川灯の宿
八月十日、私は豪雨被災地の記録を撮るため熊本県人吉市を訪れた。球磨川が氾濫してから一か月。濁流は引いたものの、川沿いの旅館や民家には泥がこびりつき、真夏の日差しの下で異臭を放っていた。
取材拠点として案内されたのは「川灯荘」という昔ながらの木造旅館だった。被害が軽かったため復旧が早く、ボランティアや報道関係者に無料で開放しているという。女将の城戸多恵さん(七十二歳)は痩せ細った体で玄関を掃きながら、私にこう言った。
「夜は川の音が近いけんね。もし水の匂いが強うなったら、すぐ外に出て」
冗談とも忠告ともつかず、私は笑って頷いた。
館内は板の間がよく軋む。廊下の隅には泥と一緒に流れ込んだ小石がまだ残り、壁紙は途中から水色と茶色のまだら模様に変色している。二階の角部屋を割り当てられ、窓を開けると球磨川がすぐ下で鈍く濁った水面をうねらせていた。
夜、一階の広間で写真データを整理していると、廊下奥から「ぎぎ……」という車輪の擦れる音が聞こえた。車椅子だろうかと顔を上げた瞬間、広間の畳の端を黒いタイヤ跡が通り過ぎた。旅館に車椅子の客はいないはず——私はカメラを握り直し、薄暗い廊下へ出た。
しかし灯りの下には誰もいない。ただ、乾いたはずの床板に水滴が点々と落ち、タイヤ跡が玄関の方へ消えていた。
深夜二時。蒸し暑さに寝苦しく、縁側で涼んでいると、川面を渡る風に乗って鈴のような音がした。水死者を弔う“川鈴”と呼ばれる土産物かもしれない。耳を澄ますと、鈴の音に混じって複数の声が揺れていた。
「つめたいねぇ」
「おとうさん……まだ?」
声は川と旅館の境を漂い、やがて私の真下──床下から響くようになった。同時に畳がじわりと湿り、素足に水が滲みてくる。慌てて立ち上がると、畳の目の隙間から濁った水が吹き上がり、一瞬で足首まで浸かった。
水面下で何かが動く。薄く開いた襖の隙間から、白い上腕がふわりと浮き、私の足首を軽く撫でた。触れた瞬間、氷のように冷たい。次の刹那、畳が弾ける音とともに水が引き、灯りが瞬いて、私は畳の上に独りで立っていた。濡れた痕跡はどこにもない。
翌朝、私は女将に昨夜の出来事を打ち明けた。多恵さんは小さくうなずき、蔵から持ってきた古いアルバムを開いた。
「ここにおられた方たちよ」
写真には川灯荘のロビーで笑う高齢者たち、職員の女性、浴衣姿の子どもが写っている。表紙の脇には「特別養護老人ホーム千寿園 一時避難記録 令和二年七月」とあった。
豪雨当夜、近くの介護施設「千寿園」は浸水が急激で逃げ遅れ、職員が必死に車椅子や寝台ごと高齢者を運び出し、この旅館へ約二十名を避難させたという。しかし球磨川はさらに増水し、旅館の一階も瞬く間に腰まで浸かった。
「二階へ上げようとしたけど、水が速うてね……」
多恵さんは震える指で写真の端を押さえた。
「ここで十四人が流されてしまったと……」
夜。私は出水時の様子を想像しながらシャッターを切り続けた。ふいに、廊下の向こうで赤い灯が揺れるのが見えた。提灯の残光かと思ったが、風もないのにスッと横滑りに移動している。カメラ越しに追うとそれは水面に浮かぶロウソクの火で、灯の下には車椅子の背もたれが揺れていた。
「おいで……」
ささやきが耳元で割れる。首筋を冷気が撫で、水の匂いが濃くなる。私は無意識にシャッターを連打した。フラッシュが走るたび、廊下の板張りが川面へ変わり、畳が濁流に沈む。白い腕が、老人の背が、子どもの顔が、瞬間ごとに像を結んでは水柱となり――
気づくと私は玄関の外、夜風の中に立っていた。川灯荘の窓は真っ暗で、ただ川の流音だけが遠く響いていた。
夜明け前、カメラのプレビューを確認すると、最後の数枚だけが保存されていた。そこには廊下を流れていく川面と、無数の赤い灯の中を車椅子で漂う高齢者の影が写っていた。画面の片隅、子どもの小さな手がこちらを差し伸べ、指さす方向には旅館の非常灯がぼんやり光っていた――まだ逃げ道がある、と告げるように。
私はその写真を多恵さんに手渡し、「この宿を閉じてください」とだけ告げて人吉を発った。車窓に映る球磨川は穏やかだったが、目を閉じると赤い灯がいまも川底で揺れている気がした。
――――実際にあったできごと――――
2020年7月4日未明、熊本県と鹿児島県を中心とする記録的豪雨で球磨川が氾濫し、人吉市・球磨村などで75名が亡くなりました。球磨村の特別養護老人ホーム「千寿園」では浸水によって入所者14名が溺死する惨事となり、避難の困難さが全国に報じられました。氾濫域周辺の旅館・民家は今も復旧が遅れ、夜間に「水音が戻る」「廊下で車椅子の跡が濡れている」といった体験談が、ボランティアや宿泊者の間で語り継がれています。