても子供が無事に生まれてくる保証はない。そう考えると少なくとも結婚という選択肢は存在しなかった。
「そっか。でも俺っちなら智樹ちゃんを幸せに出来るよ」
「ノンケなんで勘弁してください」
「違うよぉ。誰得なんよ、そんなルート。同人誌じゃないんだから」
「さっきの話の続きなら何度言われても答えは変わりませんよ」
おそらく希典先生は病気を治療出来ると言いたかったのだろう。
だがその対価に俺は人を殺さなければいけない。
相手がどれほどの悪人だとしても、死を病的なまでに恐れる俺には誰かの命を奪う事は決して出来ない。
その前提が覆らない以上、この話し合いは最初から無意味だった。
「希典先生、あんたはどうして俺にそんなに御執心なんですか? 小説を書かせている意味も全然分かりませんし」
「そうだねぇ、そのうち教えるかもねぇ」
だがそんな対価で全てを与えてくれるというのならば本来はかなりいい話だ。
俺は何度も抱いた疑問を彼に投げかけるが、やはり先生は酒を飲みながらはぐらかしてしまう。
「ここ最近はずっと一緒にいるけど、俺はあんたの事を何もわからない。あんたは本当に人類史上最悪のテロリストなのか」
「どうしてそう思うの? 俺っちが血も涙もないテロリストで、民衆の敵なのは老いも若きも世界中の皆が知ってる常識でしょうに」
「それは……そういう噂を聞いた事があるから……」
人類史上最悪のテロを引き起こした荒木希典は冤罪であり、支配者達の陰謀によって陥れられた――それは向こうの世界で何度か耳にした話だ。
俺も少し前まではありふれた陰謀論の類だと思っていた。けれど彼の人となりを知り、果たして荒木希典は本当に歴史に名を残す咎人であるのか疑念を抱く様になってしまった。
「で? 今のお前さんはどっちを信じてるの? もしかしたら政府の陰謀でテロリストに仕立て上げられた正義のヒーローかなんかと思ってるの?」
「……正直、どっちの可能性もあるって思ってます。だからわからないんですよ」
希典先生と共に過ごし、俺は人情味のある希典さんと、冷酷な超越者としての二つの顔を知ってしまった。
比較的接する機会が多かった俺ですらこう思うくらいだし、ネットで陰謀論を好き放題に語っている連中には決して荒木希典という男を理解する事は出来ないだろう。
「好きに解釈するといいさ。お前さんに俺っちを理解する事なんて不可能だからねぇ。あまり俺っちを信用しないほうがいいよぉ」
――だけど。希典先生はまるでお前如きに理解されたくないと言わんばかりに、心に踏み入られない様に拒絶の言葉を口にした。
「まあ落ちぶれたテロリストのオッサンの事なんて、これっぽっちも理解しなくてもいいけどねぇ。もしも智樹ちゃんが俺っちを殺さないといけないって思ったら、いつでもウェルカムだよぉ」
「希典先生……」
「俺っちはね、いつかお前さんが魔王を殺す英雄になってくれるといいなって思ってたりするのさ。智樹ちゃん、その時は頼むねぇ」
最後に見た彼の姿は英雄でも魔王でもなく、あるいは陽気な幼女でもなく、酒に溺れた中年男性の惨めで弱々しい後姿だった。
おそらくこんな姿を見てしまえば、根拠に乏しい彼にまつわる陰謀論もすぐに忘れ去られてしまうだろう。
希典先生は暗い夜道を歩き続け、路地裏の闇の中にひっそりと消えていく。
だけど立ち尽くしていた俺には彼の後を追う事が出来ず、ただ独り静寂の世界に取り残されてしまう。
俺には荒木希典という男を理解する事は出来ない。
けれど彼が途方もない孤独の中にいる事だけはわかってしまったんだ。




