1-9 無慈悲にも奪われる儚い希望
俺たちはどうにか丸屋百貨店を脱出したが、普段は比較的賑やかな市街地エリアも既に攻撃を受けており、至る所で建物が崩落して静かな葉瀬帆の街は阿鼻叫喚の地獄絵図となっていた。
せめてもう少し準備が出来ていればよかったが、全く無防備な状態で食らえばこうなってしまうだろう。
「(なんだよこれ、話が違うじゃないかッ!)」
「どけェッ!」
「(お母さぁんッ! 置いてかないでぇ! 助けろよォ!)」
「だ、誰か助けてェッ! ここから出してェッ!」
「痛い、痛いッ! 俺の足どうなってるんだッ!?」
街はそこかしこに肉塊となった人々の死体が転がっており、逃げ惑う人々は崩落するビルに押し潰され苦しむ間もなく絶命する。
大人たちは子供を押しのけ踏み潰し我先に逃げ惑い、戦争モノでありがちな美しい人間愛を感じられる光景などは微塵も感じられなかった。
「ひっ……!」
そこには地球上に存在するすべての絶望と狂気が存在していた。
燃え盛る炎とそれによって生きたまま苦悶の表情で焼かれる人々、肺を侵食する土埃、むせかえるような火薬と鉄サビの血のニオイ――それらの生々しい感覚は、俺の脳裏に刻まれたかつての忌まわしい記憶を呼び起こした。
背中の火傷の跡が疼く。どれほど熱いのだろう。どれほど痛いのだろう。
その凝縮された混じりけのない純粋な恐怖は全ての理性を根こそぎ奪い尽くしていった。もしこの状況で誰かを助けようと考える奴がいるのならそいつは狂っている。
誰もが死と痛みに恐怖し、生き延びるために肉親であろうと見捨て死に物狂いで逃げていた。
俺はその悍ましいにも程がある光景にただただ恐怖していたが、一部の人間は特に何をするでもなく歓喜の表情で黒い悪魔がうねる空を眺めていたのだ。
「ああ、ようやくこれで……ハハッ! 異世界転生サイコーッ!」
「こっちこっちー!」
「儂にも頼みます! こんなクソみたいな人生終わらせてやるわい!」
俺にとってはただの兵器でも、彼らにとっては救済をもたらす天使の降臨なのだ。
異世界に魅入られた人間は手を振ってアピールをして進んで標的となって爆散し、幸福に包まれながら望み通り楽園と信じてやまない異世界へと旅立っていった。
「ママ、怖いよ……」
「大丈夫よ、私たちも異世界に行きましょう! 何も怖くないわ!」
中でも印象的だった光景はある母親が恐怖に震える子供にそう告げ、逃げる事無く道路の中央に立った事だった。
せめて子供を安心させるために恐怖を押し殺してした発言ならばよかったものの、その瞳は疑いなく転生を信じている人間のそれだった。
「そんな……」
「……狂ってやがる」
これが人間のする行動なのか。正気の沙汰とは思えない。俺と愛理はその狂気に戦慄してしまった。
だが構っている暇はないし、連中が的になってくれるおかげで少しは時間が稼げたので死にたいのなら勝手にさせておこう。今は何が何でも愛理と共に生き延びなければいけないのだから。
「くッ!」
ドローンは絶え間なく降り注ぎすぐ近くのビルに着弾、音を立てて崩落する。
こちら目掛けて倒壊するビルの窓からは中にいた人が放り出され、彼らは死の恐怖から無意味にも窓のサッシを掴んで悪あがきをしていた。
まずい、このままでは押し潰されてしまう。それはどれほど痛くて苦しいのだろうか。
間近に迫る死の恐怖は全ての理性は消失し、心臓は破裂しそうなほどに激しく鼓動した。
進む先にはマンションが倒れて道路が塞がれ先に進めない。しかし他に道はないので突っ切るしかないッ!
「手を離すな、愛理ィッ!」
「智樹君ッ!」
俺は決して離すまいと愛理の左腕を握り潰す程に掴み、スクラップとなった車を足場にして横倒しのマンション目掛けて駆け出した。
全ての思考回路を生き延びるために全振りしろ、何が何でもこの地獄を生き抜いてやるッ!
「うおらぁああッ!」
その生への執念は火事場の馬鹿力を引き出し俺に眠れる力を呼び起こし、俺は自分が死にかけの病人である事を忘れて車のボンネットを跳躍した。
「がふッ!?」
同時にビルが倒壊する轟音が聞こえた後衝撃で吹き飛ばされ、数秒間地球の重力から解放された俺はマンションの外壁に着地、ベランダから室内に落下しそうになったがギリギリで身をよじって持ちこたえた。
俺は生きているのだろうか――脳味噌も肉体も酷使し過ぎたせいで頭がまともに働かず、その実感がわかないまま俺は周囲の状況を確認した。
一面のガレキ、半壊した建物、死体、血。見える光景は何も変わらない。だが意識があるという事は俺は生きているのだろう。
「そうだ、愛理は……!」
俺は何よりも大切な人の安否を確かめるためずっと繋いでいた手を確認した。
強引に引っ張って随分と無茶をさせたが怪我でもさせていなかっただろうか。後でちゃんと謝っておこう。
よかった、ちゃんと俺は彼女の手首を掴んでいた。けれど――。
「あい、り……」
そう、俺は確かに彼女の左腕を掴んでいた。その言葉に嘘はない。いつも繊細な指で楽しそうにトランペットを演奏していた左腕だ。
けれど俺が持っていたのは肘から先の部分だけだった。
千切れた断面からはポタポタと漏れ出る様に赤黒い血が零れ落ち、彼女の腕はただの肉塊へと変わっていたのだ。
どうして愛理は左腕だけになっているのだろう。肘から向こう側はどこにあるのだろう。
それが何を意味するのか、俺は理解出来ていたはずなのに理解したくなかった。
戦場では何もしない事は死を意味する。ドローンは変わらず逃げ惑う人々を密猟者の様に楽し気に追い掛け回し、地球よりも重いはずの命を味わう事無く食い散らかしていた。
ああ、希望を抱いた所で結局こうなるのか。
やっぱりこの世界には夢も希望もなかった。
もう何も考えたくない。
ちょうどいいところにドローンがやって来た。
軌道を推測するとあれはきっと俺のいるあたりに着弾するのだろう。
ずっと死を拒んでいた俺はその時、ようやく異世界転生を待ち望んでいた人々の気持ちが理解出来たんだ。
せめて次の世界では普通に生きられるといいんだけどなあ……出来ればもう少し健康な体で、家族や友達と一緒に楽しく過ごして、小説を投稿したりしてさ。
やっぱり死ぬ前に一本くらい小説を投稿したかったな。
誰にも見てもらえなくても、プロの小説家になれなくても、自分の作品を読んであの時の俺みたいに誰か一人でも幸せな気持ちになってくれればそれでいいからさ。
最期のその瞬間、幸いにも痛みは感じなかった。
俺の意識は世界からフェードアウトし、永遠の暗闇は全ての絶望を覆い隠して飲み込み、何も見えなくしてくれたんだ。




