3-113 希典先生の月見酒
夜も更けてすっかり宿の廊下を歩く人もいなくなった頃、俺はこそこそと脱衣所に忍び込み服を脱いで温泉に入った。
字面だけ見ればまたしても事案野郎だが、これにはちゃんとした理由があるから何も言わないでくれ。
出来れば誰もいなければよかったんだが、どうやら一人先客がいる様だ。せめて背中の火傷跡を気にしない人ならいいんだけど。
「ふう」
露天風呂にいたのは髪の長い女性の様な男性で、引き締まった肉体は男であるとわかっていたのに妖艶な魅力を感じてしまう。
その性別を超越した美しさは、例えるのなら大衆演劇の女形の様な艶めかしさだろうか。
「希典先生?」
「やあ、この姿で会うのは久しぶりだねぇ」
だがその男性は木桶にとっくりとお猪口を載せて月見酒を楽しんでいたので、俺はすぐに彼が希典先生だと気付いてしまった。
というかまさか俺は希典先生にときめいたのか。しかも女体化ではなく男の姿に……。
うん、今のは気の迷いだ、そうに違いない。俺はつい先ほど感じてしまった奇妙な感情を無かった事にした。
「なんでその姿に?」
「自由に切り替えられるからだよ。誰得なこの姿がお気に召さないなら女体化も出来るけど」
「おわっ!?」
希典先生はニマリと笑い、体をゲル状に変化させた後ちっぱいロリ幼女の姿になってしまう。
全裸を見るのは二度目なので耐性は出来ていたし、これが希典先生だとわかってはいるから興奮はしなかったがやはり少しばかり目の毒である。
「勘弁してくださいよ……通報されそうですから。この世界には児ポ法ってあるんですか?」
「一応あるけどそっちの世界と同じで形骸化してるよぉ。皆復興支援地域で好き放題してるじゃん。実質マッチングアプリになったコミュニティアプリでもやっちゃってるし。他にも違法な養子縁組とか、」
「怒られるのでやめてください」
「まあこっちでも違反したら普通に捕まるよ。金持ちやアンジョ以外はね」
それらは俺達の世界ではタブーとされる事実であり、その禁忌が骨の髄まで染みついていたので俺は彼を黙らせた。
意味がない事は重々承知しているがそれでもやっぱり怖いものは怖い。でもやっぱりこっちでもそういうのはあるのか……しかも例の如く人間絡みで。
「まあまあ、面倒くさい奴がいたらトランスジェンダーへの差別になるって言えばいいさね。これも多様性だよぉ」
「逆のパターンはよく聞きますが、この場合どう対処するのが正しいのか困りますね。そもそもあんたはトランスジェンダーじゃないと思いますが」
見た目は男性のトランスジェンダーが女風呂や女子トイレを利用して揉める事はしばしばあったが、考えてみれば逆のパターンはほとんど聞かない。
実際いたとしてもかなり少数派だろうし、マスコミもどう扱っていいのかわからず問題として取り上げにくいっていうのもあるのだろう。
「ホレ、お前さんもそんなところに突っ立ってないで風呂に入りな」
「はいはい」
とにかくこのまま戻るのも悔しかったので俺は仕方なく風呂に入った。
「ふひー」
「TSオッサンとの入浴は興奮するかい?」
「しませんねー」
一度入ってしまえば細かい事はどうでもよくなり、全身の疲労から解放された俺は溶ける様に脱力してしまう。
おちょくる希典先生の言葉ももう耳に入らない。こっちの世界に来るまで長らく風呂には入らなかったが、やはり風呂は良いものだ。
「向こうだと背中の火傷跡を見た奴が放射能が移るとか言って気味悪がって逃げていきましたし。気兼ねなく風呂に入れるようになったのは地味に嬉しいですね」
「そうかい。でも俺っちならその火傷跡を完璧な状態に戻せるよぉ。お前さんを健康な体に戻す事も出来る」
「つってもその対価に人を殺さなくちゃいけないんでしょう。ならお断りです」
理不尽な経験をぼやいた俺は彼と出会った時にした取引を改めて断った。
確かにこの身体は不便で辛くはあるが、それは誰かを殺す事への恐怖に勝るものではない。
「ふぅん。もしも俺っちがエロ同人みたいにロリコンに凌辱されそうになってもそのルールを護るのぉ?」
「あんたなら余裕で自己解決出来るでしょうに。第一助けるほどの価値がテロリストのあんたにありましたっけ」
「そうだねぇ。俺っちはテロリストだったねぇ」
希典先生は馬鹿げた事を言ったので冷たく突き放すと、彼もまた自分が歴史上最悪のテロリストである事を実感し寂しそうな顔になってしまう。
「……………」
「……………」
そう、希典派のリーダーである希典先生は首都高を崩落させ、同じく稀代のテロリストである瀬田直子やMr.ハロウィンといった犯罪者を率いて多くの罪のない人を殺害した極悪人だ。
「智樹ちゃん、風呂から上がったらちょっくら付き合ってくれるかな。たまには男の友情を深めようじゃないの」
「え? 構いませんけど……」
希典先生が何を思って俺にそう提案したのかはわからない。だけどそこに悪意や打算と言った黒いものがないのはなんとなくわかってしまった。
たまにはこの寂しがりやなオッサンと仲良くするのもいいかもしれないな。




