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怖い話  作者: 健二
★★
9/107

「雪の回廊で、199人が数え終わらない」


 青森空港を出た瞬間、風はもう真横から吹いていた。二〇二三年一月二三日、私はテレビ局の依頼で「八甲田雪中行軍遭難事件」百二十一年目の特集を制作していた。目的は、深夜の八甲田山系で環境音を収録し、遭難兵の足跡コースをドローンで撮ること。最後のロケ地は、事件で唯一の生還者・後藤房之助伍長が発見されたとされる仙人岱の近くに残る旧無線中継所跡だった。


 古い林道は雪壁で半ば埋まり、ジムニーを降りた私はスノーシューに履き替えた。気温は氷点下一五度、湿った雪がライトの光を吸っては緩く返す。防寒フードの奥で、かすかなハムノイズが鳴っている。ポータブルレコーダーを確認すると、未接続の外部入力端子が何かを拾っているらしい。私はボリュームを絞り、三脚を肩に歩き出した。


 中継所跡はコンクリートの箱が一つ残るだけで、屋根は落ち、壁面に“1969 陸自通信隊”のスプレーが褪せていた。ドアの代わりにブルーシートがはためく。中へ入ると、廃バッテリーと錆びた送信機が転がっている。気流が変わったのか、録音機から再び雑音――いや、モールス信号のような短点長点が漏れ始めた。


  ・・・-  ・・・-  ・・・-


「三、九、三……?」

 点と線を訳すと数字の繰り返しになる。私は慌ててイヤホンを耳に差し込んだ。信号は突然切れ、代わりに粗い男性の声が紛れ込む。


 「凍傷、五名……視界零ッ……前進不能……」


 八甲田の生還者が記録に残した言葉に酷似していた。だが当時の通信手段はモールスと筆記だけで、肉声が録音されるはずもない。かつて行軍隊が遭難した一月二三日、その日付が頭をよぎる。


 風が壁の亀裂から吹き込むたび、雪片が舞い、床に散った霜柱が一斉に倒れる。そのとき、入口のブルーシートが重石ごと持ち上がり、外の闇にちらと白い影が走った。人影ではなく、軍帽の庇だけが月を反射したように見えた。


 私は衝動的にレコーダーをホールドし、雪面へ飛び出した。ヘッドランプを振ると、吹雪の幕の向こうに列をなす灰色の凹凸が浮かぶ。雪に埋もれた兵の隊列――そう錯覚するには十分な高さと並び方だった。が、近づけばただの倒木と雪庇に過ぎない。安堵しかけた瞬間、背後で「踏め、踏め、止まるな」と複数の足音が雪を砕いた。


 振り返ると、白い息の帯が幾筋も宙に浮き、まるで見えない兵隊が隊列行進している。耳元では再びモールスが鳴り、今度は清澄な女声が重なった。


 「あと二人足りない……百九十七、百九十八……」


 遭難した隊は二百一人。助かったのはわずか一人。その計算が脳裏に点滅した。だが女声は二百に届かず、百九十八で途切れた。雪面の足音も同時にやむ。残り三つの空白――凍りついた山中で、数に入れられない“何か”がいるのだろうか。


 ライトが一瞬陰り、私は頭上を仰いだ。吹雪の切れ間に月がちらつく。雲の裏側、月の輪郭に沿って黒い影が三つ、ぶら下がるように浮かんでいた。まるで逆さの人間がロープで吊られている。凍りついた私の足元で、またあの女声がささやく。


 「百九十九……」


 雪庇が崩れ、冷気の渦が顔を叩いた。私は無我夢中で中継所へ引き返した。入口のブルーシートを潜ると、もはや自分の息がスピーカーを通したように歪んで聞こえる。レコーダーのレベルメーターは振り切れ、液晶が凍結したかのように真っ黒だ。


 送信機のダイヤルが独りでに回り、赤錆の針が「138kHz」で止まった。短波でもFMでもない帯域。スピーカーから、さきほどの男声がふたたび吐息を漏らす。


 「……一九九……人…………止……メ……」


 最後の語尾がノイズに溶けた瞬間、壁面一杯に霜が走った。銀色の静電気を帯びた線が網目状に広がり、雪より白い靄を吐く。「白い息で壁に地図を描き、方向を見失った」という生還者の証言が脳裏を過る。私はスノーシューを蹴り、出口へ走った。


 が、ブルーシートの向こうはもはや林道ではなかった。月光のない雪原に、軍服姿の人影が無数に折り重なっている。あの写真――一九〇二年一月二八日に撮られた、氷像と化した兵の遺体群――そのままの姿だ。凍結し膝を抱えた兵の顔面に、瞬きするような白い霧がかかり、氷面の瞳が私を映した。


 その映像が網膜を焼く前に、私は体を反転させた。送信機の電源ケーブルをつかみ、バッテリーごと外へ放り投げる。赤い火花が雪面で散り、闇に一瞬だけ弧を描く。モールスも声も途絶えた。雪原の兵影は、火花の残光とともに輪郭を崩し、粉雪へ溶けていく。気づけば、林道の街灯がほんのり点り、遠くに除雪車のライトが揺れていた。


 録音機を確認すると、フリーズしていた液晶がゆっくり蘇る。再生ボタンを押すと、吹雪の環境音が続くだけで、モールスも声も残っていない。ただ一か所だけ波形が大きく跳ね、そこにノイズめいた低音が潜んでいた。スペクトログラムを拡大すると、音の縁に氷晶のような数字が並んでいる。


  199


 シークエンス表示のどこを延ばしても、その数字しか浮かばない。二百一人のうち、一九九人が列に戻れず、上も下もわからぬ雪霧の底で、今も数えられる瞬間を待っている――そんな妄想が背骨を冷やす。


 私はレコーダーをそっと停止し、雪壁に向かって深く一礼した。百九十八ではなく、百九十九を告げた誰かの声が、林道の終点へ吸い込まれていく。残る一人は、まだどこかで、最後の番号を待っているのかもしれない。


 ヘッドランプの光が車のリアガラスを捉えた。エンジンをかけると、カーナビの画面に衛星写真が映り、現在地に小さな赤丸が点る。交差する等高線の隙間に、見た覚えのない暗い影が重なり、やがて数字が滲む。


  200


 凍りついた指でエンジンを切り、もう一度礼をした。それでもナビの画面から数字は消えず、フロントガラスの外、雪原の彼方がわずかに白く明滅していた。空耳か、冷却ファンの唸りの奥で、微かな声が揺れる。


 「あと、一つ」


                         (了)


【引用元・実在する出来事】

・「八甲田雪中行軍遭難事件」(1902年1月、青森県 死者199名)

・生還者・後藤房之助伍長の証言記録(陸軍省『遭難実歴報告』)

・1984年に八甲田山系で旧日本陸軍の遺留品と人骨が発見された報道(共同通信ほか)

・陸上自衛隊通信隊が1969年まで使用していた八甲田山中継所跡(防衛白書別冊資料)


※本作はフィクションですが、上記の史実・地点をモチーフとして構成しています。

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