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怖い話  作者: 健二
★☆★
85/96

湖底で鈴が鳴る──裏磐梯・桧原湖の真夏夜行


 八月十二日、盆支度の只中。

 私はアウトドア誌の取材で、カメラマンの武田と福島県・裏磐梯へ来ていた。昼はSUPスタンドアップパドルの撮影を終え、宿に機材を置くと武田が言い出した。

 「夜の桧原湖で星空タイムラプスを撮りたい。風も無いし、水面が鏡になるはずだ」

 月齢三。星景には理想的だが、湖は山奥特有の底冷えがある。私は合羽を着込み、午前零時すぎに桟橋へ向かった。


 桧原湖は磐梯山の北麓に横たわる。昼は避暑客のボートが行き来するが、夜は息をひそめた黒い鉢のようだ。桟橋の板はまだ昼の熱を残し、湿気が混じった温もりが靴底に吸い付く。

 湖上に一艘だけ係留されたフローティングデッキに乗り移り、武田が三脚を固定。シャッターを切ると、電子音のあとに微かな“チリ…”がヘッドフォンから返ってきた。

 「風でロープが軋む音だろ」

 私は湖面へライトを向けた。が、桟橋のロープは張り詰め、揺れていない。音は水面下から上がってくる。鈴を振るような澄んだ高音。


 それが急に“ザッ”という水飛沫に変わった。振り向くと、デッキの縁に武田のザックが落ち、レンズが湖へ滑り込むところだった。慌てて腕を伸ばすと、指先が冷水に触れた瞬間、“誰か”とぶつかった感触。硬い肩、濡れた布越しの皮膚の冷たさ。

 心臓が跳ねた。ライトを向けたが誰もいない。ただ、水面を破る輪がデッキの下へ潜り込むように広がった。


 武田が顔を青ざめさせる。

 「今……女の人がのぞいた」

 彼のカメラには連写の最後に一枚だけ、人影が写っていた。白い浴衣のような上半身が斜めに傾き、首から下は水へ溶けかけている。


 その時、湖全体が低く鳴った。深い金属音にも、遠雷にも聞こえる。しかし空は雲一つなく、星が瞬くだけ。デッキの下で“ギリギリ”と木が歯ぎしりし、私たちの乗る板がわずかに沈んだ。

 ライトを湖底へ向けると、透明度の低い水の奥に瓦屋根のような直線が並んで見えた。家屋の輪郭。西洋瓦ではない、東北の曲がり屋の低い棟。しかも複数。


 ――ここは、かつて村だった。

 脳裏にそんな言葉が浮かぶ。次の瞬間、吐く息が真白になり、真夏の夜が一気に冬の気温へ落ちた。武田が息を呑む音の向こうで、再び鈴の音が鳴る。しかし今度は水面ではなく、足元。デッキの板と板の隙間から、小さな鈴がひとつ押し上げられてきた。土に埋まっていたはずのそれを、誰かが下から差し出すように。


 私は反射的に掴み上げた。錆び、泥で黒ずんだ和鈴。触れた途端、耳元で大量の水泡が破裂する音がし、デッキが大きく傾いた。

 「戻れ!」

 武田が叫び、私たちは桟橋へ飛び移った。その瞬間、係留ロープが千切れ、デッキは暗闇へ滑り出す。湖面が炸裂し、水柱が上がり、その中心で白い浴衣の影が数えきれない腕を伸ばして揺れていた。


 桟橋を駆け下りる途中、背後で“ドン”と鈍い衝撃。振り向くと、吹き上がった水柱が収まり、デッキも影も消えていた。ただ、湖上に逆さ富士のような磐梯山の影が揺れ、星だけが静かに瞬いている。

 翌朝、宿に戻ると武田のカメラはデータごとフリーズしていた。私はポケットの中の鈴に気づき、強い金属臭に吐き気を覚えつつも手放せなかった。鈴の裏には薄く判別しづらい刻印──「明治廿一年 七月 十五日 守屋家」と読める。磐梯山が崩れ、桧原湖が誕生した年、その翌日の日付だった。


――――――――――――――――――――

【実際にあったできごと】


1888年7月15日午前7時45分、磐梯山北側小磐梯が大規模山体崩壊を起こし、土石流と岩屑なだれで集落を埋没。188名以上が死亡、数百人が行方不明となった。崩落土砂が長瀬川をせき止めて形成されたのが現在の桧原湖であり、湖底には旧桧原村をはじめ複数の集落が現存する。

地元住民や観光ガイドの証言によると、夏の夜間に湖上で鈴の音や集落の鉦や太鼓の音が聞こえる、湖面に家屋の屋根が浮かび上がる、といった怪異がしばしば報告される(福島民報 2008年8月16日朝刊特集〈裏磐梯120年〉)。近年も潜水調査で屋根瓦や神棚が確認され、湖底遺構保護のため一般ダイビングは禁止されている。

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