誰もいない湖畔の声
それは、まだ夏の終わりの風が涼しさを運んでくる八月の夜のこと。大学のサークル仲間数人で、山奥の湖へキャンプに出かけることになった。最寄りのバス停からさらに数十分歩いた先にある静かな湖で、周囲には山と木々のざわめきしか聞こえない。本来ならそこで合宿をする予定だったのだが、直前に人数が減り、私ともう一人だけがどうしても来てみたいと主張して決行したのだ。
湖のほとりには小さなボート乗り場らしき桟橋があり、その近くにキャンプを張れるスペースがあった。そこにテントを設営し、夕方から焚き火を囲んでのんびりしているうちに、あたりはとっぷりと暗くなった。月の光が湖面を照らしては、木々の影をゆらゆらと歪める。虫の声と風のさざめきに混じって、時折水音が微かに響いていた。
焚き火が小さくなってきた頃、私と友人はふと桟橋に立ち寄った。湖の中央は闇に沈み、波もほとんどないため静かそのもの。ところが桟橋に足を踏み出した瞬間、何かが足元でもぞりと動いたような気がした。急いで懐中電灯を照らしてみたが、そこには木の板しかない。友人と顔を見合わせて首をかしげた。
桟橋の先端まで進むと、不意に遠くから誰かが呼ぶ声がしたように思えた。最初は風の音かと思ったが、次第にハッキリとそれは女の声に聞こえ始める。湖の対岸からなのか、それとも湖のほぼ真ん中あたりなのか、距離感がわからない。耳をすませば確かに、「…おいで…」とでも言っているようなかすれ声が聴こえるのだ。
「聞こえるよな?」
友人もうろたえた声で、同意を求めてきた。私も背筋が寒くなり、桟橋から引き返そうとする。しかし、なぜか足が全然動かない。呼ぶ声はだんだん近づいてきているようで、 高笑いにも似たひどく不気味な響きを帯びていた。
これはまずい――直感がそう告げる。全身が震え、何とかしてその場から逃げ出そうと必死にもがいた。すると、友人が突然私の腕を乱暴に引っ張り、やっと桟橋を降りることができた。二人とも息も絶え絶えのままテントの近くまで戻ったが、それでもなお湖の方から「…おいで…」というささやき声がかすかに響いてくる気がした。
いても立ってもいられず、その夜は怖さのあまりテントに入ることすらできず、たき火を絶やさないように必死で薪を探しては火にくべ続けていた。そして朝焼けとともに辺りが明るくなるのを待ち、私たちは荷物を片づけるや否や、そそくさと湖をあとにした。
翌日、帰りの足で立ち寄った町の小さな食堂で、たまたま地元に詳しい店の主人と話す機会があった。話のついでに湖での出来事を打ち明けると、主人は意味ありげに口を噤んだかと思うと、ぽつりぽつりと話し始めた。
「あそこな、前に人が溺れて亡くなった話を何度か聞いたことがある。たしかに“声が聞こえる”言うて、あの湖を気味悪がる人もおるんや。たまに行方不明になる人もいるって話やけど、本当かどうかはわからんな」
私たちは何も言い返せなかった。ただ、その言葉を聞いて頭をよぎったのは、あの闇の中からはっきりと聞こえた呼ぶ声――それが本当に人間のものではなかったのだとしたら。
<実際にあったできごと>
2000年代に入ってから、東海地方の山奥にあるいくつかの湖で、夜にキャンプをした人が「湖の中央から女性の声が聞こえる」と証言した事例が複数伝えられた。さらに、深夜に桟橋付近で謎の人影を見たという話もあり、現地では夏場を中心に怪奇現象が起きやすいと言われている。実際、その周辺では足を滑らせて湖に転落し連絡が取れなくなった例も報告されているため、地元の管理者が注意を促している。真相はわからないが、地元住民の間では「呼び声に誘われてはいけない」と口伝えで警告されているらしい。