海鳴りの宿
七月下旬、梅雨が明けるや否や、私は取材で島根県の小さな漁村を訪れた。港から歩いて十五分ほどの崖の上に、木造三階建ての古びた旅館「海鳴館」がぽつんと建っている。明治期に建てられ、戦時中は海軍の臨時療養所、その後は旅館として細々と続いてきたという。
取材の題材は「取り残された昭和の宿」。だが、この旅館にはもう一つの顔があった。地元では「海から帰れなかった者が夜ごと訪れる宿」と噂され、夏場でも空室が目立つ。にもかかわらず、私は編集長に半ば強制される形で投宿することになった。
一日目の夜。潮騒が子守唄になるかと思いきや、二十三時を回ったころ、館内放送用の古いスピーカーからガリッとノイズが走り、ざらついた女の声がかすかに聞こえた。
「……かえして……」
フロントは無人。宿泊客は私を含めてわずかに三組しかおらず、廊下は人気がない。スピーカーを手で叩くと声は止んだ。気のせいだろうと自分に言い聞かせるしかなかった。
二日目、女将の三枝和子さん(七十六歳)にインタビューを試みた。
「ここは昔から海難事故が多いんですよ」
和子さんは茶をすすりながら静かに語った。
「特にお盆前後は、沖で帰れなくなった魂が潮と一緒に岸に寄る。戦争中は遺体の引き取りも難しくてね。今でも夜中に廊下を歩く水音がするときがあるんです」
それを裏づけるように、館内のあちこちには水に濡れた足跡が薄く残っていた。和子さんはモップで丁寧に拭き取りながら、「このままにしておくと他の人を呼ぶから」と呟いた。
三日目の深夜、私は原稿をまとめるため一階のロビーに降りた。海側のガラス窓は大波を写し込み、月明かりに光っていた。ふと視線の端に、白い浴衣姿の子どもが映った。肩まで濡れ髪を垂らし、足元から水滴を落としながら私を見つめている。
心臓が凍りつく。瞬きもできずにいると、子どもはゆっくりと口を開けた。
「ねぇ、おかあさん……見つかった……?」
返事のかわりに、私は椅子ごと倒れこんだ。バン、と大きな音を立てた瞬間、照明が一斉に消えた。闇と潮騒と胸の鼓動だけが残る。どれほど経ったのだろう。停電が復旧し灯りが戻ると、子どもの姿はなかった。床には塩を含んだ海水の跡が点々と続き、玄関の自動ドアの前で途切れていた。
翌朝。顔色の悪い私を見て、和子さんはそっと押し黙ったまま、裏手の納屋へ案内した。年代物の大きな桐箱が置かれている。
「ここには拾った遺品を入れています。持ち主が分からないまま海で上がったものばかり」
蓋を開けると、錆びた腕時計、潮で固まったスケッチブック、小さな浮き輪の切れ端。その奥に、潮焼けした写真があった。白い浴衣を着た七、八歳ほどの女の子。そばで微笑む母親。
「二十年前の夏、沖で転覆事故がありました。ご家族は必死で捜索しましたけど、母親だけ見つかって、娘さんは今も……」
和子さんはそこで言葉を飲み込んだ。
「お盆になるとね、必ずあの子がここへ帰ってくるんです。お母さんを探して」
私は写真を胸に抱くようにして立ち尽くした。波の音が遠くで呼んでいる。取材が終わり、宿を去る朝、玄関の床は再び濡れていた。そこに小さな指で書かれていた文字──「かえして」。
高速バスが崖を下り、海鳴館が視界から消えても、背後で水滴が落ちる気配がまとわりつづけた。取材ノートを開くと、書いた覚えのない字で同じ言葉が滲んでいた。
「かえして──」
走行音に紛れて、子どものすすり泣きが耳の奥に染みついたまま、私は帰路についた。
――――実際にあったできごと――――
2017年7月29日、島根県出雲市多伎町の海岸で高波にさらわれた親子が行方不明となり、このうち当時7歳の女児が現在も未発見のままです(島根県警・日本海新聞など報道)。地元では事故現場に近い崖上の廃業旅館跡で、夜ごと濡れた子どもの足跡が見つかるとの噂が続いています。