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怖い話  作者: 健二
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七月、樹海に伸びる赤いひも


 梅雨が明けたばかりの七月末、大学写真部の先輩・佐原に誘われて、私は富士山麓の青木ヶ原樹海に入った。目的は“人の入らない夏の樹海を撮る”という卒業制作のロケハンだった。午前九時、気温はすでに三十度を超えているはずなのに、樹海の入口に足を踏み入れた瞬間、空気は別世界のように冷たい。湿った苔の匂いが重く沈み、風は葉擦れさえ運ばない。


 方位磁石は早くも狂い、スマホのGPSは砂嵐のように座標を飛び跳ねる。だが佐原は慣れた手つきで黒いビニールテープを木に巻き付け、来た道をマーキングしながら奥へ奥へと進んだ。目印は十分ごとに貼るはずだったが、二時間ほど歩いた頃、私がふと背後を振り返ると、赤いビニールひもが一本、足元の下草に伸びているのに気づいた。幅五ミリほどのそのひもは、苔むした地面の上を蛇のように続き、どこまでも真っ直ぐに――まるで私たちを案内するかのように――闇へ消えていた。


 「登山道具屋で売ってる“帰り道用の命綱”だよ」佐原が言った。「自分が迷わないように巻きながら入るんだけど、途中で切れたら……まあ、そういうことだ」


 その“そういうこと”を聞き返す気になれず、私はひもの行方を追うようにカメラを構えた。ファインダー越し、樹海は緑と黒だけの世界なのに、赤いひもは血のように鮮烈で、息を飲んだ。そのとき、ボディに取り付けた無音設定のシャッターが、カシャリ、とありえない音を立てた。続けてシャッター幕が勝手に下り、液晶に「カードを認識できません」と表示された。新品のSDカードだ。けれど何度挿し直してもエラーは消えない。


 苛立つ私をよそに、佐原は赤いひもの終端を見つけた。朽ちかけた倒木の根元、暗い土のうえに小さな紙袋が置かれている。袋は湿気で崩れ、印刷された“御礼”の二文字だけが読めた。中からは梅雨明けとは思えない冷気が漂い、白い息となって空に溶けた。


 「……開けるなよ」佐原が低く言った。だが私は目を離せない。袋の口は半分開き、内側から細い糸が垂れている。よく見るとそれは髪の毛だった。長い黒髪が泥水を吸い、赤いひもの色を映したように暗く艶を帯びている。私は反射的に一歩退いた。その瞬間、膝のあたりでザザッと草が揺れた。誰かが背後で駆け抜けた気配。振り向いても木立しかない。


 不意に遠くでカメラのシャッター音が連続して鳴った。私のカメラは壊れているはずなのに。佐原が叫ぶ。「戻るぞ!」 彼の声は震え、息が白い。私は首を縦に振り、来た道を示す黒いテープを探した。けれどテープは一本も残っていなかった。代わりに、赤いひもが私たちの足元を囲むように張り巡らされている。最初は一本だったはずのひもが、いつの間にか幾重にも枝分かれし、私たちの逃げ道を塞いでいた。


 足首に冷たいものが触れ、見ると赤いひもが生き物のように締め付けている。切ろうとナイフを構えた佐原の手が止まった。ひもの表面を覆うこまかな繊維が、人の毛髪であると気づいたからだ。艶やかな髪の根元を、干からびた指の先が握っている――ひもの下の土から、白骨化した右手の指が突き出ていた。


 こみ上げる悲鳴を抑え、私は佐原と無理やりひもを引きちぎり、手を振り払った。走り出して数十秒、突然、耳の奥で電子音が鳴った。ピッ……ピッ……と心電図のような鋭い高音。嫌な既視感に掻き立てられる。音は背後だけでなく、足元や頭上からも降ってくる。ふいに視界が暗転し、足元の地面が柔らかく沈んだ。靴裏が水に浸かる冷たさ。苔ではなく泥水の匂い。どこか遠くでフラッシュの弾ける音。私は必死でカメラを抱え、佐原の声を探したが、闇の奥で何度もシャッターを切る音だけが応える。光はないのに、切られ続けるシャッター。


 意識が遠のく寸前、私の頬を何かが撫でた。冷たく、細い。髪だった。長い黒髪が空中を泳ぎ、私の首に絡みつく。覚悟を決めて目を開けると、闇の中に輪郭だけの女が立っていた。顔は見えない。だが胸の位置に四角い窓のような穴が開き、そこから赤いひもが束となって伸び、四方八方の樹々に刺さっていた。女は首を傾け、穴の奥で静かに口を開いた。


 「――返して」


 下一音だけが耳膜を震わせ、私の意識は真っ白に飛んだ。


     ◇


 気づくと、樹海入口の駐車場で救急隊員に肩をゆすられていた。時間は午後三時。樹海に入ってからわずか六時間しか経っていないはずなのに、私の靴も服も泥で重く、まるで一晩彷徨った後のように体がこわばっていた。佐原は? 尋ねる前に、ストレッチャーに横たわる彼が目に入った。左手首に赤いひもが固く結ばれ、指先は黒く変色している。救急隊員がハサミで切ろうとすると、ひもは紙のようにもろく崩れ、灰となって風に消えた。


 ひもが外れた瞬間、佐原のカメラバッグが自壊した。中からSDカードが散らばり、一枚だけレンズキャップに貼り付いたまま残ったカードを私は拾った。当日夜、帰宅してパソコンに挿すと、フォルダ名は「RETURN」。ファイルは一枚だけ。闇に浮かぶ梅雨明けの空。その中央、長い黒髪が風にふわりと舞い、髪の束から赤いひもが垂れていた。撮影者の位置は地面より低い。まるで土中から空を見上げてシャッターを切ったような構図だった。


 以後、佐原の左手首には赤黒い痣が残り、真夏でも氷のように冷えたままだという。彼はカメラを握れなくなり、写真部を退いた。私はあのSDカードを削除できないまま、今も外付けディスクの最深部に封じている。夜更け、ディスクが死んだように静かなはずの部屋で唐突にアクセスランプが点滅すると、私は耳を塞ぐ。ピッ……ピッ……という電子音が、いつ私の脈と同期するのか恐ろしくて。


――――――――――――――――――――

【実際にあったできごと】


・富士山麓の青木ヶ原樹海では、1990年代以降、自殺を決意した人々が迷わないように赤や黄色のビニールひもを木々に巻きながら奥へ進み、その途中で思いとどまったり途切れたりした痕跡が多数確認されている。山梨県警の巡回隊は毎年7〜9月、ひもをたどって遺体を発見するケースが後を絶たない(山梨県警察本部「富士山麓行方不明・自殺事案報告書」2022年版)。

・2014年7月、樹海をロケハンしていた都内芸術大学の学生二人が一時行方不明となり、うち一人が森の奥で気絶しているところを救助された。腕に赤いビニールひもが巻き付いていたが、救助時には切れた状態で、先端は土中に潜り込んでいたと消防隊員が証言している(毎日新聞山梨版 2014年7月28日夕刊)。

・同地域では救助・捜索活動中、故障したはずのカメラや録音機器が作動し、帰還後に不明瞭な音声や写真データが残っていたケースが複数報告されている。山梨県警は「機器トラブル」とのみ公表しているが、一部隊員は「心電図のような電子音が断続的に聞こえた」と非公式に語っている(『月刊ムー』2020年8月号・特集インタビュー)。

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