焦土を渡る拍子木──雲仙・夏の火の記憶
八月の終わり、雲仙温泉は昼なお硫黄の匂いが濃い。
私は地方紙の記者・久我の取材に同伴し、平成新山を望む「被災遺構ゾーン」へ向かった。目的は、九月から始まる防災キャンペーン用の夜景写真。だが久我は別の動機を隠していた。
「六月三日の夜、ここの谷で“拍子木の音”がしたって通報が続いたんだ」
拍子木──火の用心を知らせるあの木の打音。雲仙岳では三十二年前の火砕流(1991年6月3日)が語り継がれ、地元では命日が近づくと谷で“カチ、カチ”と鳴ると囁かれている。
午後十一時四十五分、気温は二一度。観光ルートの外灯は二十時で落ち、闇を裂くのは私たちのLEDライトだけだった。
谷へ下る遊歩道は、かさぶたのように固まった火砕流堆積物で赤茶けている。久我が三脚を据え、私は録音機を構えた。
風はないのに草が揺れ、山の斜面が遠火のように赤黒く瞬く。夜行性の昆虫の目かと思ったが、規則正しく列を成している。私はファインダーを覗き、シャッターを切った。
──カチ…カチ……
耳の奥、鼓膜の外側で板を打つ乾いた音。久我と目を合わせる。録音機のレベルメーターは緑のまま、しかし確かに鼓動を二倍速にする何かが聞こえた。
谷底から霧が這い上がる。その中で、赤い光列は次第に輪郭を持ち、ヘルメットのバイザーが鈍く反射するのが見えた。防火服姿の一団──三十二年前、取材中に亡くなった報道クルーや消防団員の装備そっくりだ。
久我が息を呑む。
「父さんも、あの日ここにいた」
彼の父は島原市消防団で、この谷を警戒中に犠牲になった四十三名の一人だった。久我はファインダー越しに腕を伸ばし、しかし触れられない霧を掴むように宙を揺らした。
列の先頭が拍子木を打つ。カチ、カチ。隊列は私たちを素通りし、火砕流の到達域へ進む。私はシャッターを押し続けた。レンズ越しの炎色光が、次の瞬間、白熱電球のように弾けた。
轟音。風がなかったはずの谷が爆発的な熱風で満たされ、三脚が折れた。久我のカメラが転げ、オレンジの閃光が闇を刻む。私は地面に伏せ、耳を塞いだ。熱い──いや、熱を思い出すほどの冷感。汗が一気に氷になり、吐く息が白く光る。
ふと気づくと、久我が立っていない。探すと、崩れた堆積物の縁に膝をつき、両手で何かを抱えていた。私が駆け寄ると、土の中から溶けた鉄片が半分露出している。カメラの三脚のようで、しかし形が古い。そこに「島原市消防団 第六分団」と浮き彫りがあった。
久我は鉄片を抱えたまま泣いていた。耳元ではまだ、遠い拍子木が「もういいか」「まだだよ」と子どものかくれんぼのように響いている。
私が肩を叩くと、拍子木はふっと途絶え、谷の霧と光列も跡形もなく消えていた。夜空には無月の闇だけが戻り、冷えた山風が枯草を揺らす。
翌朝、消防の協力で発掘場所を掘り返すと、鉄片は旧式の三脚の一部と判明した。1991年に行方不明のままだった報道カメラの残骸だという。日付が刻まれたプレートには「6・3・91」。錆びた拍子木の柄も一緒に見つかった。
久我は記事にこう結んだ。
〈雲仙の山は、夏になると熱と冷の境界を開く。そこでは時間が折り返し、行くはずだった取材の続きを求めて誰かが拍子木を鳴らすのかもしれない〉
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【実際にあったできごと】
1991年6月3日、長崎県雲仙岳(平成新山)で発生した火砕流により、報道関係者や消防団員ら43名が死亡・行方不明となった。現場は「定点観測地」と呼ばれ、現在も遺構保存のため立入制限区域がある。
地元住民やボランティアガイドの証言では、毎年6月末から8月にかけ、夜の谷で「カチ、カチ」という拍子木の音が聞こえる、ヘルメットのライトが列になって動く──といった報告が絶えない。長崎新聞(2016年8月5日夕刊)は「夏の夜、被災地で複数の通報 『拍子木のような音』」と題し、県警雲仙署への出動要請が10件以上あったことを伝えている。現在も慰霊登山や献花の際、夜間の単独行動は控えるよう行政が注意喚起している。