八月二十三日の白い兵隊
真夏の八甲田山は、湿度を含んだ緑の匂いと、遠くで鳴るヒグラシの声に満ちていた。大学山岳部の合宿で私は初めてこの山に入ったが、八月でも霧が濃く、気温は平地より十度以上低い。夜はフリースを重ねても震えるほどで、テントサイト脇の雪渓が白く光っていた。
その夜、私は就寝当番で、消灯後も一人でガスストーブを見張っていた。時刻は二十三時四十四分。テントのフライを叩く雨音に紛れて、遠くからザッ、ザッ、と靴底で雪を踏み砕くような足音が聞こえてきた。夏山に雪のはずがない。仲間の誰かが外で用を足しているのかと思い、ライトを手にジッパーを開けた。
霧は深く、ヘッドライトの円筒形の光だけが淡く宙に浮いている。その中にふと、人影が立った。古い軍帽、外套らしき布。いや、布ではなく氷が鈍く反射している。体の左側が白く凍りついて、右半身は泥と血で固まっていた。顔は見えない。見えないのに、頬が切り裂かれた線だけがやけに赤く映えた。
私は喉から声が出ず、テントのジッパーを閉めることさえ忘れた。人影は小刻みに揺れながら、足音もなく近づいてくる。濃霧のなかで距離感が狂い、光の輪に入った瞬間、白い吐息が目の前に現れた。八月のはずの夜気が、一気に氷点下へ沈む。私は息が詰まり、背後のガスストーブの火がフッと消えた。
真っ暗闇。耳の奥でガリッと氷を噛む音がした。次の瞬間、テント全体が外から鋭く引っぱられたかのようにベコンと凹み、ペグが軋んだ。仲間の吉田が飛び起き、「熊か!?」と叫んだ。私は震えながらもライトを再点灯させ、外へ出た。しかし誰の気配も、熊の足跡さえもない。霧だけが濃く、冷たい。
翌朝、私は同じ場所で、錆びた軍用水筒を見つけた。表面に微かに「第二聯隊」の刻印。何十年も雪に埋まっていたのだろう。仲間は「山には昔の遺留品がある」と笑ったが、私は黙ってザックに放り込んだ。理由はわからない。だが離せば二度と戻れない気がした。
下山後の二十六日、青森市内のビジネスホテルで私は高熱を出した。ベッドの脇に置いた水筒が夜中に転がり、床に落ち、カラン、と蓋が開いた。ひどい頭痛のなか、私はぼんやりとベッドサイドに目をやる。絨毯が濡れ、溶けた氷の粒が散らばり、そこに裸足の泥まみれの足が二つ、立っていた。
足の主はゆっくり屈み、水筒を拾い上げて胸に抱えた。顔が闇に隠れ、白い息だけが見えた。私は声も出せず目を閉じる。次に目を開けたとき、足跡も水筒も消えていた。ただ、枕元の湿った絨毯に「二十三」という泥字が浮き出ていた。
帰京しても悪寒は抜けず、どうしても水筒を捨てる気になれない。八甲田山で出会った“それ”が何を求めていたのか、今もわからない。ただ、深夜、押し入れから凍った鉄の匂いが滲むたび、私は耳を塞ぐ。ザッ、ザッ、と雪を踏む足音が、八月の都心のアスファルトを渡るのを聞かないふりをして。
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【実際にあったできごと】
1902年1月23日、青森歩兵第五連隊と弘前歩兵第三十一連隊の将兵210名が訓練として八甲田山で雪中行軍を実施し、暴風雪に遭難。199名が凍死する大惨事となりました(八甲田雪中行軍遭難事件)。以降、八甲田山では「軍服姿の白い兵隊を見た」「テントを凍った手で揺さぶられた」などの証言が登山者や自衛隊員から数多く寄せられています。1978年に青森県警山岳救助隊が夏季訓練中、朽ちた軍用水筒と当時の部隊章入り銃剣を発見し、遺族に引き渡した事例も報道されました(東奥日報1978年8月24日朝刊)。