墜ちた影を抱く山
八月十一日、群馬県上野村。
私は地元消防団の同期・及川とともに御巣鷹の尾根へ向かっていた。毎年、日航機事故の慰霊登山に同行し、山道の点検と献花台の設営を手伝っている。今年は事故から三十九年目。昼でも蝉がむせ返るほど鳴くのに、尾根へ近づくにつれ空気は急に冷えた。
林道ゲートを越えると、日没までにはまだ二時間あるはずなのに、木々の間を漂う霧がヘッドライトを鈍く散らす。車を降りた瞬間、空気の密度が変わった。風はないのに、梢だけがざわざわと撓み続けている。
「今日、やけに暗くないか?」
及川がヘルメットのライトを点ける。露で濡れた岩肌が白く浮き、苔の匂いに混じって焦げた金属のような臭気が鼻を掠めた。私は毎年ここへ来るが、こんな匂いは初めてだ。
第一慰霊碑を過ぎ、最後の急坂に差しかかったとき、風下から子どもの笑い声がした。尾根に子どもは来ない。思わず足を止めると、笑い声は次第に高く、甲高い悲鳴に変わった。いや、笑いではなく叫びなのか。耳を澄ますと、複数の声が折り重なり、国籍も年齢も違う人々が一斉に「おかあさん」と叫んでいるように聞こえる。
及川が顔をしかめ、無線で麓のベースに連絡しようとした瞬間、受信機からザーッとラジオの砂嵐が漏れ、同時に航空機のアナウンスが割り込んだ。
「……ご搭乗ありがとうございます。本機はまもなく……」
1985年当時のJALの機内チャイムだった。私は背筋に氷を流し込まれたような寒気を覚え、無意識に尾根へ背を向けた。ところが登って来たはずの坂道が、いつのまにか谷底へ落ち込む断崖になり、霧が渦を巻いている。
背後で及川が呻いた。振り返ると彼は片膝をつき、地面を掴んでいる。足首に人の手が絡みついていた。白いシャツの袖口だけが土からのび、爪に泥が詰まり、皮膚が剥け、骨が透けている。私は反射的に及川を引き上げようとしたが、自分のふくらはぎにも冷たい指が触れた。
「離せ!」
叫ぶと同時に霧が裂け、金属がきしむような轟音が山腹を震わせた。まるで何十トンもの鉄の塊が空を切り裂き、今にも墜落する瞬間を再現するかのようだった。頭上の木々が折れ、土が跳ね、粉塵が視界を奪う。私は及川を抱え、半ば転がるように斜面を駆け下りた。
どれほど逃げたのか分からない。気づけば沢筋のテントサイトまで戻り、発電機のかすかな唸りが耳に入った。見上げると山頂は雲に隠れ、あの悲鳴も轟音も聞こえない。及川の足首には泥がこびりつき、爪立った小さな指の痕がくっきり残っていた。
翌日、慰霊式のあとで私は事故関係者の遺族会スタッフに昨夜の出来事を話した。年配の女性が静かに頷き、こう漏らした。
「今年は…小さな遺品がいくつも見つかったんです。子ども用の靴の中敷きとか、ぬいぐるみのボタンとか。山がまだ誰かを返そうとしているのかもしれませんね」
そう言って差し出された袋の中に、泥に染まった小さな機内用イヤホンが入っていた。プラスチックの白は、私のふくらはぎを握った手の色と酷似していた。
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【実際にあったできごと】
1985年8月12日18時56分、日本航空123便(ボーイング747SR-100、乗員乗客524名)が群馬県上野村御巣鷹の尾根に墜落。520名が死亡し、単独機事故としては世界最多の犠牲者を出した。現在も毎年8月12日に遺族・関係者が慰霊登山を行い、遺留品や骨片が発見されることがある(朝日新聞2023年8月13日朝刊ほか)。地元消防団員やボランティアからは「夜間に機内アナウンスが聞こえた」「子どもの声が谷を渡る」「霧の中から人影が現れ、次の瞬間消えた」などの証言が複数寄せられているが、公式には確認されていない。