灰祀りの山小屋
八月十三日、私は信州在住の友人から誘われ、御嶽山の麓にある休業中の山小屋「御来光庵」の調査に同行した。友人の大学は火山防災を研究しており、「噴火後に放置された山小屋の現況」をレポートにまとめるという。御来光庵は御嶽山の標高二千三百メートル付近、登山道から少し外れた尾根に建っているが、例の噴火以降は閉鎖されたままだった。
四年ぶりの夏山は蒸していて、風が吹くたびに硫黄と湿った土の匂いが漂う。午後三時、小屋に到着すると、外壁は灰色に煤け、窓は割れたままビニールで塞がれていた。私たちは管理者から借りた合鍵で扉を開け、中に足を踏み入れた。
暗い室内には、灰の薄膜が床を覆っていた。踏みつけるたびに白い粉が舞い、靴音が妙に鈍い。ふとストーブ横の壁に、チョークで記されたままのメモが残っているのを見つけた。
「十三時―水確保 十四時―炊出し 十五時―避難」
噴火当日、宿泊客たちが記したタイムラインだろうか。文字の横には焦げ茶色の手形が複数、途中で擦れたように付いていた。
夜九時、発電機を回しヘッドランプを点けながら、私と友人は二階の寝室を調べた。薄いベッドマットが並び、掛布団は灰で硬くなっている。窓際の一角だけ、不自然に灰が盛り上がっていた。箒で払うと、数センチ下から登山靴の爪先が二つ、灰に半分埋もれたまま現れた。
靴は古びているが、中が空洞ではない。私たちは息を呑み、慎重に灰を掻き出した。現れたものは靴だけだった──が、灰に触れていた指先が冷たく湿っているのに気づく。ここは八月、しかも室内。なのに灰の中から滴るような感触があるのだ。
深夜一時、打ち合わせ通りデータ採取を終えると、友人は一階の厨房で寝袋に入った。私は装備を片付けに二階へ戻る。ヘッドランプの光が天井を横切ったとき、梁に吊るされた錆びた鈴がひとりでに揺れ、チリン……と微かな音を立てた。
その瞬間、階下から水の跳ねる音がした。山小屋に水道は通じていないはずだ。耳を澄ますと、まるで誰かが床を歩くたび、濡れた靴底が木材に吸いついて離れるような「じゅっ、じゅっ……」という音が続く。私は凍りついたまま身を屈め、開け放した寝室のドア越しに階段を見下ろした。
暗闇の底で、白い光が揺れる。登山者が使うヘッドランプの光点に見えたが、鼓動が速まるにつれ、光はゆっくりと階段を上がってくる。やがて梁に遮られた一瞬、私は見てしまった。ライトではない。人の顔だった。
両目が焼けただれたように黒く窪み、口元からは灰がぼろぼろとこぼれ落ちる。首が不自然に前へ折れ曲がり、だらりと垂れた両腕の指には登山手袋が融けたように張り付いていた。
その顔が私を捉えたとき、すり切れた唇が開く。
「……まだ、あつい……」
焦げ臭さと硫黄臭が一気に鼻を刺し、私は反射的にドアを閉めた。ノブが湿った泥のようにぬるりとし、手を離した拍子に背後でドン、と激しい衝撃が響く。続けざまに壁や床を叩く音が鳴り、灰が天井から雪のように降った。
「おい、大丈夫か!」
一階から友人の叫び声。私は扉を押さえながら必死で返事をしたが、直後、扉の隙間から灰混じりの水がじわりと染み出し、足元が冷えた。
いつのまにか鈴の音は止んでいた。気づけば外が白み始めている。音も水も消え、扉を開けると、そこにはただ灰にまみれた廊下が横たわっているだけだった。階下に降りて友人と顔を見合わせるが、彼は終始無言のまま荷をまとめた。帰りの山道で彼はぽつりと言った。
「あの……二階で見たんだ。横たわっている死体がいくつも。目を閉じたまま灰を吐きながら、『暑い』って……」
私たちは互いの体験を重ね、口をつぐみ、ただ山を下りた。
下山後、地元消防団の協力者に話を聞くと、御来光庵は噴火当日、避難途中の登山者十一名が駆け込み、うち三名が灰と高熱で動けなくなり、そのまま小屋内で死亡したという。「遺体は翌日回収された」と聞かされたが、私は信じきれなかった。あの湿った靴底の音、灰の中の滴り……回収できなかった何かが、いまだあの小屋に留まっているのではないか。
八月十三日――今年もお盆が巡ってくる。夜、机に向かっていると、ふとどこからか鈴の微かな音がした。耳を澄ますと、ヘッドランプのライトを振るうような白い残像が、視界の隅で揺れた。私は震えながら目を閉じた。
山から運んだ灰が、いまだ靴にこびりついている気がしてならない。
――――実際にあったできごと――――
2014年9月27日、長野県と岐阜県にまたがる御嶽山(標高3067m)が突如噴火し、登山者ら63名(死者58名・行方不明5名)が犠牲となりました。噴石や高温の火砕流、火山灰による窒息が主な死因で、戦後最悪の火山災害とされています。噴火直後、山頂近くの複数の山小屋には避難しきれなかった登山者が取り残され、一部は室内で亡くなった状態で翌日に収容されました。現在も閉鎖・取り壊しが決まらないまま放置された小屋が存在し、地元ガイドの間では「夜に鈴の音と濡れた靴跡が聞こえる」という噂が絶えません。