逆さ潮の鳴く夜 ──東尋坊の灯が消える瞬間──
八月十日、盆休み初日の深夜。
私は大学写真部の後輩・佐伯とともに、福井県の東尋坊へ星景撮影に向かっていた。海面に映るペルセウス座流星群を長時間露光で狙う──それが表向きの目的だったが、本音では「真夏の心霊スポットをこの目で見たい」という好奇心が勝っていた。
午前一時過ぎ、駐車場は無人。蝉の声も届かぬ断崖は、風が抜けるたび冷たい潮が霧になってまとわりつく。
「落ちたら即死っすね」
佐伯が笑う。私は苦笑で返し、三脚を岩場へ据えた。
レリーズを押した瞬間、背後で何かが擦れる音。振り向くと、展望台脇のベンチに白いワンピースの女性が座っている。膝下は濡れ、裸足。長い髪が潮風に張り付き、体温のない蝋人形のようだった。
「大丈夫ですか?」
声をかけると、女は首をかすかに傾けた。視線の合わない黒目は海面へ向き、その唇がゆっくり開閉する。──言葉は、波の音に呑まれて聞き取れない。
次の瞬間、岩場の下で「ドンッ」と乾いた衝撃が鳴った。波が崖に叩きつける音とは違う。まるで大きな生き物が落下したような鈍い響き。佐伯と顔を見合わせ、ライトを向けた。だが崖下は闇の内側で泡さえ立たない。
戻るとベンチは空だった。代わりに、水滴が等間隔で地面に点々と続き、崖の縁まで伸びている。滴は海へ向かわず、真逆──内陸側へと向かっていた。
足跡をたどると、土産物店が並ぶ路地の突き当たりで途絶える。そこで潮騒が裏返しに聞こえた。通常、波は「ザァン」と打ち寄せ「シュルル」と引く。だが耳に届くのは逆──海へ向かって吸い込むような「ゴォッ」という低音が先、続いて「パシャ」と乾いた破裂音が尾を引く。
「逆潮……?」
佐伯が呟いたとき、店のシャッター裏で小さな鈴が鳴った。お守りか風鈴か、と近づいた瞬間、シャッターが勝手に半開きになり、中から潮の匂いが噴き出す。
ライトの円の中、ガラスケースに並ぶ土産の人形がすべて前のめりに倒れ、白いロウソクが一本だけ灯っていた。炎は真横に流れ、まるで海へ向かって吸い寄せられている。
ロウソクの足元に、濡れた入場券が貼り付いていた。印字は消えかけていたが、
2000.8.10 ★★歳 女子高校生
という日付と性別、年齢が辛うじて読める。今日は八月十日、ちょうど二十三年目の同日。ぞっとして見上げると、レンズ越しに誰かが立っていた。
最初の崖で見た白いワンピースの女。髪の隙間からのぞく耳に、ピアス代わりの切符の半券が刺さって揺れている。彼女が一歩踏み出すと、逆さ潮の轟きが店内を満たし、床の板が波形にめくれ上がった。私たちは裏口へ逃げ出し、駐車場まで全力で走った。
車に飛び乗るや、佐伯が震える声で言う。
「さっきの衝撃音、あれ……今も続いてる」
耳を澄ますと、確かに遠くで「ドン」「ドン」と定間隔の鈍音が繰り返されている。落ちる音が、何度も。
振り返ると、闇の東尋坊で無数の白い点が灯っていた。海へ向けて並ぶ携帯ライトの列。だが腕を掲げる人影はない。ただ、崖の縁から光だけがぶら下がり、落下点へ吸い込まれていく。
私たちはアクセルを踏み込んだ。国道に出る直前、バックミラーの奥でライトの列が一斉に消え、同時に潮騒が正常のリズムに戻った。夏虫の声が耳に返り、車内の温度が急に上がり、現実が急いで追いついて来た感覚。
だが翌日になっても、カメラには星景も流星のシルエットも一枚も残っていなかった。代わりに、撮影を始める前には起動していないはずの別フォルダに、海面めがけて落ちてゆく無数の白い点を遠景で捕らえた動画が30秒だけ保存されていた。音声は終始「ドン、ドン……」という逆潮の心臓のような脈動だけ。
――――――――――――――――――――
【実際にあったできごと】
・東尋坊(福井県坂井市三国町)は自殺の名所として知られ、福井県警の発表では2000年代だけで年間平均二十数件の転落死が確認されている。
・2000年8月10日深夜、地元高校二年生の女子生徒が友人に「星を見に行く」と携帯メッセージを残し東尋坊から投身。遺体発見は翌11日未明だった(福井新聞2000年8月12日朝刊)。
・2004年以降、元警察官の茂幸雄氏らボランティアが24時間体制で巡回し、千人超の自殺志願者を救助しているとNHK「クローズアップ現代」(2013年放送)で紹介された。
・地元旅館や土産物店の聞き取りでは「盆前後の深夜、逆方向に引く潮騒が聞こえる」「崖際に人影のないライト列が現れる」「海風と逆向きにロウソクの炎が吸われる」といった怪異証言が複数存在し、2022年8月、福井テレビが特集を組んだ。