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怖い話  作者: 健二
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「もうこないでね」

 深夜の小田急線・成城学園前駅から歩くこと二十分。住宅街のはずれで街灯が途切れた瞬間、ぼくはそこに「空き家」と呼ぶには生々しすぎる一軒家を見つけた。瓦屋根の端がひしゃげ、郵便受けには色あせたチラシが折れ重なっている。けれど、玄関先の靴擦れの跡だけが新しく、誰かがついさっきまで出入りしていた気配を残していた。


 知っている人は知っている――この家は二〇〇〇年十二月三十日、宮沢一家四人が何者かに惨殺されたまま犯人が捕まらず、「世田谷一家殺害事件」として未解決のまま残された現場だ。警察の再現作業に使われた後、土地の買い手もなく、遺族の意向でそのまま保存されている。真冬の深夜、ぼくは雑誌記事を書くために許可をとって独りで内部を取材していた。


 かつてのリビングは、年季の入ったブルーシートで窓がふさがれ、ぬるく淀んだ空気が漂っている。事件直後の写真で見た朝食用トースターが、うっすら埃をかぶったままキッチンカウンターに置かれていた。その真横で、取材ノートを開いた瞬間――


 「カチッ」


 壁際の電灯スイッチが、ひとりでに跳ね上がった。ぼくの足は勝手に後ずさり、三歩目で宙を蹴った。だが灯りは点かない。停電なのかと思った矢先、玄関の引き戸が――軋まず、静かに――閉まった音だけが家じゅうに響いた。


 振り向いても、薄闇の廊下に人の姿はなかった。だが、足音がする。二階から、ゆっくり階段を降りてくる柔らかなステップ。スリッパの底が畳をこすり、木の段差に乗るたびに乾いた音を落とす。ぼくは声を出せないまま、カメラのフラッシュをたよりに階段を照らした。


 誰もいない――はずだった。だが、シャッターが切れた瞬間の残像のなかに、ふわりと揺れる女の髪だけが映った気がした。消えたフラッシュのあと、視界には闇しか残っていない。


 ここで引き返せばよかったのだ。ところが、ぼくは事件当夜の奇妙な事実を思い出してしまった。犯人は一家を襲ったあと、冷蔵庫のアイスを食べ、パソコンを立ち上げ、洗面所で洗濯までしていたという。警察が採取した十数点の指紋や血痕は、いまだに照合先がない。――犯人は、ひょっとすると人ではなかったのではないか。そんな世迷い言を確かめるみたいに、ぼくは階段を上がった。


 二階の子ども部屋。ドアの蝶番が半分外れ、微かな隙間から白いものが覗いている。恐る恐る押し開けると、ぽたり、と何かが落ちた。薄い児童向けの読書感想文ノート。その表紙に、鉛筆で書かれた「にいにへ はるかより」の文字が、一度こすられたように擦れている。事件で亡くなった姉妹の、下の子が書き残したと伝えられていたノートだ。


 ページを開くと、ところどころに消しゴムで消した跡がまだ新しく、最後の行だけがくっきり残されていた。


 「おとうさんが かいだんで ころんだこえが どんどんちかづいてきます」


 読み終えた瞬間、廊下の闇が揺れた。さきほどと別の足音が、今度は一段飛ばしで階段を駆け上がってくる。荒々しい、獣じみた呼吸音。怒りと焦りが混じったそれは、或る夜ここで起きた惨劇を、二十二年の時を越えて再演しようとしているように感じた。


 逃げ場を探して窓を開けようとしたが、サッシは黴と錆で固く閉じている。背後でドアノブが暴れ、蝶番が悲鳴を上げた。わずかな隙間から覗く暗闇の向こう、ついに「それ」が現れる――と、ぼくは思わずノートを掲げた。


 すると、風もないのにページがぱらぱらとめくれ、真ん中あたりで止まった。そこには、鉛筆より細い線で描かれた家族四人の笑顔があり、最後に赤いクレヨンで小さく書き足されていた。


 「ここには もう こないでね」


 その瞬間、ドアノブを揺らす音がぴたりと止んだ。廊下の足音も消え、家じゅうの息づかいが一斉に引っ込んだかのように静寂が降りた。耳鳴りの隙間で、遠くに救急車のサイレンが聞こえた。二〇〇一年の未明に鳴り響いたという、あの通報時のサイレンなのか――あるいは今、現実のどこかを走っているだけなのか、判別がつかない。


 やがて、ドアは開かなかった。ぼくはノートを胸に抱えたまま、階段をそろりと降り、玄関の戸を引いた。外気が一気に肺に流れ込み、凍えるような冬の匂いが襲ってきた。背後で、誰かが見送るように襖がすーっと閉まる音がしたが、振り返る勇気はなかった。


 取材から戻った今でも、録音機やカメラのデータには異常しか残っていない。フラッシュの一枚目、階段の写真。そこには確かに、肩まで伸びた黒髪と血走った眼のような影が写り込み、その背後には、あの女の子が描いた笑顔の家族と同じ位置に、ぼく自身が立っていた。


 未解決事件は「人間の犯行」であるはずなのに、ぼくはあの家で、人と呼んではいけないものに出会ったのかもしれない。ノートの最後の言葉は、今やぼく自身への警告だ。


 「ここには もう こないでね」


 それでも、気づけばぼくは地図を開き、次に取材すべき心霊廃墟の住所を探している。あの夜、玄関の戸が閉まった瞬間に感じた視線――あれが、ぼくの背中を永久に追ってくるのだとしたら。怖いのは、闇の中の誰かではなく、恐怖に取り憑かれて戻れなくなった自分自身なのかもしれない。

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