沈黙の坪野鉱泉
夏の夜風がなおさら肌にまとわりつく八月。私は大学時代の友人、大輔と真由、そして地元に詳しい先輩の加奈さんと一緒に、富山県の山奥にある「坪野鉱泉」の廃墟を訪れることになった。かつて温泉宿や結核療養所だったなど諸説あるが、現在は打ち捨てられ、地元では心霊スポットとして知られている場所だ。
車を降りると、真夏のはずなのに森の冷たい気配がただよう。耳を澄ますと、遠くで虫の声がするほかは、不気味な静けさが広がっていた。建物の外壁は大きく剥がれ落ち、窓ガラスは割れていて、そこからのぞく漆黒の空間が私たちを威圧しているようにも見えた。
「本当に入るの…?」
真由が怯えながら、小声で確かめるように言う。大輔はわざと大げさに「大丈夫」と笑ってみせるが、目は笑っていなかった。
懐中電灯が照らす廊下は、カビ臭い湿った空気で満ちていた。床の板は軋み、いつ崩れてもおかしくない。何かが擦れるような微かな物音に、一同の足が止まる。誰もいないはずなのに、背後から誰かの視線をひしひしと感じる。加奈さんは緊張を押し隠すかのように、先頭を進んでいた。
階段を上がり、二階へと足を踏み入れた瞬間、突然真由が「今、人がいた!」と震えた声で叫ぶ。指差す先を見るが、闇が濃いだけで何も見えない。大輔と加奈さんが「あれ?」と顔を見合わせたすぐ後、廊下の奥のほうから、「ガタン…」と金属が倒れるような大きな音が響いた。
まるで促されるように私たちはそちらに向かう。廃墟特有のすえた臭いとともに、かつて浴室だったであろう広い部屋に出ると、薄暗い壁のあちこちが荒れ果て、天井からは水滴がポタリポタリと落ちている。やけに静かだ。さっきのガタンという音は聞こえなくなった。だが、こちらを監視している何者かの気配は消えない。風もないのに、天井からひやりとした息づかいが降りてくるような錯覚を覚えた。
「戻ろう…」
大輔が短くそう言った。みんなも無言でうなずく。長居は禁物だと、肌で感じたのだ。足早に建物を出る頃には、いつの間にか私たちは全身汗でびっしょりになっていた。しかし、外の闇の中もどこか様子がおかしい。懐中電灯の円の中、林の奥で人影が動いた気がした。だが、誰も声をあげない。確かめる勇気すら消えうせていた。
車に逃げ込んだ私たちは、言い知れぬ恐怖に駆られながら、誰も言葉を発しないまま山道を下っていった。バックミラーに薄暗い建物が遠ざかっていく。あの場所にはいったい何が潜んでいたのか。沈黙の中で、まるで何かを置き去りにしてきたような後味の悪い感情だけが、いつまでも胸の奥に染みついていた。
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■実際にあったできごと
富山県にある坪野鉱泉は、元温泉宿だったとの説や、結核の療養所だったとも言われ、長期にわたり廃墟となっています。この地には数多くの心霊現象の噂があり、深夜に徘徊する白い影や謎の足音、不可解な声の目撃談が後を絶ちません。特に1996年に富山県内の女子高校生二人が車と共に行方不明になる事件が発生し、その際「坪野鉱泉へ向かった」まま消息を絶ったとされることから、より一層“呪われた場所”として恐れられてきました。
その後、行方不明となった車は約24年後に貯水池から発見され、二人の遺体が車内に残されていたことが判明しています。事件の真相については不可解な点が多く、現在も謎が残されています。こうした現実の惨事が、坪野鉱泉周辺に漂う不穏な空気をさらに濃いものにしているのかもしれません。