櫛の館の怪:夏の残影
今年の夏は、例年にも増して蒸し暑かった。アスファルトの照り返しは陽炎のように揺らめき、湿気を孕んだ空気は肌にまとわりつく。そんな鬱陶しい季節になると、いつもあの日のことが脳裏をよぎり、背筋が凍るような悪寒に襲われる。あれは、忘れもしない、五年前の夏のことだ。
俺、健太は、大学の友人である亮、美咲、由紀の四人で、肝試しを計画していた。場所は、地元の人間なら誰もが知っている曰く付きの廃屋。通称「櫛の館」。
「櫛の館」は、街から少し離れた山間の奥にひっそりと佇む、明治時代に建てられたとされる古い日本家屋だった。昔、この家には代々櫛職人の一家が住んでいたという。しかし、ある夏の終わり、当主の妻と娘が相次いで行方不明となり、残された当主は発狂して家中に火を放とうとしたらしい。幸い、近隣住民の通報で大事には至らなかったものの、以来、その家は打ち捨てられ、廃墟となった。特に有名なのは、その家には「髪の毛が伸びる日本人形」が置かれているという、まことしやかな噂だった。
「本当に髪が伸びる人形なんてあるのかねぇ」
「亮、そういうのは信じるに限るんだよ。夏は特にそういうの、多いって言うじゃない」
美咲の言葉に、由紀も頷く。俺は半信半疑だったが、二人の女子がそこまで言うのなら、と乗り気になった。夏の夜の暇つぶしとしては、上出来な計画に思えた。
真夏の夜、提灯の明かりも届かない山道を進む。草木が生い茂り、廃屋の姿は闇に溶け込んでいた。近くに寄ると、腐敗した木の匂いと、土の匂いが混じり合った、古くて重苦しい空気が漂ってくる。すでに、ひんやりとした空気が肌を撫でるように感じられ、背筋に不快なものが走った。
「うわ、マジで不気味だね、ここ…」
亮が震え声で言う。普段は強気な亮が、少し怯えているのが見て取れた。
玄関は朽ち果てていて、戸はかろうじて形を保っている状態だった。懐中電灯の光を頼りに、中へ足を踏み入れる。
内部は想像以上に荒れ果てていた。床は抜け落ち、壁は崩れ、天井からは無数の蔓が垂れ下がっている。埃とカビの匂いが鼻をつく。一歩踏み出すたびに、木が軋む音が響き、それが妙に生々しく、自分たち以外の誰かがそこにいるような錯覚に陥った。
「ねぇ、なんか、変な匂いしない?」
由紀が鼻をひくつかせた。たしかに、ただの埃やカビとは違う、甘く、それでいて重い、線香のような古い香水のようないやな匂いが、どこからか漂ってきている。
俺たちは、奥へ奥へと進んでいった。広い居間を抜け、いくつかの小部屋を通り過ぎる。どの部屋も、過去の生活の名残がわずかに残っているだけで、そこに人がいたという気配は微塵も感じられない。だが、その気配のなさが、かえって不気味さを際立たせていた。
そして、一番奥の部屋。そこは、他の部屋とは少し雰囲気が違っていた。埃は積もっているものの、妙に整頓されているように見える。
その部屋の、古い和箪笥の上に、それはあった。
「あれだ…」
美咲が息を呑んで指さす。そこには、一体の日本人形が鎮座していた。埃をかぶり、着物は褪せているが、妙に生々しい。そして、その人形から、あの甘くて重い匂いが強烈に漂ってきていた。
「マジか…髪、伸びてる…」
亮の言葉に、俺たちも息を呑んだ。人形の黒々とした髪は、肩を過ぎ、膝を越え、さらに床にまで届くほどに長く伸びていた。不自然なほど黒く、艶やかに見えた。
その瞬間だった。「コツ、コツ…」と、どこからか木製の櫛が何かを梳くような音が聞こえてきた。誰もが耳を澄ませる。音は、人形のある部屋の中から聞こえているようだった。
亮が冗談めかして人形に近づくと、その人形の目が、ギョロリと動いたように見えた。いや、気のせいだと頭では分かっているのに、確かに俺たちの方を向いたように感じられたのだ。
「ひっ…!」
美咲が小さく悲鳴をあげる。
俺は、震える手で懐中電灯の光を人形の台座に当てた。すると、そこに古びた木製の櫛が置かれているのが見えた。その櫛の歯には、黒い髪の毛がびっしりと絡みついていた。
その瞬間、ゾクリとした冷たいものが、俺の首筋を撫でた。まるで、冷たい指が髪を梳くかのように。
思わず振り向いたが、そこには誰もいない。いるはずがない。
しかし、あの甘くて重い匂いは、すぐ背後から漂ってきているようだった。
「まずい!逃げよう!」
亮が叫んだ。その声は、恐怖に引きつっていた。美咲も由紀も、顔色を失ってガタガタと震えている。
俺たちは、我先にと部屋を飛び出した。闇の中を無我夢中で走り、玄関を飛び出す。外の空気を吸い込むと、肺が震えるほどだった。振り返ると、櫛の館は闇の中に再びその姿を隠していた。
それから数日経ったある夜のこと。
俺はベッドで眠っていたのだが、妙に頭がかゆくて目が覚めた。掻きむしると、指に絡みつくほど大量の髪の毛が抜けていた。それからというもの、毎日のように俺の髪は異常なほど抜け始めた。
そして、夜になると、自分の髪を誰かが梳いているような、冷たい指の感触がするようになった。最初は夢かと思ったが、目を開けてもその感触は消えない。
ある朝、目が覚めると、枕元に小さな木製の櫛が落ちていた。見覚えのない、古びた櫛。しかし、どこかで見たことがあるような…そうだ、あの「櫛の館」で、人形のそばに置かれていた櫛と、全く同じものに見えたのだ。櫛の歯には、黒い髪の毛が数本絡みついていた。
震える手でその櫛を掴んだ。捨てようとしたが、どうしても捨てることができない。まるで、その櫛が俺の髪を梳くための、唯一の道具であるかのように感じられた。
それ以来、俺は毎晩、その櫛で自分の髪を梳くようになった。鏡を見ると、俺の目は、あの日本人形のように虚ろで、髪は不自然なほど長く伸びていた。そして、自分の髪から、あの「櫛の館」で嗅いだ、甘く重い、線香のような匂いがするようになった。
夏の夜、時折、遠くから「コツ、コツ…」という、櫛が何かを梳く音が聞こえてくる。それは、俺の髪を梳く音なのか、それとも、どこかで誰かの髪を梳いている音なのか。
あの夏の残影は、今もなお、俺の髪と、魂に絡みついている。
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**実際にあった出来事**
この物語に登場する「髪の毛が伸びる日本人形」の伝説は、日本各地に数多く存在します。特に有名なのは、北海道にある万念寺に奉納されている「お菊人形」です。これは、大正時代に札幌で開催された物産展に出品された日本人形が、持ち主の少女の死後、髪の毛が伸び始めたという伝説があります。科学的な解明はされていませんが、この話は多くの人々の間に語り継がれ、今もなお実話として信じられています。
また、心霊スポットや廃墟を訪れた後、参加者が体調を崩したり、精神的な変調をきたしたりする話は、実話として数多く報告されています。中には、今回の物語のように、特定の場所で見たものや拾ったものと酷似したものが、自宅で見つかったり、自身の身体に異変が起こったりするといった体験談も存在します。