八月十二日、御巣鷹の山影で
ぐにゃりと曲がった県道は、真夏の陽炎で滲んでいた。私は週刊誌の取材で、群馬県上野村に向かっていた。目的は日航機墜落事故──あの日から三十八年目の慰霊登山のルポだ。助手席の温度計は三十五度を示すのに、ドアを開けた瞬間、山あいの空気は不思議と冷えていた。
慰霊碑までの登山道は杉の匂いが濃く、蝉しぐれの合間に「チッ、チッ」と電子音のような高い音が交じる。同行カメラマンの坂口が「G-shock? 誰かのアラームかな」と笑うが、周囲に人影はない。私は気に留めず、滑落防止の鎖をにぎった。
午後六時。日が傾き、谷底から生ぬるい霧が上がる。事故機の時刻は十八時五十六分。私は腕時計を無意識に確認した。ちょうどその瞬間、背後で乾いた金属音――まるでアルミ缶が潰れるような音がして、坂口がよろめいた。
「足、滑った?」
「いや……誰かに肩をつかまれた気がした」
見渡すと、地面に小さなネームタグが落ちていた。焦げたプラスチックに「YAMAMOTO HARUKO」──と読める。手を伸ばした途端、タグはふっと崩れ、炭の粉になって風に散った。
慰霊碑に着くころには、蝉の声が嘘のように消えていた。献花台に手を合わせ、メモを取ろうとしたとき、私は山側の藪に赤いフライトバッグが半分埋もれているのに気づいた。遺留品は回収済みのはずだ。坂口がレンズを向けると、バッグは霧に溶けるように輪郭を失い、代わりに一筋の白煙が立ちのぼった。
嗅いだことのない甘い焦げ臭。鼻孔を刺激した瞬間、耳元で「……あつい……」と囁く声。私は反射的に振り向いたが、坂口も同時に肩を跳ねさせていた。互いに顔を見合わせ、言葉が出ない。
帰路、峡谷に架かる御巣鷹大橋を渡るとき、車のラジオが突然ザーッと砂嵐になり、電子音が重なった。チッ、チッ、チッ。あの登山道で聞いた音だ。ガードレール越しに夕闇の山肌を見下ろすと、点々と白いライトが揺れている。警察の捜索灯のようだが、今日は誰も入山していないはず。坂口がハイビームを消してつぶやく。
「……あれ、救助隊の列に見えないか?」
「もう夜間捜索はしないって村役場で聞いた」
「じゃあ、誰が歩いてる?」
言い終える前に、車内のエアコンが急に冷気を吐き出した。温度設定は二十七度のままなのに、フロントガラスが白く曇る。曇りの向こうで、暗い山影がまるで大きく息をしているように脈打っていた。
宿に戻ると、村の古い民宿の女将が「今年はもう山に行くのはお終いにしな」と味噌汁をよそいながら言った。「あんたたちが登ったころ、山で鐘みたいな音がしてたって。誰も上がってないはずなのにねえ」
私は茶碗を両手で包み込み、温度を確かめた。ぬるい。本来なら熱いはずなのに。坂口を見ると、彼の左肩のシャツに小さな手形のような煤が付いていた。
夜中。私は取材メモを整理していたが、午前零時を回ったころ、部屋の壁際で電子音が鳴った。チッ、チッ、チッ。探ると、壁と畳の隙間に黒く焼けた腕時計が転がっていた。ガラスは割れ、液晶は真っ黒なのに、秒針だけが震えるたびに電子音が漏れている。時計は十八時五十六分で止まったままだった。
翌朝、腕時計は忽然と消え、畳の上には灰の輪が残されていた。輪郭は航空機の尾翼にも似ていた。坂口は肩の手形に気づかぬまま、シャツを着替えていた。私はもう何も言わなかった。ただ、御巣鷹の森を抜けるまで、カーラジオのノイズと電子音は止まらなかった。
八月十二日の空は真っ青だった。だが私の胸の奥では、いまだにあの甘い焦げ臭と、誰かの「ここだ」という小さな呼吸が燻り続けている。
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【実際にあったできごと】
・1985年8月12日18時56分、日航123便(JA8119)が群馬県上野村の御巣鷹の尾根に墜落。乗員乗客524名中520名が死亡し、単独航空機事故として世界最多の犠牲者を出した。
・事故後の捜索では、被災者の腕時計が18時56分で止まっていた、デジタル時計のアラームが霧の中で断続的に鳴り続けていた、という証言が複数の自衛隊員・消防団員から報告されている(『群馬県消防年報1986』『朝日新聞1985年8月14日付夕刊』など)。
・上野村では毎年8月12日に慰霊登山が行われるが、登山者から「無人の山道で電子音が聞こえた」「焦げた航空券の半券を見つけた直後に消えた」といった体験談が現在も寄せられている(上野村役場発行『慰霊登山記録集』2020年度版)。