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怖い話  作者: 健二
★☆★
97/109

水底の提灯


 八月十四日。盆送り火の夜、私は大学のボランティアサークルとともに岡山県倉敷市真備町へ向かった。西日本豪雨からひと月あまり。堤防決壊で水没した家々は、泥と腐臭をたたえたまま手つかずだった。

 宿泊所として用意されたのは、浸水被害で休校中の旧・吉川小学校。体育館はまだ床板が剥がれ、コンクリートがむき出しのまま乾ききっていない。われわれは発電機と簡易ベッドを持ち込み、夜はそこで眠る段取りになった。


 午後の作業を終え、私は日没後の校舎を見回った。薄暗い廊下に漂うカビと泥水の匂い。二階の音楽室前で足を止めると、風鈴のようにかすかな鈴の音が聞こえた。誰かが冗談で吊るしたかと思い、扉を開けたが、埃をかぶったピアノが置かれているだけだ。

 ふと足元を照らすライトの中、濡れた子どもの足跡が点々と伸びているのに気づいた。泥は乾いていない。だが二階は浸水していないはず──背筋が凍り、私は足跡を追わず廊下へ戻った。


 深夜一時、蒸し暑さで目が覚めると、体育館の床に薄く水が広がっている。外は晴れ、雨の音もない。それでも水位は足首まで達し、ベッドの脚が沈んでいる。

 「ポン……ポン……」

 水面で何かが跳ねる音。暗闇に浮かぶ無数の赤い光点が、ゆらゆらと校舎側へ漂ってくる。提灯に見えたが、それは水面下から突き出た家屋の屋根瓦だった。瓦の隙間から燐光のような火が滲み、ぼんやりと灯を揺らす。

 次の瞬間、耳元で子どもの声が囁いた。

 「かえろ……うちに、かえろ……」

 私の手首を冷たい指がつかんだ感触。反射的に振りほどくと、水の中に小さな影が沈んでいく。「待って」と声をかけても、影は泡ひとつ残さず消えた。気がつくと体育館の床は乾き、仲間たちは寝息を立てている。私だけが汗と泥にまみれ、ベッド脇に膝をついていた。


 翌朝、地元の片付け班と合流した私は、あの夜見た瓦の色と同じ朱色の提灯を、倒壊した民家の屋根裏から回収した。軸木にマジックで日付がある。

 「七月六日 送り火よう なつみ」

 傍らの年配の男性は、提灯を見つめて小さく嘆息した。

 「ここに住んどった小学生の女の子じゃ。おばあちゃんと二人で、提灯作って今年は墓まで送るんよと嬉しそうに話しとった。結局、あの夜……」


 泥の中から掘り出される写真やランドセルが、亡くなった名前と結びつくたび、校舎の鈴の音が遠くで揺れた気がした。夜、再び体育館に戻ると、干き切った床板の隙間からほんのりと水が滲み出している。私は提灯を胸に抱え、声をかけた。

 「もう帰っていいよ。灯は持ってきたから」

 すると室内の空気が少しだけ乾き、泥の匂いが潮風のように薄らいだ。外に出ると、真備の町に残る家々の屋根が月光に濡れている。あの赤い光点は、今度こそ故郷まで帰れただろうか。


――――実際にあったできごと――――

2018年7月6日〜8日にかけての「平成30年7月豪雨(西日本豪雨)」では、岡山県倉敷市真備町を流れる小田川と支流の堤防が決壊し、町域の約3割が浸水しました。真備町だけで51名が亡くなり、その多くが高齢者や家屋に取り残された住民でした。決壊箇所付近の小学校・公民館も被災し、現在も校舎の一部は閉鎖されたままです。地元ボランティアの間では、夜間の校舎で「濡れた足音」や「鈴の音」が聞こえるという噂が残っています。

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